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2018年12月31日(月曜日)
義務の弾力化と故意、過失、受忍義務 (相対正義論の話)

立ち入り禁止というルールを例に取って説明する。
立ち入り可能領域がほとんどなら「この線より中に入ってはいけません」という言い方で、立ち入り禁止領域がほとんどなら「この線より外へ出てはいけません」という言い方で、立ち入り禁止という規則は表現される。

簡単の為に、これらをまとめて「この線を越えてはいけません」というルールだと言う事にする。

現行法は基本的には、そういう形で書かれている。
この点は現行法の欠点だ。

何故かと言うと、それでは誰かが悪意を持って押せば、押された人は押されさえしなければ線を越えない様に立ち振る舞っていても線を越えてしまってルール違反を犯した事にされてしまうからだ。

だから私は「この線を越えないように努力する義務があり、その努力の上限はコレコレだ」という形の文で法律を書くのが正しい、と考える。
つまり線を越えてしまっても、それを防ぐ為に必要な努力が上限を超えていて、かつ上限まで努力したならばルール違反ではない、という至極当然の事を言いたい。

では何故、現行の法律の様な実用されている法律は努力義務ではなく「この線を越えてはいけません」という形の義務を課すのか?
その理由としては以下の事が思い付く。

・ 悪意の存在について、そこまで疑って掛かる必要は無いだろう、と楽観視された。
・ 犯罪に手段を与える目的で法律に穴が開けられた。
・ 定量的な努力義務に違反している事の立証は難し過ぎて技術的に出来ない。
・ 努力義務の定量化というアイデア自体が思い浮かばなかった。
・ 努力義務は被監督者に軽視され無視される。

努力を定量化せず有無のみで考えるなら被監督者は、努力を全くせずして「努力している」とウソをついたり、軽微な努力しかせずに「努力ならしてますよ」と言って開き直るものだ。
だから努力義務は法律として実用的でない、という理屈には一理有る。

しかし、それは、それで済めばの話だ。
他者を押して線を越えさせる、という犯罪が出て来れば話は別だ。

そういう犯罪は存在しない、と言って犯人はしらばくれるが、現行の法律がそういう犯罪に対して無防備である事と、そういう犯罪をされたと主張する人が居る事は、事実である。
そういう犯罪の存在が立証されなくても、現行の法律は再検討を受けねば成らないとするには、これだけで十分である。

私の相対正義論においては、義務としては結果責任ではなく努力義務を置きなさい、努力義務としては定量的な規定を置き、そして個別ではなく総合計で考えなさい、という言い方にまとめられる考えを今説明しています。

この考えは、現行法にも「正当事由が有ればOK」とか「情状酌量(これは心外でしょうけど)」とか「違法性の阻却」という概念として現れます。
しかし、それは、私の様に原理原則で考えた物ではなく、例外処理が成立する場合という発想に基づくものなので、それでは漏れが出てしまいます。

線を越えないように努力する、その努力量を定める、という考え方は、押した人が故意に押したなら許すが押した人に悪意が無ければ許さない、という風に取り決めるよりも、それらを包摂しかつ補正している、と思います。

限度を超えて強く押されたから線を越えてしまった場合、それを聞いた人は、押した人が故意に押したのでなければ、つまづいて転びそうに成ったとかいう理由で悪意なく押したなら、線を越えてしまうほど強く押されはしなかったはずだとか、確率から判断して後者では有り得ない、と思う事でしょう。

故意になのか悪意なく事故でなのかは、押しの強弱や発生確率に対応しています(故意だと何故罪が重いかを知る手掛かりもここに有ります)が、その対応は完全では有りません。
故意になのか悪意なく事故でなのかは、定義レベルでは、押しの強弱とは一応別です。

その食い違いの部分は、線を越えないように努力する量を定める、という決め方の方が、押した人に悪意が有るか無いかで切り替える決め方よりも正しい。

努力を定量的に扱わずその有無のみ考えたのでは、押しの強さがいわゆる「当然甘受すべき不利益」の範囲内に収まっていても、努力もしてたし押されたんだから線を超えても無罪だ、という間違った理屈を許してしまう事に成ります。
これでは高い確率で発生する悪意のない軽い押しから、線を越えないという結果を、守る事が出来ません。

以上の様に、既存の法理論で「正当事由」とか「情状酌量」とか「故意」とか「当然甘受すべき不利益」という言葉で固有名詞的に理解されている諸々の要素を、私の相対正義論の文脈を使えば少数の大概念だけで統一的にスッキリと理解できます。