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故意の働き どれだけ狙ったかで結果は決まる、と言っても過言ではない。 従がって、狙いを全く取り締まらず行為の外形ばかりを幾ら取り締まっても無駄である。 例えば交通法規の無い私有地内の廊下を歩行していて歩行者同士で衝突する問題について、衝突したか否かの差は実害の有無の差だが、故意に(わざと)衝突したか否かは心の中の問題に過ぎず実害とは関係ない、という意見はどうだろうか。 全く不注意に歩いていても故意に衝突しようと思わなければ実際には衝突する事なんて1回も無い場所という物が有ります。 そういう場所でも、故意の衝突が行なわれれば、実際の衝突回数は幾らでも増加します。 つまり、故意の有無は実害の有無に直結しているわけです。 そして、実のところ、故意であるか否か、そこが最も肝心なのです。 ゴルフのボールがホールに入る事を被害の発生に例えてみます。 ゴルフのホールに自分のボールを入れてはいけないと定めるのが結果責任、ホールの方に向かってボールを打ってはいけないと定めるのが行為の外形の取り締まり、ホールにボールが入る様に狙って打ってはいけない(入らない様に狙わなければいけない)と定めるのが目的取締りです。 ボールがホールに入らない様にする努力の真剣さを最も高めるのは結果責任だが、ホールに自分のボールが入るか否かは持ち主の努力だけでは決まらない。 うっかり自分で入れてしまう可能性がゼロとは言えないだけでなく、他者がボールをこっそり盗んだり強奪したりしてホールに入れれば、結果責任では全部持ち主の責任に成ってしまい、犯人は責任を問われない。 他者が偽造品を入れる事も考えられる。 だから、そういう犯罪は結果責任によって抑制されず、その結果、ホールにボールが入る件数は多く成る。 自分の努力だけでは結果が決まらない事に自分ひとりが責任を負わされるのは不条理である。 この不条理はホールにボールが入る事とは別の被害だと考えられる。 また、その様な犯罪を何が何でも防ごうとすれば、持ち主は何か別の違反をする事に成りかねない。 結果責任では、大勢の人が共謀してホールにボールを入れた場合にひとり当たりの罪が軽いとされてしまう点も間違っている。 その様な被害の集中は狙わなければ実際には起こらないが、結果責任では罪が軽いので狙う人が増えてしまう。 また、犯人が自分の大切なツボを故意に被害者の大切なツボにぶつけて両方を割る、というタイプの犯罪も、結果責任では正しく認識できない。 行為の外形の取締りでは、ホールとは違う方向へ向かってボールを打ってホールに入れる技術を犯人が開発する。 例えば、ボールを木に当てて跳ね返らせればホールに入れる事が出来る。 その結果やはり、ホールにボールが入る件数は多く成る。 木に当てて跳ね返らせる方法も禁止されればまた別の技術が開発される、という風に、犯罪と取締りの関係がイタチゴッコに成る。 また、ホールにボールを入れるのとは別の目的でホールの方へ向かってボールを打つ事が出来なくなって不便である。 この事は逆に、どうしても必要ならホールの方に向かってボールを打ってもよい、という例外を生んでしまい、その例外がセキュリティホールと成る。 実際、そういう例外に相当するホワイトリストが制度化されていたりする。 例えば、パトカーや救急車への交通法規の適用の除外はそれだ。 行為の外形の取締りでは、効果が大きくてもモーションが小さければ取締りを免れてしまう。 ITを見れば分かる様に、行為の外形がどんなに小さくても効果はどんなに大きくも成り得る。 本来は、被害者が死ぬ様に狙ってなら、砂粒をひとつ1ミリメートル動かしただけでも、カサッと小さな音を立てただけでも、自分の顔の表情を少し変えただけでも殺人罪だし、被害者の名誉が毀損される様に狙ってそうしたなら名誉毀損罪だと考えねばならないのである。 イジメ自殺といいう認識は間違いであり本当はイジメ殺人であると私が言うのはその為である。 目的取り締まりでは、違反が皆無でも、ホールにボールが1回も入らないという保障は無い。 しかし、結果責任でも出来る事する事はホールにボールが入らない様に狙う事だけだから保障は無いし、結果責任を悪用した犯人と行為の外形の取締りの網の目をくぐった犯人が目的取締りには引っかかるという意味で目的取締りには穴が無い。 目的取り締まりへの違反が無い場合が最もホールにボールが入る件数が少ないと思われる。 目的取締りへの違反を発見したり立証したりするのは、結果責任や行為の外形の取締りよりも難しいが、本当に被害を減らしたければ目的取り締まりへの違反を無くす以外に手が無い。 スポーツのファインプレイには、狙って出来る事ではない、と言われる物が有る事から分かる様に、ホールにボールが入った事は狙った証拠としては不十分だが、ホールにボールが入る件数が何件を超えればそれは誰かが狙った証拠だ、という考え方なら出来る。 以下では、故意に何かするとはどういう事かを明らかにする。 既存の法律は「他者に加害する事を禁止する」という文型に基礎を置いている。 しかし、これには致命的な欠陥が有る。 それは、「~を・・・する」という形の英文法で言う所の他動詞表現は以下に述べる理由で正確ではない事だ。 そこで私は「他者に加害する」という文型の代わりに「他者が被害する様に狙って選択する」という文型に基礎を置く事にした。 