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2022年01月10日(月曜日) | ||||||||||
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想5 | ||||||||||
本日執筆開始時刻20時20分。 時間が無いので肝心な事だけ書きます。 今日のテーマは、下賎の手口全般の防ぎ方です。 現代司法は、法と証拠に基づかなければいけない事に成っています。 しかし私は、正義と事実に基づく方が本当だと思っています。 法と証拠に基づく事は、正義と事実に基づく為の手段だと考えられます。 だから、ここからは、正義と事実に基づく事を司法の原理だとして話を進める事にします。 下賎の手口は、正義についての屁理屈と事実についてのウソの2種類の不正から構成されている、と考えられます。 このうちで正義についての屁理屈には、公法(自由や私有権)を真っ向から否定する「自分達の勝手な賊法」と、07日@2022年01月@日記に書かれている様な「かく乱目的の屁理屈」の2種類が有ると考えられます。 自分達の勝手な賊法は、ニーチェ哲学の用語で言うと奴隷道徳に該当する部分が大きいと思われ、犯人はこれを仲間にしか言わず公然と主張する事をしません。 かく乱目的の屁理屈も、犯人はこれを、臨機即用するに留め、公前にさらしたままにはしません。 自分達の勝手な賊法は、犯人(劣人主主義者)の本音であり、犯人がこれを公然と主張する事なく通用させる様子は、言語と意味の関係に例えられます。 同じ意味を表すのに、日本語でも英語でもフランス語でもドイツ語でも何語でも構わないのと同様に、公法が何であってもその公法を使って自分達の勝手な賊法を通用させようと犯人はします。 (警察の別件逮捕の考え方ですね。北野武さんをツルハシで襲撃した人を逮捕する為に、ツルハシとは別の刃物を所持していた事が銃刀法違反に当たる、という理由が使われた) しかし、法と言語は違う分だけ、それは屁理屈を必要とする行ないです。 言語には、出来るだけ何でも表現できる様に汎用性が有りますが、法は、何でもは出来ない様に、行ないを制限する物だからです。 法に含まれる全ての規定はどれも法の規定として尊重されねばならないのに、それら規定の間にエコヒイキを設け、そのエコヒイキによって人をエコヒイキする、この様な屁理屈が見られます。 例えば、広島の平和公園付近での拡声器の音声が集会の邪魔に成るという話題で、拡声器を使う側の人は言論の自由を主張しましたが、集会の自由というものだって有るわけです。 法の規定を自分達に都合の良い様に恣意的に解釈する、というタイプの屁理屈も有るでしょう。 また、奴隷道徳というものがニーチェによって批判されている事からも分かる様に、自分達の勝手な賊法には内部矛盾が有る事でしょう。 子供のイジメ自殺といった残酷な結果を生んでいる事が、その証拠です。 これらの屁理屈は、懸賞付きの数学の難問とは比べ物に成らないぐらい稚拙な論理を問う物なので、公前にさらしたままにすれば、あっと言う間に論破されてしまいます。 自分達の屁理屈を犯人が公前にさらしたままにしないのは、そのためです。 私の父ウダオサムは私に「言うと批判されるから言うなと言われた」と言った事が有ります。 ここで説明している屁理屈の事だったのでしょう。 批判されると間違っている事が自分にも分かってしまう。 そうだと分かっているけど、自分の屁理屈を正しいんだ(屁理屈ではない)といつまでも思っていたい、という事らしい。 さて、これら屁理屈を防ぐには、どうすればよいか。 私は、次の様に考えます。 正義に立ち返って考える。 公法が正義をよく表現できている部分については、公法を正しく運用する。 公法を使って賊法を通用させようとする時には、公法の運用におかしな所が出て来るものなので、常に公法を正しく運用していさえすれば、賊法が何であるかを知らなくても、賊法が通用するのを防げる。 それに加えて、私が相対正義論でやっている様に、正義の研究を進めて法を正して行く。 ここまでが賊法対策です。 臨機即用されるかく乱目的の屁理屈については、これを防ぐ手段としては護身術みたいな事しか無い。 つまり、公道を歩行中に暴漢から身を守りたければ空手でも習っておけ、というのに似た様な事に成ってしまいます。 ただし、公道で暴漢に襲われて死ねば取り返しが付きませんが、かく乱目的の屁理屈の害は、その場で防げなくても、相手のせいである事(可能性)を後で認めてもらって埋め合わせる事が出来るのが、社会の本来のあるべき姿です。 護身術を助けるには、かく乱目的の屁理屈を一覧表にして公前にさらすのも有効でしょう。 賊法も聞こえて来た分だけみんなで公前にさらすとよい。 次は、事実についてのウソについてです。 理屈というものは、逃げも隠れも出来ないので、正しい理屈を通用させる事、間違った理屈を論駁する事は、原理的には常に可能です。 しかし、いつ誰がどうしたとか、いつ何がどう成った、という事実については、それを直接知る事が出来るのは当事者だけであり、当事者以外の人は証拠を見る事が出来るのみであり、事実を直接知る事は出来ないし、証拠を隠滅する犯罪も存在します。 だから、事実についてのウソを防ぐのは、屁理屈を防ぐよりずっと難しい。 普通は、ここで行き止まりだと考えられている事でしょう。 しかし、私は以下の道を切り開きました。 証拠に基づいて事実がどうだったかを判断する時には必ず理屈を使います。 この理屈が完全に正しければ、幾ら証拠を隠滅したり捏造したりしても、その事によって事実がどうだったかの判断が犯人に有利な方へ変化する事は有りません。 だから、証拠を隠滅したり捏造したりする犯人は、そうするだけでなく同時に、証拠に基づいて事実がどうだったかを判断する時に使う理屈を屁理屈に曲げたり、あるいは現行の理屈の欠陥を狙って証拠を隠滅したり捏造したりします。 それ以外に方法は無いわけです。 だから、事実についてのウソの害も「(逃げも隠れもしない)理屈を正す」という方法によって防ぐ事が原理的には出来ます。 これが、今日私がみなさんに最も教えたかった事、です。 このアプローチでの考察に私は、不確実性の処理@相対正義論@持論@学問で着手しています。 亀井静香さんなどは、正面から立ち向かう方法では解決できない、と言う。 何の犯罪の事を言っていたのか。 ここまでで私が問題にして来た犯罪の事ではないだろうか。 私も、このホームページの様な場で一般論を説く、という方法を取っている事は、正面から立ち向かってないのかもしれない。 しかし私のは、個別ではなく一括でなければいけない、というだけであって、正面のつもりだ。 そして私は、やはり正面から立ち向かうのが一番正しい、正面から立ち向かうしかない、という見立てです。 正面から立ち向かわない方法には、犯人の土俵に引きずり込まれる、という弱点が有ります。 問題を本気で終わらせようと思うなら、犯人につきあわない事が基本なのです。 |
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