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このページの内容は下書きです。

少し下等な話から始めよう。
子供の受験界では物理を除く理科の科目や社会科は暗記科目と呼ばれて蔑まれる。
ことによれば物理もそうかもしれない。
その反対に位置するのが算数や数学で、これらは「考える力」の科目だとされる。
算数や数学においても計算問題は、考える力の問題ではないとみなされ蔑視される。
そして、本当の頭の良さとは暗記力や計算力ではなく考える力のことだ、と子供の受験界では広く信じられている。
そのため、頭が良いと言われたいがために算数や数学に凝る児童・生徒は少なくない。
小学生の頃や高校生の頃の僕もその一人だった。
ただし僕の場合には、物理にも本気で取り組んだ。
世渡り的には、他教科との合計点を最大にするよう努力すべきなのに。
受験産業に携わる大人の中にまで、われ受験算数に生きる、といったタイプのバカが居る。
誰にも迷惑をかけず受験算数に生きてるだけなら害はない。
おめでとう、どうぞ受験算数に生きてください。
問題は、そういうのが「算数は難しいんだぞ」と言って詰め寄って来ることにある。
そいつらの頭の中では、僕が受験算数を知らない事になってるらしい。
こんなときにはどうすれば良いんだろうか?
面食らってしまう。
僕は小学生の頃に必死になって受験算数をやったんだが。
受験算数ショックの経験はちゃんと小学生のときに済ませてある。
やるべきときにやってないと大人に成ってから出て来るのだろうか。
オタフク風邪だ。
受験産業に携わりながら世渡り的に最適とは言えない価値観を持っているからバカだ、と僕は言ってるのではない。
先生がそういう価値観を持ってると、黙ってても生徒にそれがうつり、合格実績に響く。
が、僕がバカだと言ってるのはその事ではない。
子供にとっての頭の良さの最前線と大人にとってのそれとでは違うのに、つまり、子供にとっての頭の良さの最前線よりももっと高級な世界が大人にとっての頭の良さの最前線として広がっているのに、それが見えてないこと、この点をバカだと僕は言っている。
算数や数学が本当に考える力の科目か、という点には異論の余地があろう。
しかし、それはそれで良いとしてもだ、では考える力は一体何のためにあるのか、ということを考えてみてほしい。知識を得るためにあるのではないのか?
考える力は手段であって目的は知識ではないのか?
であるから、子供のうちはまだ考える力を自慢してて構わないが、大人になったら、その考える力を駆使していかなる知識に到達できたか、が問われるものと覚悟しておかねばならぬ。
考える力にしても、算数では数学に無い独特の思考法が要求されるので数学より算数の方が難しい、などと言ってるうちはまだ、数学が分かってない。
というか、数学の高大さを知っていない。
受験算数でやってることは、数学の道具を使えばたやすく解ける問題を、数学の道具を使わずにいかにして解くかだ。
数学には、数学の道具を使っても易々とは解けない問題がいくらでもある。
そういう問題の方が受験算数より易しいなどとは決して言えない。
また、受験算数独特の思考法が数学には無い、というのも、一々調べてはいないが、おそらくは大間違いだろう。
学問としての数学は、既存の数学的道具を全て使って、場合によっては新しい道具を作り出してそれを使って、それに加えて、道具の使い方に対して考えられる限りの方法を駆使して、問題解決に当たるものだ。
受験算数の思考法などは全て、その過程において出尽くすだろうし、その過程で要求される能力を考える力と計算力に分けるとすれば、算数で考える力とされていたものはここでは計算力に属するのであって、学問としての数学において考える力と言うときには、算数におけるものよりももっと高級なものを言う。
大学生レベルの数学で既にこう成る。
さて、知識の話をしていたのであった。
大人の頭の良さは考える力ではなく知識である、という風に。
学問は知識を求める営みであって、数学とて例外ではない。
学問としての数学においては、理論を適用して問題を解く、という行為は最高の行為ではない。
というか最低に近い。
最高の数学行為は既存の理論を部分として含む新しい数学理論の構築であるが、これが出来る人は例外的にしか居ない。
僕にも出来ない。
問題を解く力は技能であるが、新理論を構築する力まで技能と呼べるだろうか?