この文型は、例えば「矢が的に当たる様に矢を射る」という文型に倣った物である。 この例文で説明するなら、既存の法律は「矢を的に当てる」という文型で書かれている。 英文法の用語で言って「当たる」が自動詞なのに対して「当てる」は他動詞である事に気を付けて下さい。 「選択する」は「矢を射る」の一般化です。(矢を射た)=(矢を射るという選択をした) 「矢を射る」の一般化なら「行為する」でも良いけれど、行為するのも選択だし、行為しないという選択もまとめて考えたいので、選択という言葉を使う事にしました。 何かを狙って、行為しないという選択をする事が有ります。 例えば、雨に濡れない様に狙って外出をやめる、という場合がそうです。 また、行為する事は選択です。 なぜなら、ある行為をするという選択をしたけれど実際にはその行為をしなかった、という事は有り得ないからです。 実際にはその行為をしなかったなら、その行為をするという選択を後で自分で取り消しているはずです。 取り消すのも選択です。 選択した後で失神したからその行為をしなかったという場合でも、その行為の実行予定時間には、それをするという選択をしていない、と考えられます。 「選択した後で失神した」における「選択した」というのは「後でしようと思った」という事で、私の弾力的義務の理論における「選択した」とは違います。 私の弾力的義務の理論における「選択した」は選択した瞬間に何をしたかを表すのであって、選択した瞬間より後に何をするかを選択したという意味ではない。 だから、後で矢を射ようと決心した事を私の弾力的義務の理論の用語法で言うと、決心するという選択をしたのであって、後で矢を射るという選択をしたのではない。 従がって、行為は選択の特別な場合です。 この意味での「選択する」を私は「自分を運転する」とも言う事にします。 運転が心に限られている場合には「自分の心を運転する」と言い、運転が身体に限られている場合には「自分の身体を運転する」と言う事にします。 しかし、自分の身体が矢を射る動作をするか否かも、自分の一存では決定できない事です。 妨害を受けるなど、自分の身体が外力を受ければ、自分の身体も自分の思い通りには動かないのだから「自分の身体にどういう運動をさせる」という言い方も正確ではありません。 自分の身体がどういう運動をする様に狙って選択する、という言い方なら正確です。 この場合、「選択する」=「自分の身体にどういう運動をさせる」ではありません。 この場合は「選択する」=「自分の脳を運転する」です。 しかし、もっと追究するなら、自分の脳だって自分の思い通りに働くとは限りません。 その点を考慮した正確な言い方は「自分の脳が自分の身体にどういう運動をさせる信号を出力する様に狙って選択する」という言い方です。 しかし、そういう追究は、このぐらいにしておきましょう。 脳を運転するという観点を使えば、共謀罪で、普通の意味での着手が無くても、脳の運転の意味では着手が有ったとする考え方も可能です。 矢が的に当たる様に狙って矢を射るという選択の目的を「矢を的に当てる事」だと言うのが正しい日本語文法です。 目的という言葉の使い方としては、この使い方を採用する事にします。 矢が的に当たる様に狙って矢を射るという選択には、何を射るかの選択や矢を投げないという選択だけでなく、矢をどの様に射るかの選択も含まれています。 既存の法律は「矢を射た」「その矢が的に当たった」という事実だけに基づいて罪を評価しますが、私の弾力的義務の理論では、矢が的に当たる様に狙った事だけに基づいて罪を評価します。 私の理論でも、矢が的に当たる様に狙ったが射なければ罪は無いと判定されますが、矢が的に当たる様に狙って何かしたなら、その何かが何であっても罪は同じだと判定されます。 既存の法律は、矢が的に当たらなかったら「罪は無い」と判定するけれど、私の理論は、矢が的に当たっても当たらなくても罪は同じだ、と判定します。 既存の法律でも、矢が的に当たらなくても未遂罪に問われる、矢が的に当たる事を目的にしたかどうかで故意と過失に識別されるが、それだけでは不十分だというのが私の意見です。 私の弾力的義務の理論には、未遂罪と完遂罪の区別は有りません。 だから、私の弾力的義務の理論では他者が被害する様に狙って選択する事の具体例と被害の間に因果関係が無くても、狙って何かしたら全部罪は同じです。 何を狙ったかで罪は違うけれど、どういう外形の行為をしたかは罪とは関係ないという事です。 狙って何かしたけど、した事と被害の間に因果関係が無かった場合には、それは、狙って矢を射たけど矢が的を外れた事に相当します。 その意味で、誰かが死ぬ様に狙ってワラ人形に五寸釘を打ち込むのは、殺せる因果関係が無いので未遂罪だ、未遂罪だから完遂罪と同罪だ、と考えるわけです。 「~が・・・する様に狙って選択した」と同じ意味を表す為に私は、「~を・・・させる目的で自分の予定を変更して実行した」という言い方も使います。 「~を・・・させる」という目的が無かった場合と実行された予定との食い違いが少しでも有れば、罪は同じです。
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最終更新2020年11月27日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
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