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2022年01月26日(水曜日) | ||||||||||
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想20 | ||||||||||
11日@2022年01月@日記の前半に、「まだ実例が知られていない種類の事についても、最初から有ると分かっている可能性はひとつも切り捨ててはいけない」という意味の事が書かれています。 だから、誰かが精神病である可能性も、誰かの認識が被害妄想である可能性も切り捨ててはいけない。 けれど同時に、それらが冤病である可能性も切り捨ててはいけないのである。 そして、悪い事は、有ったか無かったか、どちらかと言えば、有ったと考える方が当たっているものである。 火の無い所に煙は立たない、とはこの事を言った諺(ことわざ)で、科学の法則ほどには正しくないけれど、火を見るまでは煙をデマだと判断しろという方が間違いなのも明らかなのだ。 最初から有ると分かっている可能性を人はなぜ切り捨てるか。 ひとつはエコヒイキだ。 これについては、23日@2022年01月@日記に書かれている共犯者や希望的観測をする第3者の部分で説明されています。 もうひとつは、切り捨てないと答えが出ない、しかし答えを出さないわけには行かない、というジレンマです。 ここに目を付けて、スクイーズしてフライイングさせる、という考え方を犯人はしている、と私は思っています。 --- 11日@2022年01月@日記の序盤に『「思う」系の証拠は事実がどうであったかを知る手掛かりに成り難い、というなら分かりますが、・・・』と書かれています。 しかし本当は、「思う」系の証拠は、手掛かりに成り難いのではなく、証拠能力が低い、証拠としてのランクが低い、と書くべきでした。 ここに訂正しておきます。 思う種の証拠の方がものすごく手掛かりに成る、なんて事は多いかもしれない。 例えば身の回りの小動物が一斉に逃げ出したら、それは危険が迫っている証拠です。 人が危ないと思う感じる、というのは、小動物が本能的に逃げ出すのと同様の現象であり、これも証拠ではある。 「思う」というのは、相応の物質的な変化が脳に生じた、という事であり、リトマス試験紙の色が変わったというのと同じ種類の事です。 物質の反応は証拠だが脳の反応は証拠に成らないなんて主張は屁理屈だから、そんな事を言う人は極めて怪しいのである。 また最近ではディープラーニング方式の人工知能が出力する結果の信用が高まって来ているが、この事は皮肉にも、人間で言うと科学的でないとして徐々に排除が進められて来た「勘」という種類の証拠の復権だと見なせる。 ただし、誰かが「・・・だと思う」と発言した事は、その人が本当にそう思ったかどうかとは別だから、厳密には発言種の証拠であって思う種の証拠ではない、としておく慎重さが必要です。 思わない事を「思う」と発言するウソは可能なのだから。 --- 12日@2022年01月@日記の後半に大阪や関西や大阪の医療業界に私が疑惑の目を向けている事が書かれている。 何年前だったか、学会発表の帰路、下り(西進)新幹線車内で、京都と大阪の間ではなかったか、ここから西日本なので携帯電話の回線が切り替わるとかなんとかいうアナウンスを聞いた。 それ以前にそんなアナウンスを聞いた事は私には1回も無い。 電力の周波数がそれ以前からずっと西日本と東日本で60Hzか50Hzかという形で違うのは知ってたけど。 新幹線車内で聞いたそのアナウンスには不気味さを感じた。 また、いつ頃だったか、国会図書館の関西分館というのが出来た。 それ以前は、国会図書館と言えば、東京に1個有るだけだった。 テレビから聞こえて来る関西弁の比率が激増している。 方言も別に良いじゃないか、地方を差別するなよ、という事なら一理有るが、それにしては関西弁以外の方言は聞かない。 まるで標準語を関西弁にすげ替えようとしているかの様だ。 ドクターフクシマが「大阪だけは入れない」と言った、日大不祥事に関西の医療業界の人が絡んでいた、関西の医療業界って何なんだ、という疑問の答えは、ひょとすると、関西は故障修理経済に依存する病気に掛かっている、という事なのかもしれない。 故障修理経済が修理の益によってではなく経済的価値によって重んじられると、それは、不正に故障を増加させたり故障ではないものを故障だと偽る犯罪の動機と成る。 そういう犯罪を抑え切れなく成った社会は、人体に例えると、飢えて自分の体を食べる様に成った状態だと言える。 オートファジーの仕組を解明した事で大隅良典さんが2016年にノーベル賞を獲った事も、こういった世相と連動しているのではないか。 故障修理経済と損害賠償経済に加えて、危険対処経済や犯罪防犯経済や犯罪刑務経済という言葉も作ってみた。 