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日本物理学会2013年秋季大会での私の発表は、文法物理学についての21pSG-2「量子力学の新文法と観測問題」と、教育についての25aBD-1「体罰批判軸上での教育の取るべきスタンス」の2つだった。
発表旅行中に撮影した写真は、
私の写メール投稿ブログ「即達」の2013年09月部分に掲載されています。
私の発表についてのご意見ご感想は
Wooder!掲示板にお寄せ下さい。

SG会場は、高知大学朝倉キャンパス共通教育棟1号館3階132教室だった。
21pSG-2「量子力学の新文法と観測問題」の講演では、OHPを掲示しながら、以下の様に口述した。
発表の様子は、
学会発表の実況(日本物理学会2013年秋季大会21pSG-2)@動画でも御覧いただけます。

発言タイミング 発言内容 注釈
システム準備待ち中 (座長が私に何か状況を説明している)

はい。(座長の説明を受けて)
はい。
あ、OHPを?
これを押せば良いですか?

いいですか?(座長サイドの準備が完了したか尋ねた)
あ、良いです良いです。(座長の仕草を見て準備OKか尋ねられたと思った)

座長 > 時間が、あと2分ほどお待ちください、時間調整の為に。

はい、分かりました。
ちょっと、暗くしてもらえますか?
OHPが見え難いので。
(座長以外の人によってカーテンが閉められた)
あ、すみません、有難うございます。

はい。(座長の説明を受けて)
はい。
はい、分かりました。
構想のね。
これかな?
ええ、こういう感じで、ちょっと失礼して。

約49秒

これ、笑うかもしれませんが、笑えば笑った分だけ、もし正しければ凄い、いう事に成るんですよね、うん。
笑う気持ちは良く分かります。
これで正しいわけがないだろう、ってね。
それは良く分かるんだけどね。
始めましょうか?

座長 > もうちょっと待って下さい。

約20秒

座長 > もうちょっとお待ちください。

あれ、どうしたんだろう?
一応もう45分(13時45分の事です)は過ぎてますけど。
(この直後にピーというブザー音)

座長 > それでは次の講演に移りたいと思います。
座長 > 次は「量子力学の新文法と観測問題」というタイトルで、www.GrammaticalPhysics.acの宇田さん、よろしくお願いします。

はい。
はい、よろしくお願いします。
私の前の発表21pSG-1で鈴木貞吉さんがOHPを使っているので、ここでシステム調整の必要は無いはずだ、と思った。
座長は、システム調整ではなく時間調整と言っているが、機器を調整している様だったし、定刻を過ぎても私に指摘されるまで始めようとしなかった。

「構想のね」は、どういう意味か思い出せない。
座長から、構想でも練りながら待て、という意味の言葉を言われたのではないか。

「これ、笑うかもしれませんが、・・・それは良く分かるんだけどね」の部分は、少し時間が掛かりそうだったのでクスクス笑う声に反応する形で会場全体に向かって話しかけた物です。
ohp13au-sr-1 www.GrammaticalPhysics.acの宇田雄一です。
量子力学の新文法と観測問題について発表します。
新文法とは、2006年春の年次大会で私が発表した物の事です。
ウェブ上の該当記事は(ohp13au-sr-1の長方形の枠で囲まれた部分を指して)これです。
www.GrammaticalPhysics.acの中のForumの中のProducts of Grammatical Physicsの中のTheory of Quantum History Entangled in Time-like Directionの中のProbability Formula in New Grammarです。
www.GrammaticalPhysics.ac

日本物理学会2006年春季大会

www.GrammaticalPhysics.ac > Forum > Products of Grammatical Physics > Theory of Quantum History Entangled in Time-like Direction > Probability Formula in New Grammar
ohp13au-sr-2 (1行目の式の右辺のφを指して)φを旧量子力学での時間に依存する波動関数とするとき、(1行目の式を指して)この形の汎関数Φで表される新文法版量子力学の量子歴史を考えます。
これは時間方向にエンタングルしていない量子歴史ですので、一般的でもないし、新方程式の解に成る事も出来ません。
エンタングルしていなければ解ではない事は、2012年春の年次大会で発表しました。
この量子歴史は、(2行目の式を指して)時刻tを自由度の番号の様に見てですね、t番目の自由度の状態が(|φ(□,t)>を指して)tを固定した時の座標の関数を波動関数に持つ様な状態である様な直積状態に例えられます。
その様子を表すために、ケットの右下に時刻tを添えておきました。
この量子歴史を、(ケットを縦に積み上げた図を指して)この様なダルマ図、ダルマ落としのダルマの様な記号で表しておきます。
刻みが1/αの離散時間を使う近似で考えます。
αは私が2006年春の年次大会で発表した定数です。
日本物理学会2012年春季大会

日本物理学会2006年春季大会
ohp13au-sr-3 (左上隅の式を指して)φがφjである場合のΦをjで和を取ります。
和を取る前のΦを (左上隅の2行目のΦjを指して)Φjと書く事にします。
φjは、旧量子力学のシュレディンガー方程式の解φ'jをヨレ取り規格化して得られる波動関数です。
(中段の左側の2つの式を指して)これヨレ取り規格化の式なんですが。
ヨレ取り規格化は、普通の規格化に加えて時刻ごとに異なる(exp因子を指して)位相因子を掛ける物で、時間発展に伴う複素平面内での回転をヨレと考えて、それを取り除く規格化であり、(中段の左側の上の式を指して)この式で表されます。
ヨレ取り規格化は、Φj全体に対しては、単一の位相因子だけの変化を与えます。
(中段の左側の2つの式中のE'jを指して)E'jはハミルトニアンの期待値です。
ヨレ取り規格化は、2009年春の年次大会で私が発表したエネルギー不定性問題への答と見なされます。
φ'jとしては、各時刻で状態ベクトルが規格直交基底を為す物を、採用します。
その様に選んでも、{Φ123,・・・}は歴史空間の基底には成りません。
Φは、図で描くと、(中段の右側のダルマ図を指して)このダルマをjで和を取った物です。
今日発表するのは、量子歴史が(上段の全部と中段の右半分を指して)このΦである場合に旧量子力学の結果に一致する様な、遷移振幅の公式です。
日本物理学会2009年春季大会

会場で、発表開始前に、OHPフィルムに「{Φ123,・・・}は歴史空間の基底には成らない。」と、マジックで、書き足した。
ohp13au-sr-4 上段左 1つの時刻を選び、ここでは2εを、これですね、2εを選びましたが、その時刻の状態にブラ・ベクトルを作用させます。

