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協力のゼロ点問題 害の基礎論的定義は、自分の何かを狙っての選択の結果が狙い通りに成らない事。 これは~害罪で言う害とは必ずしも一致しない。 また、被害は誰のせいでもない場合も有る。 自分の能力が足りないせいで結果が狙い通りに成らない事も害である。 ~害罪で言う各種の害は、個人個人で違う、また時々で違う狙いによって定義される多様な害の最大公約数の様な物だと考えられる。 他者が被害しない様に努力する義務としては、故意の妨害をしない事だけでなく、邪魔に成らない様に努力する義務も有ると考えられる。 しかし、この「邪魔に成らない様に努力する」という事は、正(プラス)の協力をする事に他ならない。 なぜなら、協力の程度がゼロであるとは、他者の選択の結果がその他者の狙い通りに成るか否かを全く考えない事だと考えられるからだ。 それでは他者の邪魔に成ってしまう。 そこで、邪魔に成らない様に十分な努力をするが普通の意味での協力はしない、という態度はどの程度の協力をする事なのか、という問題が生じる。 これが「協力のゼロ点問題」である。 邪魔に成らない様に努力する事と協力する事を区別できない、という原理的問題だとも言えます。 基礎論的には、他者の邪魔に成らない様に努力するとは、他者の何かを狙っての選択の結果がその他者の狙い通りに成る様に狙って選択する事だ、としか言い様が無い。 しかし、これは協力の定義そのものである。 そして、その様に定義すると、他者の邪魔に成らない様に努力する事は、幾ら沢山しても、これで完璧という事は無い。 したがって、もしそれを完璧にやらなければいけないなら、それは、自分の事は二の次にしろ、という事に他ならない。 そんな義務は無いはずである。 だから、どの程度協力すれば十分なのか、という問題が生じるのである。 これは、公共の福祉という法律用語が示す問題と同じだと思われるが、公共の福祉では、どちらがどれだけ譲るか、と考えるのに対して、私の協力のゼロ点問題では、互いにどれだけ協力するか、という視点が得られた事は発見だと思う。 単なる表現の違いに留まらず、善い方へ選択の違いを生む新しい視点だと思う。 弾力的義務の理論で考えるのではなく基礎論的に考えるならば、自由目的と義務目的の区別は存在しない。 その場合には、邪魔に成らない様に努力する義務すなわち協力する義務は、次の様な物ではないか。 人Aにとって優先順位が第J位の目的P(J, A)と人Bにとって優先順が第K位の目的P(K, B)の両方を同時に達成する事が出来ない場合には、J<KならばBはP(J, A)をP(K, B)より優先させねばならない。 しかし、これだと、他者の多くの目的と両立しない目的の優先順位を上位に設定している人が居ると、他の人の権利が制限され過ぎはしないか、という点が疑問である。
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最終更新2020年11月30日 | ||||||||||||
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