出来る出来ないは技能の問題であり、知識とは知ってるか否かである。
確かに、新理論の構築は出来る出来ないの問題だが、それが出来ることは知識が優れているからであって、技能が優れているからという言い方が適切とは思えない。
技能より知識の方が上である。
新理論の構築が出来るほどまでに知識が優れていなくても、数学の理論体系に対する一応の知識を持っている、という事は、少なくとも受験数学の問題を解く技能の保持よりは上である。
問題を解くという行為も、数学的業績として認められるようなものはバカに出来ないが、そういうものですら、技能の問題であって知識よりは下に見られる。
知識があれば、色々な人の行なった数学行為に評価を下す事が出来る。
これは重要だ、とか、これは無きに等しい、とか。
そういう事の出来る人は貴重な存在である。
おそらく、問題を解く人よりも。
また、新理論を構築した人の知識の優越も、それが後続の数学者の知識に吸収されるまでのことであって、一時的なものに過ぎない。
いかに偉大な数学者であろうとも、次世代の数学者に追い抜かれるのは時間の問題である。
このように、算数や数学に限って言っても、子供にとっての頭の良さの最前線である考える力よりも、大人にとっての頭の良さの最前線である知識の方がはるかに高級なのである。
子供の受験界の算数や数学は技能科目である。
つまりこれらは、鉄棒で逆上がりが出来るかとか補助輪無しの自転車に乗れるかとか、そういう類の能力を問う科目なのだ。
この事を知れば、算数や数学は理科や社会科に比べてそんなに偉いのか?理科・社会が暗記科目なら算数・数学は技能科目じゃあないか、という風にも言える。
さらに、知識という基準で見るときには、決して大人の数学だけが特別なわけではない。
大人の知識は数学よりはむしろ理科と社会科、特に社会科だろう。
算数や数学は主に理科の知識を発達させるための技能を身につける科目で、国語は主に社会科の知識を発達させるための技能を身につける科目だと言える。
理科や社会科が暗記科目となってしまっていることは、子供の受験界特有の歪みであって、これらの科目の本質を表わすものではない。
その良い証拠が司法試験だと思う。
司法試験では確か六法全書持込可だったと思う。
だから司法試験は暗記試験とは認識されておらず、かと言って技能試験でもなく、知識試験と言うべきものである。
これに合格した人は「頭が良い」と評価される。
これにならって、子供の入試の理科や社会科についても、教科書・参考書を持ち込み可にすると良いのではないかと僕は思っている。
司法試験は、大人の頭の良さとして、社会科の知識がいかに栄誉あるものかを、如実に表わしている。
本来は程度の差こそあれ学問のどの分野もそうであるはずなのだ。
学問はどれも知識を求める営みであり、そこに本来は暗記科目なんて存在しない。
ここに僕の言う「知識」とは、子供の受験界で言われるところの知識とは違う。
子供の受験界で言われるところの知識は、暗記事項という意味であり、僕の言う知識も暗記事項や技能を完全に除外するものではない。
ある程度の暗記とある程度の技能的自信に支えられて初めて優れた知識は存立する。
しかし、僕の言う知識は一種の意識であり、広範にわたって良く分かっている、という自覚であり、暗記事項や技能よりはむしろ理解というものに重きを置く概念である。
もちろんその自覚が幻覚であってはいけないが、暗記は不完全であっても良いし、解けない問題があっても良い。
極論を言えば、知識とはいわゆる悟りの境地であって、知識の無い状態は睡眠状態に、知識を持った状態は覚醒状態に喩えられる。
僕は人格の優劣をその人の知識の優劣で判断する。
善悪ではなく優劣であること、善悪と優劣は一応別物であること、優れた人の人権の方が劣った人の人権よりも尊重されねばならぬ、などとは言ってない事、などに注意して頂きたい。
知識至上主義は必ずしも机上での勉強のみで十分だ、と主張するものではない。
実地経験を通してでなくては為し遂げられない知識発達というものもあるだろう。
しかし、実地経験に比べて机上での勉強は知識発達のために非常に効率が良い場合が多いのも事実だし、机上での勉強だけでは不十分だという主張を、知識至上主義を否定する根拠に用いるのも誤りだと僕は思う。
優劣の判定はあくまで直接的には知識のみを見て行なわれるべきものであり、経験はそれによる知識の発達を通してのみ優劣の評価に反映されるべきであろう。
稀有な経験をしても、そこから何も学び取ることが出来ず、知識を発達させる事が出来なかったならば、経験しなかった人と優劣の差は無い、と判定するべきだと僕は考える。
そして知識を求めるのは学問である。