即興で挿入した指示語を取り除くと、次の様に成ります。
「1つの時刻を選び、ここでは2εを選びましたが、その時刻の状態にブラ・ベクトルを作用させます。
作用させた結果得られるスカラーを前に係数として出し、残ったダルマをダルマ落としの要領で詰めます。
この際に、時間と状態の関係がズレている事に注意してください。
選んだ時刻よりも下つまり過去の部分ではそのままですが、上の部分ではズレています。
これをdar(g;2ε)Φjという記号で表す事にします。
複素共役については、下半分に描いておきました。
gの所をfに、jの所をkに、した場合が書かれています。」
上段中央 作用させた結果得られるスカラーを前に係数として出し、残ったダルマをダルマ落としの要領で詰めます。
下にストンと落とすわけですね。
この際に、時間と状態の関係がズレている事に注意してください。
選んだ時刻よりも下つまり過去の部分ではそのままですが、(時刻1εから下ではケットの外の時刻とケットの中の時刻が揃っている事を指して)ここですね、こうそのままに成ってますね、ね、成ってます成ってます、はい、(時刻1εよりも上ではケットの外の時刻とケットの中の時刻がズレている事を指して)上の部分ではズレています、はい、ズレてますズレてます、こうですね、はい。
上段右下
上段右上 これをdar(g;2ε)Φjと、この記号で表す事にします。
下段 複素共役については、下半分に描いておきました、これですね。
gの所を、(上段のgの箇所を指して)このgの所ですね、gの所をfにしてますね、(下段のfの箇所を指して)これfにね、はい。
それから、jの所をkにしてます、(下段のkの箇所を指して)ここですね。
kにしてますね。
これもkに成ってますね、はい。
した場合が書かれています。
(下段の-3εの箇所を指して)2εの代わりに-3εを考えてます。
という事ですね。
ohp13au-sr-5 そして、はい5番。
ダルマ落とし演算をこの様に定義しておくと、前のページの様に定義しておくと、前のページの2つのダルマの積の汎関数積分、(1行目の式を指して)これは、(2行目の式を指して)こういう多重積分だから、時刻別に積分をした物を、全ての時刻に渡って全部積分するのと同じ事ですので、この(1行目の式を指して)1番上のこの積分って、これ汎関数積分ですけどね、はい。
時刻ごとの内積に還元され、(下半分のブラケットを積み上げた図を指して)この様なダルマ図に帰着します、という事ですね。
時刻のズレていない部分が正確にδjkに成る、(ダルマ図の1行目と最後の2つの行を指して)ここの部分はですね、正確にδjkに成ります、これ、時刻がズレてない部分は。
(ダルマ図の赤色の
}記号で指示されている部分を指して)時刻のズレている部分も、j=kの場合だけを考えればよい事に成ります。
この時刻がズレている部分もですね。
(ダルマ図の赤色の
}記号で指示されている部分の中のjとkを指して)一応ここがjとk違う文字で書いてありますが、j=kの場合だけここも考えれば良い、という事ですね、δjkが掛かっているので、何個も。
そして、(ダルマ図の赤色の}記号で指示されている部分を指して)ここの時刻のズレている部分の形というのは、<j,(n+1)ε|j,nε>に成ってます。
これが5つ有りますが、この個数5は、gを作用させた時刻と、(<g|j,2ε>の中の2εを指して)これですね2ε、gを作用させた時刻と、(<k,-3ε|f>の中の-3εを指して)fを作用させた時刻の差÷εです。
これ2ε-(-3ε)をεで割ると5に成る、という事ですね。
即興で挿入した指示語を取り除くと、次の様に成ります。
ダルマ落とし演算をこの様に定義しておくと、前のページの2つのダルマの積の汎関数積分は、全ての時刻に渡って全部積分するのと同じ事ですので、時刻ごとの内積に還元され、この様なダルマ図に帰着します。
時刻のズレていない部分が正確にδjkに成る
ので、時刻のズレている部分も、j=kの場合だけを考えればよい事に成ります。
そして、時刻のズレている部分の形というのは、<j,(n+1)ε|j,nε>に成ってます。
これが5つ有りますが、この個数5は、(gを作用させた時刻とfを作用させた時刻の差)÷εです。」
ohp13au-sr-6 で、(1行目の式を指して)まず<j,(n+1)ε|j,nε>の計算ですが、内積の計算ですが、ヨレ取り前の波動関数で表し、(2行目の式を指して)こうですねえ、時間発展を考慮する、(3行目の左のexp因子を指して)ここで時間推進が入れてます、時間発展を考慮すると、(4行目の式を指して)1+O(ε2)、ε2のオーダーの微小定数を1に加えた物に成るという事ですねえ、だと分かります。
したがって、これを(時間差÷ε)乗した結果は、(1行目の式を指して)これをですね、これを(時間差÷ε)乗した結果、今の場合5乗に成ってますが、εを0に近付ける極限で、1に収束します。
(時間差÷ε)乗する前にεを0に近付ける極限で1に収束するだけなら、(3行目の2つのexp因子を交互に指しながら)ここのexpどちらか片方だけでも、そう成りますが、(時間差÷ε)乗した後でもεを0に近付ける極限で1に収束するのは、(3行目の2つのexp因子を交互に指しながら)ここの2つのexpが打ち消し合うからこそです。
ヨレ取り規格化の目的は、これです。
---
これで、前のページのダルマ図の時間がずれた部分全体を1で近似する事が出来る事が示せたので、前のページの冒頭の式は、ですね、
(ohp13au-sr-5の1行目の式を指して)これが前のページの冒頭の式ですねえ。
近似的に、こう書けます。
(ohp13au-sr-5の1行目の式を指して)この冒頭の式は近似的に、まだkとj分けてたんだ、(ohp13au-sr-6の中段の第2行を指して)この様に書けます、という事ですね、はい。
(ohp13au-sr-6の中段の第1行を指して)これが前のページの冒頭の式ですね。
(ohp13au-sr-6の中段の第2行を指して)この様に書けますと。
---
(下段の最初の等号を指して)この式、ここの等号について、ちょっと説明します。
和を取る前にダルマ落とし演算を施しても、ダルマ落とし演算を施した後で和を取っても、結果が同じに成る様に、ダルマ落とし演算を定義する事が出来ます。
講演概要に、そういう定義を書いておきました。
1つ目の等号は、それによります。
(下段の最初の等号を指して)この等号はそれに依ります。
2番目の近似等号は上の段で求めた式に依ります。
(下段の3行目の近似等号を指して)ここの近似等号はですね、(中段の全体を指して)これを使ったという事ですね。
(中段の近似等号を指して)この、これを使ったという事です。
その後、kでの和を実行すると、δjkの効果で、
(下段の3行目のΣkを指して)このk和を実行すると、(下段の3行目のδjkを指して)ここδjkが有るので、(下段の4行目の式を指して)この様に成ります、という事ですね。
4番目の等号、(下段の5行目の等号を指して)これですね、4番目の等号は、ヨレ取り規格化する前の波動関数を用いた式への書き換えです。
(下段の5,6行目の2つのexp因子を指して)この様に、ヨレ因子が復元されています、これですね。
ヨレ因子が復元されています、はい。
この後は旧量子力学の計算です。
(最後の2つの辺を指して)これとこれ、という事ですよね。
(下段の7行目のUを指して)Uは時間推進演算子で、これを使って、この部分の時間を揃えておけば、
(下段の7行目のUを指して)この時間推進演算子を使って(下段の7行目の|φ'j(□,-3ε)><φ'j(□,-3ε)|を指して)ここの部分の時刻を揃えておけば、この部分がjで足した時に、
(下段の7行目の|φ'j(□,-3ε)><φ'j(□,-3ε)|を指して)この部分、jで足した時に1に成りますので、
これで、(最終行の<g|U(2ε,-3ε)|f>を指して)旧量子力学の|f>から|g>への遷移振幅と(最終行のexp因子を指して)位相因子しか違わない結果が得られました。
位相因子しか違わないので、絶対値二乗して確率を求めると同じに成ります。
即興で挿入した指示語を取り除くと、次の様に成ります。
『で、まず<j,(n+1)ε|j,nε>の計算ですが、ヨレ取り前の波動関数で表し、時間発展を考慮すると、1+O(ε2)に成る、と分かります。
したがって、これを(時間差÷ε)乗した結果は、εを0に近付ける極限で、1に収束します。
(時間差÷ε)乗する前にεを0に近付ける極限で1に収束するだけなら、ここのexpどちらか片方だけでもそう成りますが、(時間差÷ε)乗した後でもεを0に近付ける極限で1に収束するのは、ここの2つのexpが打ち消し合うからこそです。
ヨレ取り規格化の目的は、これです。
---
これで、前のページのダルマ図の時間がずれた部分全体を1で近似する事が出来る事が示せたので、前のページの冒頭の式は、近似的に、こう書けます。
---
和を取る前にダルマ落とし演算を施してもダルマ落とし演算を施した後で和を取っても結果が同じに成る様にダルマ落とし演算を定義する事、が出来ます。
講演概要に、そういう定義を書いておきました。
1つ目の等号は、それによります。
2番目の近似等号は、上の段で求めた式に依ります。
その後、kでの和を実行すると、δjkの効果で、この様に成ります。
4番目の等号は、ヨレ取り規格化する前の波動関数を用いた式への書き換えです。
この様に、ヨレ因子が復元されています。
この後は、旧量子力学の計算です。
Uは時間推進演算子で、これを使って、この部分の時間を揃えておけば、この部分がjで足した時に1に成りますので、これで、旧量子力学の|f>から|g>への遷移振幅と位相因子しか違わない結果が得られました。
位相因子しか違わないので、絶対値二乗して確率を求めると同じに成ります』

