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2022年09月21日(水曜日)
安倍元首相暗殺事件の不審点4

安倍元首相暗殺事件には、ここまでに私が書いて来た事の他に、もっと根深い疑わしい点が有る。
それは、宇田の
相対正義論の理屈を真に受けるとこれもオッケーって事に成るけど、そんな事は無いですよね、と言いたかったのではないか、という点だ。
特に、
義務の弾力化@相対正義論@持論@学問の内容が思い当たる。

そこに書いてある事の帰結として、次の事が言える。
被害の当・不当と加害の当・不当は一致しない
今日は、これについて説明します。
私の相対正義論では、各人は大した事ない一定の受忍義務と大した事ない一定の協力義務を守りさえすればよい事に成っています。
全員がそれを守れば誰も受忍義務を超えた損害を受ける事はない、と見込んでの事です。
このたび安倍元首相暗殺事件では、山上徹也は受忍義務を超える害を過去に被っており、その事が銃撃の動機に成っている。
銃撃という行為は、私の相対正義論の用語で言えば、協力義務への違反です。
銃撃の様な事をしない義務を含むのが協力義務であり、それに違反していると考えます。
細かい事を言えば受忍義務の超過内容と銃撃という行為の釣り合いを考えねばなりませんが、大雑把に言うと、受忍義務を超過した害を被ったので協力義務が免除される、と考えます。
安倍元首相暗殺事件の場合、釣り合いも十分だろうと私は予想します。

受忍義務と協力義務を全員が守れば、誰も受忍義務を超えた害を被る事は無いのだから、山上徹也が受忍義務を超えた害を被ったからには、誰かが受忍義務という条件付の協力義務に違反したに違いない、と推定できます。
悪いのはソイツであり、全部ソイツのせいだ、と考えるのが私の相対正義論です。
どこかに受忍義務を超えた被害が発生すれば、それは必ず誰かが受忍義務という条件付の協力義務に違反したせいであり、発生した被害の責任はその違反者に有ります。

その違反者を取り締まらずに山上徹也の様な役割の人を取り締まるだけで終わりとする事は、山上徹也の様な役割の人に受忍義務を超えた被害を追加で上乗せする点で甚だしく不条理であるだけでなく、害の湧き出し口である本当の責任者を野放しにするのだから同じ様な犯罪が後を絶たない事に成る。
それではいけない、というのが私の相対正義論です。

というわけで、山上徹也の言い分やマスコミで言われている様な事が本当で、それ以上の事が無いならば、山上徹也の銃撃という行為は正当です。

そう言うと返って来がちな反論に、次の様なのがある。
それじゃあ、銃撃された人の権利はどうなるんだ?
安倍元首相は山上徹也が過去に被った害の責任の一端を担っていたようだが、仮にそうではないとして、安倍元首相には何の罪も無い場合を考えてみる。
その場合、安倍元首相が被った銃撃の害は不当です。

ここに来て、銃撃という加害は正当だが銃撃の害は不当である、という状況が見えて来ます。
これが本当の事です。
したがって、「それじゃあ、銃撃された人の権利はどうなるんだ?」という言い分は誤理屈や屁理屈です。
それなのに、この理屈は今まで通用して来ました。
この理屈を言われてキチンと反論出来る人は実質上は全く居なかった事でしょう。
間違った理屈なのに、それを言われると誰でもグーの根も出ない、そういう状況が世界中でずっと続いて来たわけです。
その弊害がどれほどのものかは、想像するのも恐ろしいぐらいです。
だから私は、これは絶対に正さねばならない、と言っているのです。

2022年07月30日放送分の朝まで生テレビで岩田温という人がした発言に次の様な部分が有りました。
放送開始から1時間50分が経過した時点付近です。
だから、起きたのは、じゃあアメリカとNATOが悪かったと、そういう事ですか?
だったら、プーチンのやった事は悪くないって事ですか?
これは、被害が不当でないならば加害は不当ではない、という論理に成っています。
対偶は「加害が不当なら被害は不当だ」です。
この様に、この間違った論理はありとあらゆる所でありとあらゆる人によって自明の正義として掛け算九九の様に使われて来たわけです。
これは、私が相対正義論で初めて指摘している事だから、気付かなかった岩田温さんをその点で責める事はしません。
分からないのが当たり前、私は天才だから分かっただけです。

ただし、山上徹也が過去に被った損害を見積もるに際しては、地主の家系ゆえに他の人より恵まれていた元の状態からどれだけ減ったかで計算する事には私は反対です。
土地の所有や相続に由来する不公平を私は正義だとは考えません。