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2022年01月23日(日曜日)
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想17

今日は雨が降ってて寒い。
昨日の記事が劣人主主義への有効打と成ったので、その事への反応だと思う。
そういう事が多い。
冷やして来る、被害加害の関係が逆さまででもあるかの様に雨で悲しみを表現する、という印象を受ける。
冷蔵庫を見れば分かる様に、冷やす、という方法は生物の活動レベルを低下させる基本テクニックだ。
生物個体として劣った人の集団が生物個体として優れた人の活動レベルを低下させる為に冷やして来るのだ、という風に私は見ている。

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私の所にやって来た高年の男が若年の男に向かって「馬鹿もん、音は難しいんだ」と言ったという昨日の記事に書かれている話への補足をします。
集団ストーカーの手口の中で音を使った工作つまりノイズ・キャンペーンは最も成功させるのが難しく習得するのに長い年月を要する、何故か?
被害者以外の人には気付かれずに被害者本人には本来の受忍義務をハッキリと超えた害を加えなければいけないからです。
ここで私が「本来の受忍義務」と書いたのは、法定受忍義務とは違うからです。
法定受忍義務は、音の大きさで定められており、それには音の持続時間が制限されてない事を初めとする色々な不備が有ります。
犯人はこの事を悪用し、また、そう出来る様に立法に介入して法律が改善されるのを食い止めている、と考えられます。
法律に違反していなくても被害者以外の人が気付いて騒ぎに成れば、被害者を聴覚過敏患者や被害妄想患者に仕立て上げる事は出来ないし、発音を続行できなく成るだろうし、いずれは法律が改善されてしまいます。
だから被害者以外の人には気付かれない(被害者の身に起こっている事が理解できない)事が犯人にとっては絶対に必要です。
しかし、そうするために「被害者本人に本来の受忍義務をハッキリと超えた害を加える」という目的を達成できないのでは、何もしないのと同じです。
これが、ノイズ・キャンペーンが習得に長い年月を要する難しい技術である理由です。
この事はまた、被害を受けて被害者が被害申告した時に受ける色々な反論への反論です。
ある人は「自分も聞いてみたけど何でもない音でしたよ、あんな音ぐらいで騒ぐのは、騒ぐ方がおかしい」と言うでしょう。
これに対して「あなたには分からない様に工夫してあるんですよ」という反論に成ってるわけです。
またある人は、「音ぐらいなら構わない」と答えた時の私の様に、どんな音かを確認せず、所詮は音なんだからこうだろう程度にしか考えず「音ぐらいで騒ぐなよ」と言うでしょう。
これに対して「たとえ音であっても、工夫された音を狙いすまして鳴らせば別なんですよ」という反論に成ってるわけです。
またある人は「誰がそんな事をするもんですか」とか「そんなもんあるわけない、そんな技術があれば見せてもらいたいもんだねえ」と言うでしょう。
これに対して「こいつらがするのだ」「こいつらが出来るらしいぞ」という反論に成ってるわけです。
ここで、
11日@2022年01月@日記の前半に書かれている事を思い出して欲しいのです。
この様な手口ですら、自分で経験せずとも目撃せずとも具体例を言えなくても、そういう可能性が有る事ぐらい考えれば分かる事ですよね。
それなのにどうして実例を言われるまで認めないんだ、という事です。
「最初から有ると分かっている可能性はひとつも切り捨ててはいけない」とは、この事なんです。
私の父ウダオサムは「そんな事を言い出したら切りが無い」「可能性だけなら何にでも有るじゃないか」といったタイプの反論をする事が有る。
そうですよ、切りが無いし可能性だけなら何にでも有るんですよ、けど「だから違う」という事には成りませんよね。
あきらめの悪い犯人が超えてはいけない線を越えるから、可能性をひとつ残らず考えなくてはいけなく成ったんじゃないですか。
それなのにこの様な手口が世相によっては通用してしまうのは、次の様な事情によるだろう。
第3者のふりをしているが実は犯人と共犯関係に有る共犯者が正直に言ってるふりをしながら故意に不正直に犯人に有利、被害者に不利な証言(口裏合わせ)をする。
事実がどうだったかを伝聞情報から判断する第3者の中には判断力が本当に劣っている人も多い。
そうでない第3者が、希望的観測に近い心理によって、存在する可能性のいずれかを切り捨てる見解を示す。
これは、被害者に対する妬みや恨みのせいで、被害者にとって不利な事が事実だったら良いのになあと希望し、そのせいで「被害者にとって不利な事が事実だったのだろう」という見解を述べ、自分にもそう言い聞かせる、という事です。
そうするのは、思いたくても思えないほど事実と食い違った事を言うのは、つまり意識的にウソをつくのは出来ないタイプの人々です。
この種類の第3者の人数をどれだけ多く出来るか、という事に上級の犯人は腐心している、だから音を使った犯罪は難しいんだなんて言う、と私は見ている。
この様な手口が世相によって通用したりしなかったり変動する様では危なくていけない、というのが私の言いたい事です。
可能性の有無は一定不変であり世相によって変動すものではないのだから、これに基づけばよいのです。
実例を挙げなければ可能性を認めない、という体質を直せ、という事だ。
罪刑法定主義の適用や精神病院への強制入院の是非の判断というものは、全く客観的でなくてはいけないのであって、どんなに大勢の人のであっても希望的観測の容態からは完全に切り離された所に存在していなくてはいけない種類の事なのである。
人間には「狙う」という性質が有り、誰かが狙って選択すれば自然には起きない事も起きるので、自然に起きる確率が僅少な事まで考える必要な有るのだ。

