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2021年12月26日(日曜日)
派遣労働体験談5

まず、昨日の記事の訂正をします。
大学卒業時に下宿の階段を降りる私の姿に大家が見た相は昨日の記事に書いた様な怒りとは違いました。
背景にはその様な怒りが常時存在していましたが、その怒りで下塗りされたキャンバスに描かれた絵の様に、大家が見た私の姿には、次の感情が色濃く表出されていました。
破損しやすい大切な私権を保護する為に他の私権を弾除けに使い果たした状態(矢尽き刀折れ観念して空手で戦うしかなくなった状態みたいな)で人前に出なければいけなくなった極度の警戒状態。
その私権の私的価値も公的価値も到底理解できない程度にしか物が分かっていない、しかも、私がその私権を優先している事がシャクに障っており、実利上も私にその私権を放棄させないと職場での自分の評価が下がる、しかしその私権を維持できると広告を出している、そんな相手と、その私権の命運が掛かっている契約の内容を左右する交渉を電話でする為に、広告を半信半疑ながら電話まで歩いて行く途中の私の姿を大家は見たのです。
大家がその電話を私に取り次いだ時の事です。
また、大家の考えを昨日は「呵責の考え」と書きましたが、「見当外れの義憤」の方が的確である事にその後気付きました。
破損しやすい大切な私権というのは、
04日@2021年12月@日記の後半で説明されている自由時間の事です。
弾除けに使うとはどういう事かは、
01日@2021年12月@日記の序盤に書かれています。
大切な私権を保護する為に他の私権を弾除けに使い果たしたというのは、大抵の学生が有利な条件だと評価して優先させる様な就職を最初から放棄した(就職活動も全くしなかった)事だ。
私的価値とは、
29日@2021年@11月@日記に書かれているAさんにとってのβの価値です。
公的価値を理解できないとは、分かり易い例で言うと、私が物理学正典を書けるレベルの人だなんて事が有るわけないと最初から決め付けていた、という事です。
また、著作物の卓越性の形態として物理学正典の卓越性の様な形態は想像だに出来ない、という事です。
物理学正典のほとんどの内容は、私が大学を卒業するまでに到達した知識です。
物理学正典は大学の先生でも書けない。
だから塾に就職する時点で既に私は自分が特別だという事の確認を終えておりそれは間違っていなかったのですが、大学を卒業したら最低でもこれだけ、同じ大学の同じ学部の同じ学科を卒業したら最低でもこれだけ、という能力を持っているに過ぎないくせに、その能力を自分しか持ってないと勘違いする良く有るパターンなんだよな、いまどき大学ぐらい誰だって出てると言うのに、いいよ、そういう若造・青二才を立派な社会人に育て上げるのが我々の仕事なんだから、という思い上がった妄想でやっと持ってる意識、これが公的価値を理解できない状態です。
酸っぱい葡萄だった側面も有ると思いますが、配属前に「どうせ自由時間にする活動はくだらない事なんでしょ」という言葉で、侮辱すると同時に譲歩を引き出そうとされた事は、公的価値が分かっていなかった証拠のひとつです。
それに対して私は「失礼」という言葉を使って言い返しましたが、この言葉の選択はジャストではありません。
脅威にさらされた状態だったせいで、言葉に狂いが生じました。
派遣労働体験談をここまで読めば分かる様に、これほど言葉が達者な私の言葉に狂いが生じるというのは、脅威がよほど大きかった証拠です。
この様に、私が間違えたなあと思う言葉に限って、それを境にその言葉が世間の至る所で乱用されるのを聞く様に成るのだが、これもネットでの誹謗中傷の様にうるさい。
私が言いたかったのは、大事な私権が脅威に晒されている人に向かって発言する時には不安を与えない様に配慮する必要が有るのにその私権を軽んじる様な事を言うとは何事だ、という事ですが、それがスッと出て来なかったので失礼云々と言ってしまった。
研修中に「学者なら別だけど、あなたたちはそれほどではないんだから」だったかそんな感じの事を言った指導員が居たが、これも雇用者が私を過小評価していた証拠です。
テレビの出演者が「出来上がっちゃってる」という言葉で新入社員の態度を愚弄する表現が多く見られた時期も有ります。
それも、私のここまでのエピソードに由来するでしょう。
テレビでそういう表現が多く見られた時期は、物理学正典などの証拠を私がまだ提出できていなかった時期です。
シャクに障っている、というのは、自分達の教科知識を大人の知識としてもイッパシであると自負しているせいで、自分達の仕事を私が一段低く見ているのを私の思い上がりだと妄想して、馬鹿にするなよと反発している、という事です。
2年後の契約更新の時に塾の幹部のひとりが私に向かって「中学入試の小学算数は難しいんだぞ」という言葉で不満を述べた事があった。
中学生だけ担当して来た私が小学生も担当しろと言われて「嫌だ」と断った事への反応だったような。
中学入試の小学算数が難しい事ぐらいは言われなくても知っていました。
大抵の大人は中学入試の小学算数を知らないと思いますが、私もそうだと決め付けるのは間違いです。
私は小学校高学年の時に中学入試を経験しました。
1番には成れなかったけれど、それなりに中学受験の小学算数の妙味は見せてもらいました。
それはなかなかのものだけれど、小学生にとってであって、大人の知識としてはそれほどのものではありません。
小学生が出来ればイッパシだけど、大人が出来てもイッパシじゃないんだよ。
発達障害か。
その塾に採用される前に私は駿台の採用試験も受けたんだけど、私が小学算数の問題に正答しているのを見て試験員がサヌキみたいに成っていた。
そういうのが私は一々気に障るんだよ。
そういう意味で、相手が私をシャクに障ると感じた事は、上には上が有る事が相手には分かってなかったからです。
中学入試の小学算数については私は、全否定も全肯定もしません。
参考:
学問で求めるのは知識です@持論@学問
職場での自分の評価が下がるとは、学生ひとり言う事を聞かせる事が出来ないでこの仕事が勤まると思ってるのか、と責められるみたいな事です。
さて、大家が見た階段を降りる私の姿が何であったのかを正確に知る為には、以上の説明を読む必要が有るのですが、一流の俳優というのは、こんな面倒臭い微妙なニュアンスの違いすら演じ分ける事が出来るみたいだという事を私は知っています。
唐沢寿明さんが悪いのではない、という意味です。
私の様子を見たり発言を聞いてそれに勝手な解釈を付ける、という行為はウダオサムにも見られます。
私の前でウダオサムが「いいですか」というフレーズをけなしていた事が有ります。
ウダオサムの批判は、上から目線のフレーズだから感じが悪い、といった程度の意味だったと思います。
それはテレビの国会中継への感想だったけれど、私がまさかと思い、自分のは違うよ、自分のは「もういいですか」「先行する発言や行為はもう終りましたか」「もう私が発言してもいいですか」という意味だよ、と言うとウダオサムは「あれ、おかしいなあ」と言いながら慌てて去りました。
どこかへ連絡か何かしに行くようでした。
みんな一体何をやってるんだ。
私に一言の確認もせずコソコソと自分達だけで、こんな書き切れないほどの曲解を私にまぶしつけて、それに対して私がひとつでも注釈し忘れれば、その曲解が事実だという事にされてしまうのか。
そんな理屈は成り立たないだろうが。
だから私は独り言を言うんだ、という話が
24日@2021年12月@日記の序盤に書かれています。
こうして暴かれても「しまった」としか言わない思わない、そういう人々を放っておくと問題をもっと難しくされてもう暴けなく成るかもしれないんだよ。

