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私の弾力的義務の理論では、何罪であるかは何を狙って選択したかによって決まるので、何罪であるかを行為の外形で判断する既存の法律に比べて、犯罪の立証が困難である。 しかし、だからと言って、近年ますます顕著に成って来ている傾向に見られる様に故意であるか否かを端から審査の対象から外したのでは、何も審査しないような物である。 故意であるか否か、そこが一番肝心な所だからだ。 最も肝心な部分が立証困難に成っているのは試練である。 ただし、私の弾力的義務の理論では因果関係を立証する必要が無い点は既存の法律より立証が容易である。 無矛盾性の見地から言って、立証の難度差のせいで法律が防犯から犯罪を守るようではいけない。 一般に、個々の防犯行為が有った事の立証は、個々の犯罪が有った事の立証よりも容易である。 だから、もし、犯罪は無かったのだからその防犯行為は不当であると犯人が主張したなら、防犯側が不利に成ると最初から決まっているのである。 もちろん、それは、犯罪の証拠が無ければその防犯行為はいけない、という論理が採用されればの話で、この論理は間違っている。 しかし、その間違った論理がまかり通る間違った傾向が存在するのも事実である。 私が言いたい事のひとつは、法律がその論理を否定しなければいけない、という事だ。 そうしなければ、防犯側も防犯行為を隠れてコソコソ行なう事に成り、犯罪と防犯の双方が「やってません、やってません」と言いながら犯罪対犯罪の対決をする事に成ってしまう。 それでは、正しい方が勝つのではなく踏み倒す力の強い方が勝つ事に成り、野生動物の様な法律が無い場合の争いとルールが違うだけで本質は何も変わらないのである。 Aを選択するとこんな悪い事が有るからAを選択しない、という言い分には詭弁である物が多い。 not A を選択するとこんな悪い事が有るというのを伏せているからだ。 本当はAとnot Aの長所と短所を比較考量する必要があるはずだ。 核兵器禁止もそれです。 不確実な事態に対処する態度を表す言葉として「念のために」「駄目で元々」「一か八か」などが教訓的である。 私の弾力的義務の理論への違反に対処する態度としては、このうちで「念のために」と「駄目で元々」を採用するのが正しかろう。 「一か八か」を採用するのが妥当なのは、私の弾力的義務の理論の適用範囲を超えた事態が起こった場合に限られるだろう。 現行の司法は、有実である事が百パーセント確実な場合にのみ有罪、有実である確率が百パーセントに満たない場合には無罪と判決する建前に成っている。 それに対して私は、命題Xについて、Xが真である確率が50%より大きいならP(X)を実行し、Xが真である確率が50%より小さいならN(X)を実行する、という方式や、有実である確率の値ごとに対応を決める確率別量刑方式を提案する。 対処の選択肢がN個しか無い場合には、0%から100%までをN個に分割する。 有実である確率がpである場合、有罪であるとして処刑する事の害の期待値は、 (無実の人を処刑する事の害)×(1 - p) です。 無罪であるとして釈放する事の害の期待値は、 (真犯人を野放しにする事の害)×p です。 これらのどちらよりも害が小さい対応を案出したい。 真犯人を野放しにする事の害は、テレビで放送できる様な刑事ドラマの犯人像ぐらいまでなら大した事ないが、何でもかんでもそうだというわけではない。 犯人が、殺るか殺られるかの戦いを仕掛けている場合には、犯人を生かして帰せば後でこちらが殺られる事に成る。 そして、まさに、現状は、この様な殺るか殺られるかの戦いを仕掛けて来た犯人を生かして帰す事を繰り返した為に非常に危険に満ちたものと成っている。 また「疑わしきは被告人の有利に」を標榜しておきながら、疑わしきを原告の有利に働かせている現行司法の実情だと、どういう事に成るか。 例えば、正当防衛の場合、防衛が正当であった確率をpとすると、防衛が正当であったと判決する事の害の期待値は、 (過剰防衛や誤反応を黙認する事の害)×(1 - p) です。 正当防衛ではなかったと判決する事の害の期待値は、 (無実の人を処刑する事の害)×p です。 このうちで、無実の人を処刑する事の害には、正当な自力防衛を萎縮させる効果や先制攻撃を助長する効果が含まれる。 