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私は現住所に1981年から1986年までと1995年から現在まで住んでいます。
1981年までは広島県福山市沖野上町の借家に住んでいました。
住んでいた時には知らなかったのですが、数年前Googleのストリートビューか何かを閲覧していた時に、その借家の名前は「コーポ朝日」らしいと知りました。
ひょっとすると、私が住んでいた頃にはまだ名前は付いていなかったのかもしれません。
その借家の我が家の玄関に、「馬鹿もん、音は難しいんだ」と言った男と同じぐらいの年齢と背格好の男が来て、私の父ウダオサムと対話しているのを見た事が私には有る。
その男はウダオサムに「まだこういう手が有る」という意味の事を言った。
それまで私に色々な罠を仕掛けたがそれらのいずれにも私が引っ掛からなかった、でもまだこういう手が有る、という内容だったのだろう、と私は思っている。
その借家に私が住んでいた期間には、ペットのウサギが死んだ。
野犬の仕業だと私はウダオサムから聞かされた。
むごいから、という理由で、ウダオサムは私に死体を見せなかった。
ウサギを殺したのは野犬ではなく人で、私が死体を見るとその事が私に分かってしまうから見せなかったのだ、と今では私は思っている。
その借家では、葬式の準備として仏教のお経を覚えるか何かの名目でウダオサムが長時間に渡って読経していた時期が有る。
おそらく私が中学入試に目覚めて熱心に勉強をし始めた頃に、それを妨害する目的で読経していたのだろう。
これも集団ストーカー工作の手口のひとつだったろうと今では思っている。
あの仏教団体なんか組織的にやってるんじゃないのかなあ。
私が千葉県に住んでいた1993年か1994年に、私が自分の住所の近所を徒歩で散歩していると、私が歩いている道に隣接する民家から読経の声が聞こえて来て、陰気臭くて嫌だった。
それと同時に、やはり私が歩いている道に隣接する民家のいずれかから数秒おきに「うるさいっ」と怒鳴る声が繰り返し聞こえ続けた。
読経の声をうるさいと言っていたのか否かは分からなかった。
読経の声で拷問する集団ストーカー工作は、声のうるささだけでなく陰気臭さ縁起の悪さも感じさせるので、分類としては単なるノイズ・キャンペーンではない、と考えるのが正しいと思う。
私の家族がその借家から現住所に引っ越した理由を私は聞かされてないが、大家との人間関係上の理由で住み続ける事が出来なく成ったからではないか、と私は推測している。
私に仕掛ける罠がネタ切れに成ったからではないか。
私が職場をクビに成ったのがそれだったから。

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話を元に戻すと、私が言いたいのは、犯罪(不正)の話を抜きにして経済政策の話を幾ら進めても、それは、裏口を開けたまま玄関の戸締りの話ばかりをしているのと同じだ、という事です。
その意味で、日本の経済がおかしく成ったのはアメリカからの圧力のせいだ、という田原総一朗さんの発言には、耳を貸す必要が有る。
しかし、それだけでは不十分であり、もっとどっぷり陰謀論に漬(つ)かった十分な議論が必要である。
私がテレビで見た池上彰さんの話に、バブルは人為的に崩壊させられた、というのが有った。
その時に人為的に操作されたファクターをまた人為的に操作すれば経済の現状を打開できるかもしれないのではないか。

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昨日アイドルの話しをしたけれど、例えばアイドル興行のノウハウを自分で勉強した個人が一念発起して、ある日独断で「おれ今日からアイドルやるわ」という風にアイドル業を始めようとしても、出来そうにないのはあなたにも分かろう。
規制で出来ないのか?
違うよな。
規制以外の何かが有るから出来ないわけでしょ。
むしろ法律は規制まで含めても、そういう事は誰でも勝手にやってよろしい、じゃまするのはいけません、という風に成っている。
この事を見ても、経済を論じるのに規制の話だけしていてもいけない、犯罪の話をしなければいけない、という事が分かるんだよ。
規制以外の何かって、自由にやってよい事に成ってる事を妨げれば、それは全部犯罪だから。

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また明日。