「ここで時間推進が入れてます」は日本語として変です。
「ここに時間推進が入れてあります」の言い間違えだと考えられます。

2016年04月05日に内容をチェックしていて、最後のj和の実行で位相因子がjに依存している事が考え落とされている事、に気付いた。
ohp13au-sr-3, 6 結果をまとめると、Φとして、この3のですね、(ohp13au-sr-3の上部と右部を指して)これですね、Φとして、この3のΦを使うと、汎関数を選ぶと、6の最下段の冒頭の式、(ohp13au-sr-6の最下段の冒頭の式を指して)この式が、位相因子を除いて(ohp13au-sr-6の最終行を指して)旧量子力学の遷移振幅に近似的に一致する、という事です。
Φの選び方には、解に成っていない、特殊すぎる、という難点があります。
3枚目のOHPでのΦの選び方が特殊すぎる、という点については、結果を不変に保ったままΦの範囲を広げる事が出来るかもしれません。
近似的にしか一致しない事は、ダルマの抜きズレに起因するものであり、新理論と旧理論の対応原理的な意味でのズレを表している、と解されるべきものではなく、新理論が旧理論にも増してますます解釈というものを拒む性質を持っている事を表している、と解されるべきだろう。
新理論と旧理論の対応原理的な意味でのズレは、むしろ、Φは新方程式の解ではない、新方程式の解は時間方向にエンタングルしていなくてはいけない、という事情によってもたらされるものだろう。
即興で挿入した指示語を取り除くと、次の様に成ります。
『結果をまとめると、Φとして、この3の汎関数を選ぶと、6の最下段の冒頭の式が、位相因子を除いて旧量子力学の遷移振幅に近似的に一致する、という事です。
Φの選び方には、解に成っていない、特殊すぎる、という難点があります。
3枚目のOHPでのΦの選び方が特殊すぎる、という点については、結果を不変に保ったままΦの範囲を広げる事が出来るかもしれません。
近似的にしか一致しない事は、ダルマの抜きズレに起因するものであり、新理論と旧理論の対応原理的な意味でのズレを表している、と解されるべきものではなく、新理論が旧理論にも増してますます解釈というものを拒む性質を持っている事を表している、と解されるべきだろう。
新理論と旧理論の対応原理的な意味でのズレは、むしろ、Φは新方程式の解ではない、新方程式の解は時間方向にエンタングルしていなくてはいけない、という事情によってもたらされるものだろう。』

近似的にしか一致しない、という特徴は、α→∞の極限では解消されると思われます。
新理論が解釈を拒む性質を持っている、というのは、ダルマ落とし方式での解釈が、それ以上には正しくは出来ない、というだけであって完全に正しいわけではない、という考えです。


