since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2022年01月 >
< 16日 >
2022年01月16日(日曜日)
朝まで生テレビ2022年01月01日放送分を見た感想11

今日は私も論客のひとりに成って、私の経済観を書きたいと思います。
その前に、昨日までの記事について補足します。

発言46から発言52までの部分で論じられている問題に、もっと時間を割くべきだったのではないか。

発言40の需要不足を一時的なものと考えてはいけない可能性が有ると思う。
デフレスパイラルの引き金に成ったこの需要不足がデフレスパイラルとは独立に持続しているのではないか。
藻谷浩介さんが随所で注意を喚起しているのは、そういう可能性ではないか。
何かイレギュラーな事が起こってる様なので定石で対処するのは間違いではないか、というのが藻谷浩介さんの言いたい事なのではないか。
07日@2022年01月@日記のCについての「本当は・・・」という部分に加えて、それも有る。
07日@2022年01月@日記のCについての「その通りです」は「その通りです。だから」に修正します。

発言41について。
政府がおカネを使うというのは、おカネを無償で配る代わりに何かを買うという形でおカネを配る、という事です。
おカネを配る事に変わりはない。
したがって、おカネを配って効果が無いなら政府が何かを買っても効果は無い。
ただし、政府が何かを買う場合には、その何かも国民に配られる。
給付金の場合には出来るだけ偏り無く配るけれど、買うという形でおカネを配る場合には偏りがあって、その勾配が金流の原動力と成るかも。
しかし、それは無限連鎖講なんだよね。

発言48について。
藤井聡が直接そう言ってるわけじゃないんだけど、経済成長を左右する要因が消費税だけではない事を藤井聡が前提にしていると発言48から私は感じる。
そういう要因が有れば、消費税はそのままで、その要因をコントロールして経済を復活させる方が正しいんじゃないのか。
また、その要因を放置したのでは、消費税を無くしても経済は回復しないのではないか。
バブルという要因は良くないからもう活用できないけれど、そういう要因として藤井聡はバブルの事だけを言ってるのだろうか。
このあたりで、発言40について私が述べた事(このページの序盤)とつながって来るのである。

発言50発言52の時の映像を再確認すると人形劇というほどではないかもと思った。
でも第1印象には何らかの真実が有るだろう。

また、発言(-7)の冒頭以外の部分は、給付金の効果測定への批判として当たっていないならば、これは「一休さん」だという事に成ろう。

---

私の経済観は正式には、
宇田経済学という形で、考えながら書き進められている途中です。

まず計画性について。
通貨の総量@宇田経済学@持論@学問に書かれている「何時までにどれだけ買うつもりか」「何時までにどれだけ売るつもりか」という文脈での「何時までに」として、戦後なら例えば「数日後までに」だった(失うものは何も無い、駄目で元々、その日暮らし、宵越しの銭は持たない)ものが現在では例えば「10年後までに」を考える様に成って(失うわけには行かないものが多過ぎる)いる。
つまり、経済のプレイヤーのマインドがそういう風に変化して来ている。
この事が、高度経済成長が終わる原因、高度成長が終わった後の経済の行き詰まりの原因として、主要な原因のひとつだと私は考える。
経済が成長するにつれて経済のプレイヤーの販売や購買の計画性が徐々に増して行き、その事によって経済が行き詰まる、という考えです。
これは民製の計画経済であり、官製の計画経済が行き詰まるのと同じ理由で、民製でも計画経済なら行き詰まる、という事では無いか。
自由主義経済が上手く機能するのは計画性が無いからではなかったか。
みんなが先の事を考えなければ先まで安泰に成り、みんなが先の事まで考えれば先行きは暗く成る。
(私は合成の誤謬って言葉が嫌いですが、こういうのを合成の誤謬って言うんですか)
「心配」「不安」「貯金」というキーワードは、この文脈にピッタリと当てはまる。
経済というシステムの、この様な、留め金が外れた機械と言うか、暴れ馬と言うか、危険さを的確に表現する漫画的な比喩を考え出す必要が有る。
年金の原理@通貨の総量@宇田経済学@持論@学問に書かれている分析からも分かる様に、個人の計画というものは、他の個人の計画と上手く噛み合わなければ、実現されない。
高度成長期は終身雇用で計画性が大きかったかもしれないが、今のままのペースでは買えない売れない量を買うつもり売るつもりという計画だったから行き詰まらなかったのだろう。

おカネをまけば消費に回るのも有るよ、例えば生涯の買わなければいけない量の合計を超えてまけばね。
しかし、そこまでまくと、(買うつもりの量の全員分の合計) > (売るつもりの量の全員分の合計) と成ってしまい通貨が不渡りに成る。
子孫に遺産を残したいというタイプの人も居るので絶対じゃないけど。

