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< 日本物理学会2016年春季大会 > | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本物理学会2016年春季大会での私の発表は、文法物理学についての19aAG-2「離散化された宇田方程式の解」および物理教育についての19pBB-12「学問、教育とカネの問題」の2つだった。 今回は、発表旅行中に写真を全く撮影しませんでした。 AG会場は、東北学院大学泉キャンパス2号館2階223教室だった。 19aAG-2「離散化された宇田方程式の解」では、液晶プロジェクターで資料を掲示しながら、次の様に口述した。
画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
2016年03月19日撮影分(素粒子論)@学会発表の実況@動画 この発表の原型はwww.GrammaticalPhysics.ac > Forum > Problems > Theory of Quantum History Entangled in Time-like Direction > Discretized Quantum Mechanical Solutionです。 質疑応答時間には、次の様な対話が生じました。
19aAG-3「場の量子論はなぜ正しい結論を与えるか」の質疑応答時間に質問した。 その内容は以下。
19aAG-4「ブレーン模型に見る物質粒子の新規な存在様式、及びその人工知能理論への応用」の質疑応答時間にも、批判的な観点を私以外の聴講者にも持ってもらう為に、次の様な質問をした。
この後、発表に含まれていた
この点についてコメントしようと思って、私も挙手したが、時間切れで発言できなかった。 私が言おうとした事は、以下だ。
BB会場は、東北学院大学泉キャンパス2号館4階241教室だった。 19pBB-12「学問、教育とカネの問題」では、液晶プロジェクターで資料を掲示しながら、次の様に口述した。
画像をクリックすると拡大画像が表示されます。
2016年03月19日撮影分(領域13)@学会発表の実況@動画 質疑応答時間には、次の様な対話が生じました。
教育機能と評価機能を分離すべきだ、という私の主張の適用によって学校が失うのは、実質上の卒業資格を付与する権限だけです。 私の主張は、学校は知育以外の教育機能を失うべきだ、という主張ではありません。 私の意見は、個々の学校が独自に卒業資格を発行する事を禁止すべきだ、という意見でも有りません。 評価専門の機関から発行された評価値に比べて、学校独自の卒業資格は人気を失うだろう、という意見です。 これは、英語教育において、TOEFLやTOEICが発行する評価値の方が、学校が発行する評価値よりも人気があるのと同様です。 個々の学校が、自分の発行した評価値(卒業資格も)の人気を、その評価値の有意性を高める事によって、評価専門の機関によって発行された評価値の人気よりも、高くしようと努める事は、全くその学校の自由だと思います。 語学技能や高校までの教科と違って、大学で学ばれる科目は学力テストに馴染まない、という難点が、私の今回の発表内容には有る。 私自身、学生時代、テストが勉強の邪魔に成る、と思った。 テストがあると、勉強し終わった事をいつまでも覚えておかなければいけないからだ。 しかし、試験範囲を狭く限ったテストを多数用意して、公文式みたいに(違ってたらゴメン)、都合の良い時に都合の良い人だけが受験する、という方式なら、そういう弊害も生じないのではないか。 大学レベルでは、単位取得の要件としてテストで一定以上の成績を上げる事を課すよりも、既に実際そうである様に、レポートの提出を課す方が、学ばれる内容に良く馴染む、と思う。 研究して論文を執筆する、という段階の前段階だからだろう。 評価機関にレポートを提出する、という形式が良さそうだが、他人の書いた物を丸写しして提出する、という不正を防ぐ力を強化する問題が残される。 学力主義という事に成ると、実習物の教育効果が無視されてしまい、これでは完全ではありません。 学力の方はどういう過程を修了したかを、学力の直接測定で置き換える事が出来ますが、実習物については、どういう課程を修了したか、という基準で量るしかない、かもしれない。 しかし、原理的には、学校で育てられている属性の全てを学力だ、と定義して、学歴主義ではなく学力主義を、という風に言えば、間違いが減ると思う。 私が言う学力主義は、そういう意味であって、例えば体力は評価されない、という事を言う物ではない。 誰からの授業を何時間受けたか、何を何時間練習したか、そういう基準でではなく、結果として何が出来る様になったか、で評価しよう、という考え方です。 私の主張は「学歴主義ではなく学力主義を」という物であり、これを「学力主義を」という風に要約してしまうと、非常に誤解を招き易い、と思う。 教育の中心は知育だと思う、という私の態度は、発表中には「学問の教育は、その本来の志向性が学者要請コースである」という言葉で、述べられています。 そして、学校とは本来、学問の校だから学校なのだ、と私は思っている。 現在では他の要素も有るけれど、元々はそうであったはずだ。 そして、現在でも、それが根幹であるはずだ。 昔の日本には、女だからという理由で、女子を学校に通わせ渋った親が多かった、という話を聞いた事がある。 そういう親の決まり文句は「女に学問は必要ない」だった、と聞く。 これは、学校は学問の校だ、と考えられていた事の証拠だろう。 学校という意味の英単語「school」と学問という意味の英単語「scholarship」の語幹が同じである事も、その事を裏付ける。 知育と徳育は別だが、何を通して徳育するか、という事に関しては、知育だけが除外されるのも、おかしい。 学校行事だって徳育とは別である。 学校行事を通しての徳育が考えられるなら、当然、知育を通しての徳育だって考えられ、学校という物が始まったばかりの頃は、おそらく、知育を通しての徳育、という考え方が言われていたはずだ。 学問においては、才能についてだけでなく、勤勉さや誠実さといった徳育の対象と成る様な性質について、ボロが出やすい。 だから、知育を通して徳育する、という方式は、なかなか当たっているのではないか。 道徳の科学といった科目を置けば、それは、知育を通しての徳育といった間接的な物ではなく、知育でありながら直接的な徳育でもある。 この様に、徳育は大きく知育に頼る物であり、知育重視=徳育軽視と考えるのは間違いだと思う。 預かり補償金という観点からだけだと、確かに、学費が無料ならば、批判の余地は有りません。 しかし、もし仮に全ての学校の学費が無料であっても、誰かから学問を習わなければ何を発見しても発見したとは認定されない、という事が有ってはいけないのは当然の事です。 そういう批判の意味も私は今回の発表に込めたつもりですが、この点を言えてない事は、冒頭での私の「今回の私の発表は、政治の選挙の預かり補償金の様な働きを授業料がしている、という問題についてです」という宣言の、不完全な所です。 また学費が無料でも、入学試験に合格しなければ自分のやりたい分野を勉強してはいけない、という風に成っているとしたら、それは変です。 独学が実質上禁止されるなら、そういう事に成ってしまいます。 徳育については、学校という物は、新しい人材を送り込む事によって社会の現状の悪い習慣を改善して行く、という役割を担っていると思う。 次の代からはチャンとやろう、という風にです。 道徳は社会人に成ってから社会から教えてもらえ、という方式では、それが出来ない。 そういう意味で、社会で実際に通用してしまっているルールよりは、学校的なルールの方が好ましい、と感じる傾向が私にはある。 こういう点についても、発表会場では上手く言えなかった。 最近では、学校でもイジメの問題が深刻化していて、学校的なルールという物も今では良く分からなく成って来ている。 これは、学校が大人の社会みたいに成って来ている事、悪い習慣の低年齢化、とも言える現象ではないか。 逆に、コンプライアンスの行き過ぎで不具合が生じている、という問題が最近の実社会には生じているらしいが、これは学校的な秩序を社会に持ち込み過ぎた事の弊害ではないか、という風な疑い方も私はしている。 社会の学校化が無制限に善であるわけでもない、と思う。 |
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