画像をクリックすると拡大表示されます。
講演概要

21pSG-2
日本物理学会講演概要集・第68巻・第2号・第1分冊・8ページより。
OHP

OHP-sr-1


OHP-sr-2


OHP-sr-3


OHP-sr-4


OHP-sr-5


OHP-sr-6

2013年09月21日撮影分@学会発表の実況@動画

質疑応答時間には、鈴木貞吉さんと私の間で、以下の様な問答が行われた。


発言者 発言内容 注釈
鈴木 我々の時代はですねえ、積分定数っていうのがあったんですよねえ。 -
宇田 積分定数?
我々の時代もありましたよ。
-
鈴木 積分定数はゼロに成ってくという事は、私がさっきお話ししたように、ユニットイクオールゼロだと、両辺にCを掛けるとC=0だと、そういう点では宇田さんの意見と合ってると思うんですよね。 -
宇田 私のどこが積分定数ゼロに成ってましたか? -
鈴木 いや、積分定数出て来ないじゃない。 -
宇田 積分定数は、これ、出て来ないのは、不定積分じゃないからなんですが。
定積分なので積分定数が出て来ません。
それは鈴木さんの時代にも定積分には積分定数は出て来なかったはずなんですけど。
我々の時代だけでなくて。
-
鈴木 積分定数は付いて来ますわな。 -
宇田 定積分の時には付きません。 -
鈴木 だから、その、いわゆる積分定数は積分では、微分積分では出ないと思うんです。
だけど、微分積分を解かずに、原爆を作っちゃったわけですよ。
欧米の微分積分を解かないで、解かずに原爆を作っちゃったと。
その原爆を作った文明の余韻としてね、まだずっとこの微分積分は、続いてると思うんですね。
例えば雑誌を見れば、微分積分でみんな書かれてるわけですよ。
私にしてみればね、微分積分を書いたらその後に、代数の連立方程式で説明しろと、ね。
-
宇田 微分積分を書いたら代数の連立方程式でせ、どういう事でしょうね? -
鈴木 方程式でさらに積分をしろと、そうじゃなければね、原爆の余韻を享受する、そういう流れはね、変わらないだろうと。 -
宇田 原爆を作るのに微分積分を使わなかったのに、なぜ微分積分は原爆の余韻なんでしょうか?
その辺りもちょっと、呑み込めないです。
鈴木さんの発言内容の非一貫性を指摘しています。
実際には原爆を作るのに微分積分は使われただろう、と思います。



2013年09月21日発表後帰路、井原鉄道で清音駅から御領駅まで帰る途中で、「次は終点の井原です」というアナウンスが流れたので井原駅で降車したのだが、途中で降車すると初乗り1回分が加算されるのではないか、と疑問に思い、降りる時にその事を運転手に尋ねたら、「御領駅では差額の90円だけでよい」と言われた。
800円払って井原駅で降りると、車体の掲示板には「神辺行」と書かれていたので同じ車両にまた乗った。
「終点です」というアナウンスが嘘だったのではないか。
私は今まで井原鉄道に何度も乗ったが、井原駅が終点だった事は一度も無い。
その後、運転手が「今800円で乗り放題のチケットが出てるので90円は要りません」と言い出した。
御領駅で降りる時にもそう言われたが、「出てても買ってないので」と言いながら、念のために90円も払って降りた。
その時には、「念のために」程度にしか考えなかったが、後で、私に支払義務違反をさせるための罠だったのではないか、と思う様に成った。
子供の頃に、この手口の話を聞いた様な気がする。
2013年05月17日の、やはり、この時間帯に、清音から御領に向かう井原鉄道の車両に乗っていた際にも、井原駅で長停車した際に不審青年男性2人組が酔っ払いを口実に私の荷物の上に過失を装って故意に座ろうとする等の調略を弄して来た。
その際に、私が調略行為を完全に見切ってかわしたのを見た時の運転手の負の表情も不審だった。
今回も、私の右隣に不審老婆が来て座った際に、私が上着の右腰ポケットを踏まれない様に引き退けたのを見た時の運転手の表情に似た特徴が見られた。
朝倉を出るのが予定よりも早かったので、井原鉄道も乗ったのは予定よりも早い便だった。

井原鉄道を御領駅で下車し、自転車に荷物を積み込んでいると、御領駅の北西に隣接する民家から幼児虐待の疑いのある幼児の断続的泣き声が長長と聞こえて来た。
幼児虐待の疑いのある幼児の声は、私の自宅の自室や自寝室に、南方の民家から頻繁に聞かれていた時期もあったが、今はほとんど無い。
もともとは、私が千葉に住んでいた時に、聞こえ始めた。
その頃は気付かなかったが、今では、私に対するものである、とハッキリと認識している。
単に嫌がらせるだけの嫌がらせか、トラブルに巻き込んで私を陥れるための罠だ、と思っている。
今回は、証拠としてICレコーダーで鳴き声を録音しようと音源に近付いたが、録音開始しようとすると声が止んだ。
自宅に聞えて来る鳴き声もそうだった。
上り列車が来た時には、まだ聞こえていた。

また、その後、御領駅から自宅まで自転車で帰る途中にも、午後08時14分頃、暗闇の中で、
自宅前通りの路面荒れの箇所(Google地図での位置≒34.560155,133.404289)の右脇(西脇)を徒歩下校少女が歩いていて非常に危険だった。

南向きに走行していた私がこの路面荒れを避けるために右に寄ると徒歩下校少女に自転車で追突する事はほぼ必至であった。
案の定である。
この路面荒れが私を陥れるための物だ、という先入観を事前に持っていなかったなら、衝突を回避する事はまず出来なかっただろう、と言われるべき状況だった。
その直前にGoogle地図での位置≒34.560502,133.404608に不審4輪車両が来ていた。
そこへ向かって、交差点の西から子供が走り抜けた。
この交差点はGoogle地図ではまだ道が繋がっていないが、実際には随分前にもう繋がっている。
その様子は、
私の写メール投稿ブログ「即達」の2012年04月05日の記事の写真で見る事が出来ます。
その不審4輪車両は、滞在時間が非常に短かそうだった。
走り抜けた子供をピックアップするという体裁を取っていた様に見えた。
車両の型は多分軽乗用車。
子供が走り抜けた時、私は丁度、交差点の北の道路の西に隣接する民家の敷地から頭を覗かせていた不審自動車のナンバーを読んでいた。
もし、そうしていなかったら、子供が交差点を通過したタイミングは、私が交差点を通過するタイミングと一致していたであろう。
したがって、この走り抜けた子供も当たり屋である。
参考:
05日@2013年01月@日記

日本物理学会2011年秋季大会では私は、1つ目の発表を終えた後いったん自宅に帰り、2つ目の発表のために自宅で休憩して体力を回復させた。
その自宅に居た期間中に、外部の水道管を我が家の水道管に接続する工事らしい工事を、我が家の敷地の出口付近でやっていた。
農業用水路のコンクリート壁を動力付き機械で削る異常にけたたましい音がしていた。
その時、私は、壁を隔てて直線距離でそこから数メートル程度の位置のソファーに横に成っていた。
その位置から離れた自室に戻る際には、まだ作業と音は続いていた。
この件には、次の様な不審点があった。