次に、経済成長の自給自足版を考える事によって、経済成長の妥当性を見当付けてみます。
自給自足では、まず衣食住を整え、食の生産を軌道に乗せ、時間や体力に余裕が出来たら、残りの時間は、衣食住のレベルを向上させるのに使うのではなく、のんびり過ごしたり、学問をしたり絵を描いたり音楽を演奏したりして過ごすはずだ。
衣食住のレベルをもっと高めたい人にはそうする自由が有り、そういう人も少数派として居るだろうけれど。
衣食住については、手間を減らす方向にノウハウを成長させて行く、要領が良く成って行く、というのが普通の成長パターンであるはずだ。
また自給自足では、1年後の1日も10年後の1日も今日の1日と変わらなくても、その事で行き詰るなんて事は無い。
1日あたりの生産量をどれだけにするかは各人の自由であり、最大にしなければいけない事も無いし、増やし続けなければいけない事も無い。
産物の仕上がりも、自分が納得できればそれで十分であり、売り物に成るレベルまで高めなくてよい。
レベルの低い仕上がりで我慢する代わりに楽をする、という選択は各人の自由である。
自業自得である限り何でも自由なのである。
だから、衣食住に不本意なまでの時間や労力をいやおうなしに投入させられる事も無い。
国の経済も所詮は国全体の自給自足だし、貿易まで考えても人類が全体として自給自足しているのである。
個人の自給自足は、この様な社会全体がしている自給自足の歪みを検出する為の鑑(かがみ)である。

経済が目指すべき目標は、例えば働く時間をどれだけ減らすかを各個人が別々に自由に選べるみたいな事であって、所得の全員分の合計が大きく成るようにといった、各個人の選択を経済政策がコントロールするという発想は根本的に間違っている、というのが私の意見である。
GDPの様な合計値は、各個人の自由な選択の結果成る様に成れ、と考えられるべきものである。
それがどの様な値であっても、みんながそれを望んだのだから、それが正しいのである。
大きい方がよいとは言えるかもしれないが、大きくする為に個人の自由を奪ったのでは本末転倒なのである。
つまり、GDPではなくて自由さが経済の良さを測る本当の尺度だ、というのが私の意見です。
GDPではなく自由さを追求すると結果としてGDPも伸びるのではないか。
それは、押さえつけられていた優れた人の力が開放されるからだ。
その時に、経済成長を第1目標とする経済(豊かさの押し売り)は生物個体として優れた人の順位を低める為のエコヒイキであった事がバレるであろう。
経済成長が自由を圧迫するよい例は例えば36協定(さぶろくきょうてい)だ。
給料も半分でいいから半分の時間しか働きたくないんだ、という選択が現状ではふさがれている。
これは、自給自足で言うと、起きている間はずっと衣食住の事だけやってなさい、という風に強制されている状況に相当します。
それを嫌だと言う事は怠けではなく、時間、労力、人生を活かしたい、無駄使いし(ドブに捨て)たくない、という事です。
それを歪めて怠けだと言いたがる態度は、
25日@2021年12月@日記の前半で説明されている犯罪と同様です。
生物個体として優れた人の優秀性がよく活かされた仕事ほど経済への貢献が大きい(怠けていない)ので、自分には出来ないそういう仕事を世の中から無くしたいと考えた劣人主主義者が、「怠ける」という言葉を使って目的を達成しようとしている、という事なのです。
つまり、働かせるために働かせているのではなく働かせないために働かせている、これが劣人主主義者がやって来た飼い殺し経済なわけです。

13日@2022年01月@日記の終盤で私は、自給自足で産物を納屋に入れる話をしましたが、これも結構景気に関係あるかもよ。
私の部屋に置いてあるオーディオ関連機器が既に耐用年数を超えているのにまだ買い換えてないのは、その一角が足の踏み場が無い、配線が混雑していてさわりたくない、などの理由でです。
個人消費の不調の理由として、こういう理由に経済学者は絶対に気付かないのではないだろうか。

最後に、人体の成長になぞらえて経済の成長を考えてみます。
経済成長は人体では、生まれてから成人するまでの発達や、朝起床してから昼まで活動や血流が増えて行く事に相当するでしょう。
血流は景気に相当するでしょう。
この事から、どこまでも成長し続けるのは無理だし成長し続けなくても死なない事が分かります。
また、活動や血流のレベルは、その人が自分の意志で自由に選択する事であって、ガンガン動いているのが一番正しいなんて事は無いわけです。
成長し続ける事が有るとすれば、それは脳に記録されている情報でしょう。
つまり、自己組織化という形での成長です。
この自己組織化こそが、経済が何を成長の目標とすべきかという問題の正解だ、と私は考えています。
この点で、社会に出たら学校で学んだ事なんて全然役に立たない、というのは本当は、社会人が新卒者に向かって得意げに言うに値する事ではなく、現状の社会の恥ずかしい点、カッコ悪いところだ、と私は思っているのですよ。