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2022年01月28日(金曜日)
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想21

10日@2022年01月@日記の中盤に私は
法に含まれる全ての規定はどれも法の規定として等しく尊重されねばならないのに、それら規定の間にエコヒイキを設け、そのエコヒイキによって人をエコヒイキする、この様な屁理屈が見られます
という意味の事を書きました。
その具体例としては、言論の自由だけでなく集会の自由も有る、という事の他に、次の実例も有ります。
日本国憲法第14条に「法の下の平等」として「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」という規定が有る。
このうちの人種による差別や性別による差別は厳しく批判される様に成ったが、社会的身分による差別は全く批判されないどころか逆に批判した者が非常識だと言われてしまうのが現状である。
この事情が
23日@2021年12月@日記で、さらに具体的に説明されています。
男女差別発言への厳しい批判がテレビから聞こえた時に私が「は?」と思うのは、このためです。
私は元々男女差別にも反対だったが、お前らは違ったじゃないか、それに社会的身分による差別の事は今でも何も言わないじゃないか、それだけじゃない、他にも一杯あるじゃないか、と思うからです。
一方では法のある規定を笑って無視しその規定に基づく態度を犯罪の様に扱っておきながら、自分達に都合の良い別の規定は当然だとして尊重を要求しその規定への違反には目くじらを立てる、それも、どの規定を尊重してどの規定を無視するかを都合によってコロコロ変える、これでは法治ではなく人治である。
社会的身分による差別がいけないなら、社会的身分の違いに応じた対人態度の使い分けは、どういう理屈に従がえばよいだろうか。
私は次の様に考える。
AさんがBさんの雇用者である場合、BさんがAさんに売るそれぞれの役務の如何が、Bさんにとってはあまり重要ではないがAさんにとっては非常に重要だ、という事がありがちだ。
この時、
30日@2021年11月@日記に書かれている原理によって、その役務の如何を尊重する義務がBさんには生じる。
これが社会的身分の違いに応じた対人態度の使い分けの根拠だ、と私は考える。
社会的身分による差別を禁止するとは、社会的身分の違いに応じた対人態度の使い分けのうちで、その様な使い分けではないものはどれも強制されてはいけない、という事だと私は考えている。
つまり現代法的正義観では、雇用者の権利が被雇用者の権利よりも相対的に強いのは、雇用者が被雇用者に対して無防備に成る、という不平等を補って公平性を回復する、という目的に限っての事である。
雇用者が被雇用者に対して持つ実質上の権力は、雇用者が被雇用者から不当に損害を与えられた事が裁判で認められる、という形で究極的には表現される事を見れば、その事が良く分かろう。
雇用者が被雇用者を叱り付けるのは、雇用者が「いやあん」と言う意味においてだけだ。
あくまでジャイアンにラジコンカーを貸したスネオという構図なのである。
ジャイアンが被雇用者で、スネオが雇用者だ。
雇用者は被雇用者より偉いからどうの、という理屈は封建社会の理屈であって、いま裁判で雇用者がそれを言えば、自分の方が負けて恥をかくだけある。
従がって、実際には従業において無防備を強いられるのは被雇用者の方であるからには、同じ理屈が逆向きにも適用される。
この事を雇用者は忘れてはいけない。
社会的身分による差別の禁止という法の規定を真に受けず無視する人は、そこで止まってしまうので、こういう事を考えないんだよね。
だから進歩が無い。
差別を禁止する、という法の規定については、それでは少し考えが足りないのではないか、と私はいつも思っている。
それは、「防犯目的の差別」と「正当な競争におけるルールや審判のエコヒイキ」を区別しなければいけないのに、その点が考え落とされている事だ。
例えば、パソコンに入れて使うセキュリティソフトが不正からパソコンを防御する方式は差別だと言える。
色々なソフトウェアを危険なソフトウェアと安全なソフトウェアに振り分けるのは怪しさで振り分けている。
これは差別方式だと言えます。
この様な差別が防犯目的の差別だ。
つまり、差別は防犯の基本なんですよ。
だから、こんな当たり前の事をするな、という発言は、実はものすごく怪しいんです。
誰でも最初はそう思うはずなんだけど、聞き慣らされて思わなくされてるんですよ。
防犯目的の差別には被差別者は
出来るだけ協力するのが正しい、と私は考えている。
あくまで「出来るだけ」ですよ。
例えば、白人が白人専用の地域や建物を作ってそこに避難して「お前は黄色人種だから白人専用の地域や建物には入るな」と言って来たら、それはそれで良い、「そいつは良いアイデアだ」と言って従う事に私は不満は有りません。
その代わり白人は別のここには入るなよ、としておけばお互い様なんだから。
「不快だ」とか言ってそれに目くじらを立てる人には、不快と犯罪と一体どっちの方が重いんだ、と言いたい。
本来国というものは、そういう風にして遺伝子で規定される人種別に防犯目的の住み分けを行なう装置であったはずだ。
その点、今みたいに成ってしまったのは、本はと言えばイエス・キリストが悪いんじゃないのかと思うんですよ。
この様な防犯目的の差別と違って、オリンピックの試合で審判が特定の人種をエコヒイキするとか、特定の人種が負ける様に狙ってルールを決めたり改定したりするとか、そういう事は有ってはいけない事です。
学問の研究競争とか、知的所有権の獲得競争とかでも、そうです。
この様な有ってはいけないエコヒイキ差別を防犯目的の差別とごちゃ混ぜにして混同させる屁理屈も、劣人主主義者の工作に違いない。
ここを直さないと他を幾ら発達させたり改善しても絶対に上手く行かない、そういう所をこっそりつかんで離さない、それが昔から劣人主主義者のやり口なんです。
話は変わるけど、男女差別への批判も、劣った男と劣った女が優れた男と優れた女を攻撃する手段である面が有る事に気を付ける必要が有る。