もし、p=0.99でもp=1ではないからという理由で、正当防衛ではないと判決したなら、その害の期待値は (無実の人を処刑する事の害)×0.99 であるのに対して、正当防衛だったと判決した場合の害の期待値は (過剰防衛や誤反応を黙認する事の害)×0.01 です。 これでも正当防衛ではないと判決するのをよしとする事は、正当防衛に限らない一般の問題での疑わしきは罰せずとする態度と正反対である。 名誉毀損の場合は、どうだろうか。 名誉毀損の嫌疑を掛けられている言説の内容が本当である確率をpとすると、名誉毀損だと判決する事の害の期待値は (無実の人を処刑する事の害)×p です。 名誉毀損ではないと判決する事の害の期待値は (名誉毀損を黙認する事の害)×(1 - p) です。 無実の人を処刑する事の害には、人々を危険や不公平に対して盲目にする事や、世間一般の潔癖さのレベルとしてウソを通用させそれに基づいてふっかける犯罪に対して無防備にする事が含まれる。 一方、名誉毀損を黙認する方は、当該言説は事実なんだと公衆に信じさせる力は裁判には無いので、公衆は各自が自分で言説の信憑性を判断できる。 もし、p=0.99でもp=1ではないからという理由で、名誉毀損だと判決したなら、その害の期待値は、 (無実の人を処刑する事の害)×0.99 であるのに対して、名誉毀損ではないと判決した場合の害の期待値は、 (名誉毀損を黙認する事の害)×0.01 これでも名誉毀損だと判決するのをよしとする事は、世の中に存在する不正や実在の人間の優秀さや潔癖さの本当の平均的なレベルを揉み消そうとする犯人への協力そのものである。 名誉毀損は取り返しが付く過ちなので、優先的に防がなければいけない事ではない。 それなのに現行の司法は、正当防衛と名誉毀損の扱いで、疑わしきは原告の有利にという態度を取っている。 改めねばならない所だ。 対応の候補が1つだけ有って、その対応をするか、対応を全くしないか、2者択一の場合には、有実である確率が50%より大きいか小さいかに応じて、するかしないかに分ける、それが妥当である様に、対応の候補の内容を決める、というのも、ひとつの手である。 降水確率に応じて傘を持って外出するか持たずに外出するか変えるのが好例だ。 降水確率の場合には私は、30%なら持って出る、20%なら持って出ない。 そういう決め方に代表される確率別量刑方式では、対応の内容は刑罰ではいけないのではないか。 刑罰よりも取り返しがつく対応が正しかろう。 その様な対応としては、警報する、差別する、被告人以外の人が被告人に対して負う義務を確率に応じた分だけ減らす、被害者候補の避難を保障する、といった事が考えられる。 100%か否かという2値論理の欠点は、立証能力が犯罪の巧妙さを超えていないと何の役にも立たない事や、厳密な意味での百パーセント確実な立証は不可能である事だ。 それに対して50%を境界にする方法が依拠するのは、本当は有実なのに裁判で有実である確率が50%より小さいと判決される確率は50%より小さいはずだ、本当は無実なのに裁判で有実である確率が50%より大きいと判決される確率も50%より小さいはずだ、という理屈です。 この理屈は、どこに書いてあるのを見たわけでもないんだけど、大切な当たり前の事ではないですか。 現行の司法は、この大切な当たり前の事を忘れていませんか、という事なんです。 また、どちらかと言うと有実だな、というレベルで有罪判決を出していませんか。 50%を境界にする事は、「どちらかと言うと有実だろうな」なのか「どちらかと言うと無実だろうな」なのかの2者択一を行なう、という事です。 これなら、判決の的中率が立証能力の高さに左右され難いだろうし、本当は有実な物を無実に見せかける手口や、本当は無実な物を有実に見せかける手口についての最新の知識を判決に反映させる事が出来る。 この原理を発展させると、50%で2分する方法の持ち味を損なう事なく、50%ではない複数の境界で0%から100%までを区切る方法を開発できるのではないか。
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最終更新2020年11月28日 | |||||||||||||||||||||||
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