(1)それまでは水道管は農業用水路の底の下を通っていたが、それをやめて、農業用水路の上を通す管を新設していた。
(2)作業員が「手が痛い」と言いながらやっていた。
(3) 1つ目の発表への出発前に同じ場所に対して工事が2度も行われていた。

(1)は、コンクリートを切削する際に出る騒音をどうしても出したかった、からだろう。
水道管を、農業用水路の底の下を通さず、農業用水路のコンクリート側壁を切削して横断させた為に、流水断面積の著しい減少という信じ難い不合理が生じている。
過去には農業用水をこの水路の上端スレスレまで流しているのを見た事があるが、たった1箇所の水道管工事で、もうこれは不可能に成った。
誰も文句を言わないのだろうか?
それとも、後で私に難癖を付けるための布石なのだろうか?
大雨での増水時にも、水路から水が溢れ易く成ったはずだ。
(2)については、普通ならしない事を無理してやっている事がハッキリと分かる嘆息調の「いってゃーのー(痛いなあ、という意味の方言)」という独り言だった。
騒音を聞いていて、音の大きさが普通ではないまでに大きい事と、持続時間も不自然に長いので手が痛くて当然だ、という事が私にも分かった。
私の父と母についても同様だが、我が家の南方近所の民家内に潜伏している何者かから指示されてやっているらしい、と思った。
なぜ従うのかが今でも疑問だ。
金でももらったのだろうか。

日本物理学会2013年秋季大会では、1つ目の発表が終わった後、2つ目の発表に行く前に、私の自宅の物陰に
幼女向きの不審なキックボードが置かれ始める、という事があった。






BD会場は、徳島大学常三島キャンパス総合科学部1号館3階309教室だった。
会場に到着した時に、ブラインドが全て全開にされて部屋中が光に満ち満ちている事に気付いたので、これでは室内が明る過ぎてOHPの表示が見えない、と思い私が自分で全て閉めた。
そろそろ、故意にされている、と思い始めている。
21pSG-2の時もそうだったし、それ以前にも、ここ数年は、こういう事が増えていた。
座長さんが来てから、OHPの準備を依頼すると、OHPの準備は座長の仕事ではありません、OHPの準備はアルバイトの仕事です、という意味の意外な返答が返って来た。
この返答で一瞬にして私の頭は、それ相応モードに切り替わった。
即座に私は「ではアルバイトの人に依頼して下さい」と切り返した。
もし、それもしない、という事であれば、私が自分でアルバイトの人に依頼に行けば済むだけの話だった。
この後だったか、これより前に自分でチェックしようとした時だったか、OHPを表示したときにスクリーン上に盲点が2つ出来ていて、ピントもぼけていて、このままではOHPでの発表は無理だ、と思った。
その様子は
私の写メール投稿ブログ「即達」の2013年09月25日の記事の写真で見る事が出来ます。
発表開始予定時刻が近付いてから私は、発表開始時刻が来たら直ぐに発表開始できるようにと、自分のノート型パソコンを会場の設備に接続して動作チェックをした。
その直ぐ後に25aBD-2の講演者が、その人のノート型パソコンを会場の設備に接続して動作チェックをしていた。
25aBDセッションの最初の講演は私だったので、それが終わるのを見届けてから私は、25aBD-2の講演者の動作チェックによる機器設定の変更を元に戻そうとした。
元に戻そうとしたのは、パソコンへの2つの接続端子のうちのどちらからの信号を会場の設備がスクリーンに表示させるかを切り替えるスイッチのポジションだった。
そのままではスクリーンに自分のノート型パソコンの内容が表示されなかったからだ。
それを見た座長が、既にスイッチの位置は元の位置に戻っている、という意味の言葉を、私に怒鳴りつけた。
これに対して、私は、今までに何度も経験して来た同様の態度と指紋がピタリと一致したため、こんな所でもまた来たな、という風に一瞬にして怒りが頂点に達した。
それは、譲る義務の無い何かを何処かで私が目上の人に対して譲らなかった事に対して、その目上の人とは別の人で私と同世代か私よりも年下の人が別の機会に別の場所で別の件で、不当に私を罪人の様に扱う態度を取る事だ。
ここでは、もしスイッチの切り替えを私が誤ったとしても、設備が壊れたり他の発表者に迷惑が及ぶ事は無いので、座長の怒鳴りつけるという態度は不当であった。
私はあまりに腹を立てたために、おそらくよほど怖い顔に成っていたのだろう。
私は一言も発しなかったが、私の顔を見て座長は急におとなしく成った。
その様子を見てだろうと思う、もう一人の青年男性が、私の顔が良く見える位置まで移動してそこに立って、液晶プロジェクターにするかOHPにするか、どちらかに決めてもらう必要がある、と言って、私に尋ねて来た。
発表中に自分で選択する事も可能なはずなので、どちらかに決めてもらう必要がある、という部分は不審であった。
どちらかに決めさせる事によって発表開始時に立ち往生が生じる確率を上げる事が出来るのではないか、とか、返答に窮させる事によって心理的にまたは時間的に発表に支障を出させよう、とか、私の表情を自分の目で確認して私に不利な証言を後でしよう、という魂胆の存在を私は感じた。
もし私が慌てて「OHPにします」と答えて自ら液晶プロジェクターを使用する道を断っていたならば、先述のOHP不調によって発表は失敗していただろう。
それを狙われたのだろう。
明らかに、座長が食い止める事が出来なかったのでカバーに来た、という行為だった。
一人に対して複数で当たる、という行為が正当なのは、悪に対する場合のみである。
それ以外は、それ自体が悪である。(そういうルールの参加拒否が任意のゲームは別だが)
私は即座に、出来ればOHPで、それが無理なら液晶プロジェクターで発表したい、という意味の事を柔和な態度で答えて、あっさり片付けた。
私は、液晶プロジェクターで発表するのは本件が初めてだ。
だから、私の発表を妨害しようとした者は、私が液晶プロジェクターで発表する可能性を考え落としていて、そうされると妨害は回避されてしまう、という事情が背景にあったと考えられる。
私の発表が始まってから、少し講演を進めた辺りで、近くの聴講者の鼻をすする音が聞こえた。
その時の私は、25aBD-2の講演予定者のだろうと思った。
私の講演は妨害によって防がれるはずだったのに、現にこうして講演が始まっている、その事を信じるには、それだけのタイムラグが必要だったのだろう。
あれだけされて全部かわして私が予定通り講演している事は、そのぐらい信じがたい光景だったに違いない。
それと同時に、その鼻すすりの主は、妨害の存在を知っていた、という事に成る。
それが25aBD-2の講演予定者だったとすると、私の動作チェックの直後の動作チェックも妨害工作だったと考えられる。


