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2013年02月14日(木曜日)
トレーニングを試合化しろ
不正な手段によって競争力を高める行為というものの弊害が、最近の体罰問題で、浮き彫りに成っている。
そこで、スポーツの試合で競ってもよいのは何か、を明確にする事によって、そういう弊害の発生を未然に防ぐ事を考えてみた。
つまり、試合中だけでなくトレーニング過程にも厳密なルールを設定する、トレーニングの試合化、という発想だ。
以下による能力のみを競う、という理念を置くべきだ、と思う。

・選手の先天的な素質の結果。
選手の自由意思による選択の結果の累積。
・コーチが選手にした説明の効果の累積。
・トレーニング設備や練習環境の有効さの結果。

オリンピックに出場する選手について言うならば、入団契約を金銭の貸借契約に倣って、次の様に成る。

・コーチは選手に、入団後の練習メニューの全体を見せる。
・選手は入団後の積極度について約束をする。
・コーチは、選手本人や選手についての資料を見て、その選手が約束を守れるかどうか査定する。
・その結果を勘案して改めて、選手はコーチに入団後の積極度について無修正または修正された約束をし、コーチは選手に入団後の練習メニューについて無修正または修正された約束をするか、または、契約を断念する。
・入団後どちらかが約束を守れなくなったら、その時点で契約を破棄し、貸し手責任の原則に倣って、それ以上は追及しない。
 ここで契約が破棄されず契約の続行が強要された場合は、反則トレーニングとみなされ、出場できなくなる。
・練習メニューは、コーチが選手に命令する形式ではなく、コーチはただ自分が知っている事を選手に説明するのみで、選手はコーチの説明を見聞き体感した上で、何をどれだけするかは自分で決める。
 選手には、コーチの教えを間違いだと判断して採用しない自由もあるが、入団時積極度申告でコーチの説明を全て信用する、のチェックボックスをオンにした場合は、信用しなければ違約に成る。
 信用した上で採用しない自由はあるが、勝てる見込みの算定はコーチ主観で行なわれるため、採用しないと評価が低くなる。
 その評価の減分を考慮しても、なおコーチ主観での勝てる見込みが及第点に達している場合に、自分の教えを却下したから、という理由で勝てる見込みを正直値よりも低く申告すれば、それはコーチによる反則行為である。
・コーチの説明には、選手がした選択とその結果に対してコーチ主観での勝てる見込み(金、銀、銅各メダルが取れる推定確率)、が含まれている。
・積極度については、別途、客観的科学的な評価基準が必要であり、上記確率そのままではない。
 命懸けでやります、とか、何でもやります、というのはだめで、選手は積極度指標を数値で申告しなければいけない。
・コーチは、勝てる見込みを感じるままに正直に言う義務を負い、選手の積極度を上げるために故意に正直値よりも低くまたは高く言う事は不正行為とみなされる。
・不正行為があれば、オリンピックへの出場権を失う。
・積極度の指標は、客観的で当事者にとって分かり易いものであれば何でもよいが、それで問題があるならばオリンピック公認の指標を導入する。
 当事者にとって分かり易い、という条件から、長期間変更されない公認指標である必要があるかもしれない。
・コーチは、入団希望者の中から、選手が約束した積極度と、選手の約束を果たす能力や先天的素質や入団前到達済み能力についてのコーチ側による査定結果を、基にして算出したメダル獲得確率が高い人から順に優先的に採用する。
 あくまで、メダル獲得確率が高い人から順に、であって、その算定根拠に使った個々の優秀性への評価が、その基準よりも優先されてはいけない。

試合のレベルは、以上の極めて市場原理的なメカニズムによって決まり、その結果、たとえ、その種目に集まる選手の能力や意欲が素晴らしくなくても、それは、その競技がそれだけのもの、そのコーチがそれだけのもの、その選手がそれだけのものだ、という風に観念しなければいけない事なのだ。
それを、「お前、それだけのもの、と言われて悔しくないのか」という風に責め立てたら、もう立派な反則だ。
選手から「でも、それが私なんです」と反論されたら、選手が入団契約時の積極度の約束を破ってない限りは、その反論の方が有効である。
宇田が「それだけのもの」って言ってるよ、と知らせるだけなら良いけど。
「それだけのもの」と言われて悔しいから積極度を上げるなら、元から「それだけのもの」ではなかった、コーチの説明が足りなかっただけだ。
結果的には、それだけのもの、の内容は、大したものに成るだろうよ。

これだと強い者が勝つ。
けれど、正しい。
これを歪めれば、即不条理である。
強い者が勝つのではいけない、と言ってる人のやっている事は、その言葉の見かけの美しさもっともらしさとは正反対の、そういう不条理だ。
つまり、強い者が勝つのではいけない、という意見は、具体的に言うとボロが出るので具体的には言えないものなのだ。

詩の様に書くと、

強い者が勝つのではいけない?
ああ、そうですか。
それで、強い者が勝つのを防ぐために何をするんですか?
不正行為以外に何も無いじゃあないですか。
それを具体的に言ってごらんなさいよ。
こんなにひどい。

って話です。

オリンピック憲章に「オリンピックは、選手本人の先天的素質と自由意思による選択の結果の累積による能力のみ、を競う」という条項を置くのが良い、と思う。

見る人が、オリンピックの金メダリストって素晴らしい人だな、人間って素晴らしいな、と思える様な、本来はそういうものが目指されているはずなのだから、それって選手本人の素晴らしさなのか、という反論を受けて然るべき要素を徹底的に排除する事は、当然である。
脅された故の行ない、騙された故の行ないは、それが如何に表面的に優秀であっても、行為者の素晴らしさではない。
脅された故の犯罪や騙された故の犯罪が、あまり責められないのと同様である。