もっと有るか、別の漢字を使う方が良いかなども、考えてみたい。 --- 10日@2022年01月@日記の中盤に、劣人主主義者は「自分の屁理屈を正しいんだ(屁理屈ではない)といつまでも思っていたい」と書かれています。 相模原障害者施設殺傷事件の植松聖被告なんかも、その具体例だろう。 ただし、この人は劣人主主義者ではないかもしれない。 植松聖被告の言い分は「自分が何者であるかも分からず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけなので、殺害した方がよい」という内容だったと思う。 裁判で殺人罪が裁かれても、この様な意見は裁かれない。 まあ思想の自由だから、特定の思想を持つなとか、別の特定の思想を持てとか、そういう要求を公権力は出来ないが、言論も自由なのだから、公権力でなくても私人でよいから、しっかりした反論を発表するべきなのだ。 どこがどう間違っている、という事を言わずに、まともでない人に有りがちな思想の類型に当てはまるとか、そういうのはよく見かける。 しかし、それは逆に最近問題視されている誹謗中傷に過ぎないのではないか。 どこがどう間違ってるのかを、言うのが正しい。 例えば、植松聖被告は、費用対効果の意味で、殺された障害者の生存は保護者が掛けた手間に見合わない、だから殺すべきなのだ、という事も言っていると聞いた。 これについては次の様な反論が出来る。 誰かがレストランで2千円のステーキを注文しようとするのを見たが、そのステーキには2千円の価値は無いと思ったので、注文できない様に妨害した、というのは間違った行ないである。 そのステーキが2千円では高過ぎるかどうかは、買う人にとってどうかという問題であって、他の人がどう思おうが、買う本人が「それでよい」と思ったならば、その値段で買うのはその人の自由なのである。 その自由を奪う事は犯罪であり、その方が迷惑なのである。 私の場合、言う機会が有れば、こういう事を言って来た。 すると、周囲の傍観者が「そう言うちゃるな」「言うちゃるなよーろーが」とか「これ以上は言うな」とか言うんですよ。 これがいけないんです。 それまで中立だと思われた傍観者が実は劣人主主義者で、それらの人は、犯罪の発生源に成る様な間違った考えを種火として温存しておこうとしている、私が種火を消してしまうのを防ごうとしているらしい、という事です。 「言うちゃるな」というのは「言ってやるな」という意味です。 「よーろーが」は「(と私が)言ってるじゃないか」という意味です。 「これ以上は言うな」という制止を振り切って私が発言を続けると、「ああ!言うたあ!」と怒鳴りつけられて、それは、お前の行為は賊法に対する重大な違反だから覚悟しとけよ、という宣告に違いなかった。 「自分が何者であるかも分からず、意思疎通がとれないような障害者は、生きていても社会に迷惑をかけるだけなので、殺害した方がよい」という植松聖被告のメインの言い分への反論は、時間を掛けて良く考えた方が良いが、とりあえず次の様な事が言えるだろう。 社会の為に成るか社会の迷惑に成るかを判断する基準の根幹は、社会の構成員の各々の為に成るか迷惑に成るかです。 殺された障害者も、その障害者の保護者も、社会の構成員である。 したがって、それらの人々に嫌がられる行為は、社会の為に成ってない疑いが極めて強い。 殺された人の生存が社会の残りの部分の人々にとって嫌がられていたならば、合計としては、社会の構成員に好まれる事をした、と言えるかもしれないが、殺された人の生存は社会の残りの部分の人々にそんなに嫌がられていないだろう。 動物愛護を考えてごらんなさいよ。 大抵の人は、動物にすら生存していて欲しいものなんです。 さらに、殺された人の生存が社会の残りの部分の人々に嫌がられていたとしても、社会の残りの部分の人々は、それらの人が生存し続ける事よりも、そんな理由で殺人してもよいというルールが通用する事の方が、ずっと怖くて嫌です。 そんなルールが通用したのでは、いついかなる理由で自分が殺されるか分かったものではない、毎日他人の顔色をうかがってビクビクしながら生きて行かなければいけない、からです。 だから、やはり、社会に迷惑を掛けたのは植松聖被告の方である。 この様に、植松聖被告に伝えて欲しい。 ただし、能動的に迷惑を掛けるのではなく足手まといに成るという形で受動的に迷惑を掛ける人を殺すのは間違っている、という正義観も、何者かがそれを能動的に悪用して他者の足を引っ張ろうとする場合には、話は別です。 それでも、足手まといに成ってる人を殺すのではなく、ルールを能動的に悪用した(狙った)人を殺すべきでしょう。 |
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