25aBD-1「体罰批判軸上での教育の取るべきスタンス」の発表では、液晶プロジェクターで自分のノート型PC内の画像ファイルを表示しながら、講演概要を途中まで読み上げ、補足コメントもした。
口述内容は、講演概要の読み上げを基軸とし、随所に補足説明を差し挟む形式で行った。


発言タイミング 発言内容 注釈
「証拠である」まで読んだ直後。

ohp13au-13-2を掲示して。
これはですね、この様な、足音が聞こえる→食事が出る→唾液が出る、という条件付けに対して、足音が聞こえると唾液が出る、という条件反射が形成される、という心身のメカニズム、こういうものが背景にあって、前提にあって、そして自然な学習では、ミスの結果失敗をし、失敗の結果痛い思いをする、という条件付けに対して、ミスをすると痛覚記憶が再生され失敗の回避につながる、という、こういう条件反射が起ると。
具体的に言うと、制限速度を超えて交通事故を起こして痛い目に会ったという経験によって、そういう条件付けによって、制限速度を超えると痛かった事を思い出して減速して失敗回避、という条件反射が起ると、これが自然な学習で。
体罰を用いた教育においては、ミス→体罰→痛覚という条件付けに対して、ミス→痛覚記憶の再生→失敗の回避という、こういう条件反射が形成されると考えられます。
具体的に言うと、計算を間違えビンタされ痛かったと。
それを、計算を間違えそうに成った時に痛かった事を思い出して、そのミスに気付く、という、こういう事ですね。
「痛覚を通して学ぶ、というやり方が有効だから人体に痛覚があるのだ、という意味です。」というコメントを用意していましたが、読みそびれた。

最近、私の周りに、病気にしたり事故に合わせたり犯罪者に仕立て上げる事によって私を抹殺しようとする人々、がうろつきます。
左記の私の意見が誰かにとって不都合である事も、その原因の1つであり得る、と考えます。
このジャンルの発言に対してそういう事が起こる事は、多くの人にとって論外な事であるでしょう。
だから、犯人は、そういう犯罪の存在を知られない様に隠すのです。
隠す事はまた成功率の温存のためでもあります。
知られない事によって襲われた人は不意を突かれ、知った時にはもう死んでいる、という具合です。
過去に、病気や事故で死んだとされている人や、犯罪者として葬り去られた人の中には、そうやって殺された人が必ず何人も居るはずです。
そして、多くの人にとって意外でしょうけれど、教育というジャンルは、そのぐらい汚れている、と私は見ています。
正義の先生も居るんだけど。
また、そういう抹殺業は、完全な隠ぺいは不可能だから、破たんするはずです。
NSA事件に見られる様に、積極的に暴露する攻撃を受ければ、ひとたまりも無いでしょう。
「主作用まで否定は出来ない」の直後

ohp13au-13-2を掲示して。
手の動かし方を間違えると手を物にぶつけて手が痛い、というのが自然な条件付けだが、手の動かし方を間違えると足を叩かれて足が痛い、というのが体罰であり、私の言う、失敗の内容と痛覚の内容の食い違い、とは、この事です。
自然にはそこが痛くなるはずがない場所が体罰では痛く成る。
この事によって、痛覚からの警告を活かす心身のメカニズムが、体罰においては、騙し起動されます。
計算ミスすると、先生から「狼が来たぞ」と言われる、という風に考えると分かり易い。
痛覚と失敗の内容の食い違いの分だけ、体罰は狼少年である。
この観点から、体罰には狼少年効果と呼ぶべき副作用があるのではないか、と私は推測します。
この他に、体罰の副作用として、心的肉体的ダメージ、というものは、間違いなく有るでしょう。
体罰の非効率な点は、苦労が増える事によって苦労対効果比が低下する事です。
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「という観点からのみだろう」の直後 体罰機能付きトレーニングマシーンという表現は、もちろん比喩です。
コーチをトレーニングマシーンに例えた比喩です。
この観点からコーチが批判を受けるとすれば、それは、過度の自傷行為をほう助したかどで、だろう。
コーチが体罰機能付きトレーニングマシーンを演じている具体例としては、小泉今日子主演「少女に何が起ったか」第8回開始後12分経過時点付近のシーンに出て来ます。
「区別する必要がある」の直後

ohp13au-13-3を掲示して。
体罰機能付きトレーニングマシーンの自発任意採用の場合には、体罰の重度(重さ)のみが問題であるのに対して、強制の手段としての体罰の場合には、体罰の重度(重さ)だけでなく、義務以上の事を強制していないか、という点も問題と成る。
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(OHPの「責任能力」を指して)当事者の責任能力を超えた契約は無効である、との観点から、この基準を書いておきました、責任能力という物ですね。
これは、法定限度を超えた金利での貸借契約が無効である、という理屈に見られる考え方です。
私は、もともとは、自由に制限を付けない代わりに責任にも制限を付けない、責任に制限を付けない代わりに自由にも制限を付けない、という正義感の持ち主だったが、今では、その無理な点も認めるに至っています。
相手が子供の場合には、責任能力の低さが契約の自由に加える制限というものは間違いなく、あって然るべきでしょう。
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(OHPの「事前に知らされたか」を指して)入部前に事前に生徒に体罰の実態と途中退部の自由の有無が知らされていたか、という、こういう条件です。
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途中退部の自由の有無は、体罰機能付きトレーニングマシーンに予定をキャンセルして練習を中断する機能が備わっているか否か、であって、上記2つのうちのどちらなのか判断には関係ない。
つまり、体罰機能付きトレーニングマシーンを生徒が自主的に自分で採用した事に該当するのか、それとも、先生が生徒に何かを強制するための体罰であるか、どちらなのかを判断する事には関係ないでしょう、という事です。
ただし、事前に知らされる内容には、これを含めて考える必要がある、と思います。
この、入部しない自由が有るか無いか、という、生徒にそれを知らせたか知らせなかったかという事ですねえ。

「どちらなのかの判断」を誤って「どちらなのか判断」と言ってしまいました。
「義務の範囲を考える事に等しい」の直後

ohp13au-13-4を掲示して
強制の手段や強制の形態としての体罰の正当性は、義務の範囲によって定まる。
刑罰としての逮捕・投獄というものを考えれば分かる様に、学校教育での、という制限を付けずに、一般の義務と罰の関係を考える時には、我々の社会は、体罰を否定はしていない。
義務を果たす必要性が大きければ大きいほど、義務違反に対する罰は重く成り、義務を果たす必要性が小さければ小さいほど、義務違反に対する罰は軽く成る、べきである。
社会全体としては、その際に、罰の上限として、体罰より軽い値が指定されているわけではない。
義務違反によって生じる損害が体罰によって生じる損害よりも大きい場合には、体罰によって生じる損害のみを取り上げて体罰を否定する論法が間違いである事は、明らかである。
なぜ私がこんな当たり前の事を言うかと言えば、学校教育での体罰を批判する際に、学校教育でだからいけない、という理由付けではなく、体罰だからいけない、という理由付けで批判する人が居るからだ。