もう年末でテレビ番組が次から次へ来るので、今日は話を進めるのは諦めて、細切れな説明を書き足すだけにします。

昨日の記事の最初の話題の続きを書きます。
罪を犯すのは馬鹿にされる人だけど、それは馬鹿にされた時点から後の罪に限ればの話であって、馬鹿にされる理由は不正のによって作られたかもしれないではないか。
しかし、馬鹿にされる人は、そういう不正を暴いて正す事に抵抗する、と私は感じている、余計な事をするなという風に。
そういう不正を自ら告発する事が無いのは、自分達の犯罪には動機が無い、だからやっていないとしらばくれるためとして理解できるが、不正を温存しておきたいという考えはどこから来るのだろうか。
それは、次の様に考えるからではないか。
世の中から不正が無くなっても自分は馬鹿にされるだろう、なら、不正が無くて馬鹿にされるよりは不正のせいで馬鹿にされる方がよい、なぜなら、不正が無くて馬鹿にされる社会で犯罪すれば全部自分が悪いけれど、不正のせいで馬鹿にされる社会ではそれへの報復として犯罪しても自分は悪くない。
こういう風に考えているのではないか。
スポーツの試合で、全力で戦っても自分が負けるだろうと思ったプレイヤーが対戦相手に、ワザと負けてやるから礼をしろ、と持ちかける様な構図です。
それなら、不正のせいで馬鹿にされても犯罪はした人のせいです。
犯罪の言い訳が出来る様に狙って不正を温存した、不正が残る様に狙って選択したからです。
どこをどう工夫しようと、何段にも分けて間接的にしても、狙って選択した人のせいです。
不正を無くしても勝てないのは誰か、劣った人です。
こうして、人物本体が劣っている人が犯罪の湧き出し口に成っていると推測できるのです。

24日@2021年12月@日記の後半に「制服の作業服を着るのも屈辱だった」と書きましたが、これはスーツとの比較ではありません。
今では私はスーツも好きですが、当時の私はスーツは嫌いでした。
私にとってスーツのイメージはエリート。
でも私の自意識はエリートではなく天才なんですよね。
天才の服は何か?
それは私服です。
アインシュタインの写真を見て下さいよ、スーツも有りますけど、セーターとか、すごくソフトでしょ。
私が1人称を「僕」と書くのをケナした人が居るけど、私が1人称で「僕」を使うのを好むのは、そこから来るんですよ。

また明日。