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義務の弾力化とは、硬直的義務を弾力的義務に置き換える事です。 結果を必ずどうしろという形の義務(結果責任)を硬直的義務、結果がどう成る様に努力しろという形の義務(努力義務)を弾力的義務と呼ぶ事にします。 硬直的義務は行為の外形に課された義務、弾力的義務は行為の目的に課された義務です。 既存の法律は硬直的義務の集合だと考えられます。 既存の法律の硬直的義務を全て弾力的義務に置き換えて得られる法規集を「弾力的義務の理論」と呼ぶ事にします。 弾力的義務の理論は努力義務と受忍義務およびそれらの関係から成ります。 努力義務は、被害を減らそうと努力する義務です。 これは、他者の被害を減らそうとする努力と自分の被害を減らそうとする努力から成り、このうちで他者の被害を減らそうとする努力の程度は正(プラス)のある値を超えなければいけない、自分の被害を減らそうとする努力の程度は負(マイナス)値が禁止されているだけです。 受忍義務は被害を受忍する義務です。 受忍義務は、受忍しなければいけない被害の上限を定める。 受忍しないとは努力義務に従わない事である。 受忍義務を超える被害をすると、超過の程度に応じて努力義務が免除される。 また、受忍義務を超える被害を防ぐ為に必要ならば、努力義務に違反してもよい。 受忍義務を超える害を被っていないのに努力義務に違反すれば、その分だけ受忍義務が増やされる。 これは、負の経済学で記述される害の波及に自業自得の形で終止符を打つ道を与える。 既存の法律は加害に着目しますが、私の弾力的義務の理論は被害に着目します。 もともと如何なる法規もその目的は被害を無くしたり減らしたりする事だから、既存の法律が加害に着目するのも目的は被害を減らしたり無くしたりする事です。 しかし加害に着目したのでは被害を減らしたり無くしたりする事が出来ない、というのが義務を弾力化する私の動機です。 私の弾力的義務の理論は、誰もが自分以外の人の被害を減らそうとある程度以上努力すれば、どのひとりの被害も限度内に収まるものだ、という法則に基礎を置きます。 この法則は証明されていないし、確実に成り立つのではなく、そう成らない確率が低いに過ぎません。 しかし、ひとりひとりが自分の義務を果たせば誰の被害も確実に限度内に収まる硬直的義務も、ひとりひとりに出来るのは義務を果たす様に努力する事だけです。 だから、既存の法律の方が私の弾力的義務の理論より保障がシッカリしているわけではありません。 また、ひとりひとりがしなければいけない努力はほんの少しです。 なぜなら、実際には被害が有るのは、正(プラス)の努力が足りないからではなく、負(マイナス)の努力をする人が居るからだ、というのが実態だからです。 誰も努力義務に違反しなければ、誰の被害も受忍義務を超えない。 だから、誰かの被害が受忍義務を超えれば、それは、その人または別の誰かが努力義務に違反した証拠です。 既存の司法では加害の証拠が無ければ加害が有ったと認定しませんが、私の弾力的義務の理論では被害の超過が有った事だけで努力義務への違反を必ず誰かがしたのだと認定します。 既存の法律の禁止リストは、~害罪の集合だと考えられる。 私には、刑法と民法の区別が出来てない等の無知がまだ有ると思いますが、とりあえず「~害罪」の形で認識できる犯罪だけを考える事にします。 「~害罪」について言うなら、加害は「~害」という種類の害を他者に加える事であり、被害は「~害」という種類の害を被る事だ、と考えます。 ここで、被害の方には「他者から」という限定が付いていない事に気を付けて下さい。 つまり、私の弾力的義務の理論では、被られた害の由来を全く問いません。 それが人の加害による物なのか、自然に存在する害なのか、も問わないという事です。 努力義務は、害の種類の各々に対して、その種類の害を自分または他者が被るのを減らそうとする努力の程度の下限を定める。 努力の程度は、個別の選択において被害を減らす事を自分のどの自由目的より優先させたか、および、自分のどの自由目的の方を優先させたかで表される。 ただし、その総量が努力義務を超過すればそれ以上の努力義務は無く成るが、努力の総量がそれに満たなくても優先順序への違反が全く無ければ努力義務への違反は無い、と定める。 自由目的とは、どの自由目的をどの自由目的より優先させてもよい、という条件で定義される目的の事です。 これに対して、義務目的は被害を減らす事です。 それぞれの義務目的をどの自由目的より優先させたかは、優先順位が幾らの自由目的より優先させたかの事である。 自由目的の優先順位は、公定項目についてなら自然数で、そうでないなら実数で表す。 受忍義務は、瞬間、単位時間、1分間、1時間、1日間、1週間、1ヶ月間、1年間、生まれてから現在までの総累積それぞれについて、合計の上限を定める。 受忍義務は、害別にも、全ての害種に渡る合計についても、上限を定める。 弾力的義務の理論も害の指定漏れが有ればそこがセキュリティーホールに成るが、行為の外形の指定漏れを無くすのは不可能であるのに対して、害の指定漏れを無くす事は可能かもしれない。 全体の富をZとし、ひとりが受ける被害の期待値をYとし、ひとりがする努力の程度をXとすると、何らかの関数Fを使って Y = F(X, Z) と書けるはずです。 道路交通での衝突という害を例に取って、Zは全土地の面積など、Yは1人当たりの衝突回数の期待値だと思えば、イメージできます。 Yは、Xが大きいほど小さく、また、Zが大きいほど小さい。 基本的人権によって課される条件を Y≦Y0 とすると、 X ≧ [Y0 = F(X0, Z) という条件で定まるX0] でなければいけない。 したがって、X1≧X0を満たするあるX1と、F(X1, Z)≦Y1≦Y0を満たすあるY1を使って、努力義務を「X≧X1でなければいけない事」として、受忍義務を「Y≦Y1なら受忍しなければいけない事」として、定義する事が出来るので、そうします。 実際には、努力義務は「X≧1.5X1でなければいけない事」とするなど、余裕を持たせる必要が有る。 弾力的義務の理論への違反を取り締まるのが難しいからと言って、それを行為の外形の取り締まりや結果の責任者の地位に有る者の逮捕で置き換えるなら、弾力的義務の理論に違反した本当の意味での犯人は野放しに成り、今後も何回でも罰を受ける事なく犯行を繰り返す事が出来る。 それでは被害は減らないのである。 逆に、弾力的義務の理論への違反を無くす事が出来れば、世の中から戦争すら無く成る事でしょう。 戦争の原因も、弾力的義務への小さな違反の詰み重ねだと考えられるからです。
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最終更新2020年11月28日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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