違反の軽重と罰の軽重の対応関係は、責任能力の点を除いては、学校内であるか学校外であるかによって変わるものではない。
学校教育における罰が体罰未満であるべき事は、生徒の教育種の義務を果たす必要性が重罰によって強制されるべきほどまでには大きくない事に由来する。
したがって、学校内であろうと、本来は、教育種以外のもっと重い違反に対しては重い罰が対応しているべきであるが、それを実行する権限を持つ者が学校内には居ない。
この事は、学校内での体罰がいけない、という主張に根拠を与えるが、それは背理法的な意味に解されるべき事である。
つまり、体罰がいけない、という風に解されるべき事ではなく、居ないのがいけない、という意味に解されるべき事である。
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「といった観点からの判断に成ろう」の直後

ohp13au-13-4を掲示して
嫌なら途中退部すればよいという論理は体罰を正当化し得るか、という問題については、まず、それ以前に、途中退部の自由が成立していたか、という問題がある。
途中退部の自由は保証されていなければ、いけない。
その上で、体罰機能付きトレーニングマシーンの任意採用に該当しない場合には、途中退部の自由があっても、その事は、それを生徒が知る前の体罰を正当化する理由には成らない、という事と、(ohp13au-13-4の右下の枠内の「自由に途中退部・・・知る前に加えられた物」を指して)これはだからここですかね。
途中退部の自由によって正当化される部内強制の内容は生徒の部に所属する権利の分だけ制限される、という事が言えるでしょう。
(ohp13au-13-4の右下の枠内の最後の2行を指して)これはこれですねえ。
部が生徒の入部を拒否する自由の小ささは、生徒の部に所属する権利の強さを表している、と考えられる。
そして、それは、学校の部活動の部では、一般の場合と違って、ゼロではないだろう、つまり、拒否するには正当な理由が必要だろう。
そして、その分だけ、嫌なら辞めればよい、という理由による部内強制の正当化が困難に成る。
「という事と・・・という事が言えるでしょう」という風に繋がっています。
愚鈍に対する罰と怠惰に対する罰と犯罪に対する罰の違い、については、愚鈍としては、先天的な固有の愚鈍のみを考えます。
怠惰の結果の愚鈍に対する罰は、怠惰に対する罰であり、愚鈍に対する罰ではない、と考える事にします。
犯罪としては、先生や他生徒に故意に損害を与えたり、損害を与えない様に努力する義務を故意に怠る事を考えます。
(ohp13au-13-4の右下の枠内の「先天性の愚鈍を戒める物。」を指して)愚鈍の所というのはこれですねえ。
犯罪についてはohp13au-13-4右上の枠内の業務防衛の項目が対応しています。
親権によって生徒に生じる義務、については、まず、親が道具を用いて自分の子供に体罰を加える権利、というものが親権に含まれるか否か、という問題があります。
次に、含まれるならば、の話として、親が体罰を加える様にコーチに依頼する事、つまり委託体罰は、コーチを道具と考えれば、親が道具を用いて自分の子供に体罰を加える行為とみなされる。
委託体罰の許容範囲は、大雑把には、それを親が直接自分の子供に行使したとしたらDVなのか、という基準で判断できよう。
親が直接したらDVなものを先生がしたら、それはDV代行であり、戸塚ヨットスクールの事件は、そう疑うべきものだ。
その基準で判断して許容範囲を超えた委託体罰については、責任の所在は、親が道具を用いて自分の子供に加えた体罰がDVに成ってしまった場合に、その責任が道具の使用者である親にあるのか、製造物責任法の意味で道具の製造者にあるのか、を個別具体的に判別する問題、に翻訳して判断すべき。
教師が親に無断で体罰を実施している場合には、この線での正当化は有り得ない。
(ohp13au-13-4の右下の枠内の「親権の乱用に由来する体罰」を指して)DV代行というのはこれですね。
委託体罰についてはohp13au-13-4右上の枠内の委託体罰の項が対応しています。

責任の所在については、道具の使い方が悪かったから、という理由と、道具が悪かったから、という理由の、どちらなのかを判断する、という事です。
そもそも道具を用いたからいけない、というのが答えである可能性もあり、その場合には、使用者に責任がある事に成る。
競技用動物の調教の人への適用という非人間的行為の否定、については、この条件は、体罰機能付きトレーニングマシンの生徒による任意採用に該当するか否か、を判定するための条件でも、義務の範囲を特定するための条件でもありません。
短距離走で背中にヤキゴテや拍車を当てる事が許されれば、走行成績は向上するだろう。
しかし、それではいけない、のは明白だ。
体罰で強く成る、というのは、本質的には、これに該当するので、いけない。
調教を、ドーピングと同罪かドーピングの一種だ、と認定するのが良いのではなかろうか。
練習過程や競技において選手本人の自由意志が、積極性や創意工夫についてであれ、弱さについてであれ、外的強制力によって完全に封じられてしまったなら、その種目は、外部からのインプットに対する肉体のアウトプットを単に測定しているに過ぎない身体測定に堕してしまう。
それは、膝頭を叩いて足が何センチ跳ね上がるかを測定する事や、カエルの死体に電気を流して脚の伸びる勢いを測定する事と、同類であり、競技者が作る文化、の名には値しない。
体罰は心理的ドーピングである、という見解を述べています。

「競技者が作る文化、の名には値しない」という部分は「それでは、スポーツ文化に競技者が作る側面が無くなってしまう」と言った方が良かった。
「結論を言えば・・・いけなかろう」の直後


ohp13au-13-4を掲示して
この表には、それ以外の事も書いてますが。

体罰の是非についての私の意見は、この表の如くです。
現在表示している物です。
網羅性は主張しません。

体罰機能付きトレーニングマシーンの生徒による任意採用に該当する場合は、それを生徒が自分で自分に対して行なったとしたらどうなのか、に応じて体罰の正当性を判定します。
(ohp13au-13-4の左半分を指して)こっちの左側の(ohp13au-13-4の左上の枠内の文を指して)これと(ohp13au-13-4の左下の枠内の文を指して)これですね。
約束を守る義務への生徒の違反に対しては、それが自分に出来る事と出来ない事を前もって予測する能力の不足による場合は、それは愚鈍や怠惰に相当し犯罪ではないから、体罰は行き過ぎです。
詐欺や自己都合による約束履行放棄については、どうしても放置できないなら、するべきは訴訟であって体罰ではなかろう。

強制の手段としての体罰については、今度は、(ohp13au-13-4の中央の罫線を指して)この線より、中央のラインより右の話ですが、(ohp13au-13-4の右半分の最上段のタイトルを指して)一番上にこう書いてありますけどね、はい。
体罰は、罰としては最も過酷であるので、果たす必要性の大きい義務への違反に対してのみ正当性を持つ。

愚鈍ではない義務というものは無い。
怠惰ではない義務というものは、果たす必要性が小さい。
果たす必要性が大きいのは、犯罪しない義務だけだ。

これに応じて、正当な体罰としては、犯罪に対する体罰と、怠惰に対する親権由来の体罰が考えられるだけだろう。
怠惰に対する親権由来でない罰は、義務を果たす必要性の小ささから、否定される。
愚鈍に対する体罰というものは、親権由来であってもなくても不当だ。
犯罪に対する罰、というのは、教育ではなく、警察に属する。
したがって、教育が正式に担当する体罰としては、怠惰に対する親権由来の体罰が考えられるだけです。

これも、親が自分の子供に直接加える体罰というものが一律DVだという事にでも成ると、親権由来の体罰という物も存立し得ません。
この点は、どこまでがDVで、どこからがDVではないのか、の判別に応じて、変わる話です。

学校で生徒が負う義務としては、親権由来の義務、義務教育を受ける義務、犯罪をしない義務、が考えられます。
義務教育を受ける義務については、その範囲は、出席する事までぐらいでしょう。
しかし、出席義務違反は、怠惰のレベルに過ぎないので、これに対する罰としては、体罰は行き過ぎです。
それに、義務教育を受ける義務は、小学校と中学校だけです。

犯罪に対する罰は、教育の担当ではなく警察の担当ですが、だからと言って、学校内で起こった犯罪は誰も罰する事が出来ない、という事ではいけません。
ここに、業務防衛としての体罰が、正当防衛や自然自衛権の文脈で、やむを得ず生じる余地があります。
これは、スポーツ強豪校が競争力を高めるために行なう体罰とは全然違います。
業務防衛は業務内容ではないから、先生に業務防衛体罰の権限が与えられていない、という権力の空白の問題が本質的である。

クラスメートをナイフで脅した6年男子児童の頭を叩く体罰をしたとして、大阪市都島区の市立小学校の校長が2013年7月25日付で戒告処分を受け、31日付で依願退職した件については、こういった観点からも議論が尽くされる必要があろう。


約束を守る義務への生徒の違反は、OHPでは、ohp13au-13-4の左下に位置付けられています。
詐欺や自己都合による約束履行放棄についても、教育現場は、そういう事をしてはいけないんだ、という‘物の道理’を教える場でもあるが、体罰権限が付随する程までに先生にそれを教える義務が課されているとは思えない。

愚鈍だけでなく虚弱についても考えるべき。
生来の虚弱を罰する事も不当です。
優劣軸と善悪軸に分けた時、悪を罰する事は正当だが、劣を罰する事は不当です。

怠惰に対する親権由来の体罰は、OHPでは、ohp13au-13-4右上に、委託体罰の項として位置付けられています。

義務教育を受ける義務に違反した事に対する体罰は、OHPでは、ohp13au-13-4の右下枠内の冒頭に位置付けられています。

業務防衛体罰は、OHPでは、ohp13au-13-4の右上枠内の業務防衛の項として位置付けられています。
教育現場は、犯罪をしてはいけない、という‘物の道理’を教える場でもあるが、現状では、体罰権限が付随する程までに先生にそれを教える義務が課されているとは思えない。

本質的な加害者がナイフで脅した生徒なのか、脅された生徒なのか、どちらなのか、という観点も重要だ。

さて、教育が正当裡に行なう体罰としては、業務防衛体罰と委託体罰の2つが、可能性として考えられる事に成ります。
形式的には、まだ両方とも禁止されている様です。
また、学校には委託体罰を引き受けるのを拒む自由もあるでしょう。
委託体罰は業務内容に属します。

原則を言うと、権限が無ければ責任も無い、責任を持たせるなら権限も与えろ、責任と権限の一致、という事が大切だ。
生徒がナイフで脅される事が無い様に責任を持て、と言うなら、ナイフで脅す生徒を抑制する権限も与えなければ、筋が通らない。
この観点から、保護責任体罰というものが有り得る、と思う。
この部分は、時間不足の為に会場では言えなかった。

「権限が無ければ責任も無い、責任を持たせるなら権限も与えろ、責任と権限の一致、という事が大切だ」という意見は、テレビの討論番組で聞き、その通りだと思いました。
それ以前から自分でもそう思っていたかは、思い出せません。

保護責任体罰は、OHPでは、ohp13au-13-4の右上枠内の保護責任体罰の項として位置付けられています。
自発性を育てない、の直後 自発性を育てない、という事は、致命的な欠点ではない。
自発性を育てる別の方法を併用すればよいだけだからだ。
罰を用いた教育の問題点は、自発性を育てない事ではなく、自発性の優れた生徒に自発性の劣った生徒を勝たせる八百長である点だ。
つまり、単に自発性を育てないだけでなく、自発性を積極的に埋没させるのが、罰を用いた教育だ。
この部分は、時間不足の為に会場では言えなかった。

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講演概要

25aBD-1
日本物理学会講演概要集・第68巻・第2号・第2分冊・340ページより。
発表されたOHP

OHP-13-1


OHP-13-2


OHP-13-3


OHP-13-4
発表されなかったOHP


時間不足のため発表会場では掲示されなかった。



25aBD-1「体罰批判軸上での教育の取るべきスタンス」の発表では、ここまでで発表時間を使い切ったため、質疑応答は全く出来なかった。

発表前の準備段階では、ソレダケノモン方式コーチングについても、口述内容の候補がメモされている。
また、誰もが思うが誰も言わない事として、オリンピックでの体罰発覚は他国選手からの指摘による物だったので、これは体罰を受けた選手を擁護する為の行為ではなく、敵チームを失格にする為の行為だったのではないか、疑り深く見ると、日本に体罰を止めさせて自分たちはこっそりやろう、そうすれば勝てる、そういう魂胆なのではないか、という視点、もメモされている。

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最終編集2016年04月05日