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2021年11月29日(月曜日) | ||||||||||
好き嫌いと公平性(相対正義論の話) | ||||||||||
損害の算定は各人の好き嫌いに基づく、としたのでは、次の様な懸念が生じる。 Aさんが必要ないからそろそろ捨てようと思って自宅の玄関に置いていた古新聞を、来訪したBさんがうっかり破いてしまった、とする。 それを見たAさんがBさんに向かって「何て事をしてくれたんだ、その古新聞は私にとって最も大事な物なんだぞ!」と言ったとする。 つまり、Bさんにとって、その古新聞が破れる事は非常に嫌(い)だ、というわけです。 この場合、BさんがAさんに多額の賠償金を払わなければいけない、とされたのでは、Aさんの権利とBさんの権利の間に不公平が生じてしまう。 それはAさんが大事だと思ってない物を大事だと思っていると嘘を吐いたからいけないんだ、と言うなら、それでは、Aさんが本当にその古新聞を大事だと思っていたなら、どうなのか。 この場合には、答えが直ぐには分からない。 本当に考えるべき問題は、こういう問題だ。 もちろん現行法では古新聞の価格の世間的な相場を基準にする事に成っているが、それではいけない、という話を私は今しています。 次の思考実験です。 Aさんの所有物のうちのαは世間的には高価な消費財で、βは世間的には安価な消費財だとする。 しかし、Aさんにとっては、αよりもβの方がずっとずっと大事だとする。 Aさんが左右の手に1個ずつ合計2個のαを持って立っている時、目の前の台の上からβが1個ころげ落ちたとする。 βは床まで落ちると床にぶつかった衝撃で壊れてしまうとする。 Aさんは、βが壊れる事がαが壊れる事よりもずっと嫌(い)なので、手に持っていたαを1個離して落下中のβをキャッチし、βの破損を見事防いだとする。 その結果、離されたαは落下して床にぶつかり壊れたとする。 αとβは、Aさんにとって、その様なエピソードを持つ所有物だったとする。 そこへBさんが来訪してAさんのβをうっかり壊してしまった場合、現行法ではβの世間的な価格の分だけ賠償する義務しかBさんには生じない事に成っているが、これは現行法の至らない点だと言える。 これは、そうなのかどうか直ぐには分からない難しい問題なのではなく、かなり分かり易いパターンだと言える。 Aさんはβを保護する為に既にαを1個費やしてしまったのだから、そのβを通常の価格よりもα1個分だけ高く買ったのと同じだからです。 法律がガサツなんですよ、と私が言うのは、この様な点についてもです。 テレビドラマなどで、この問題に触れる表現を見た事が何度も有ります。 幼い子が親を描いた絵が粗末に扱われる様子を台詞もナレーションも無しで映像だけで見せるシーンがそれです。 それ以外の例は覚えていませんが、要するに、何が正しくて何が間違っているかは、本当は誰の目にも明らかなわけです。 それなのに、その基準を成文化しろと言われると、誰も出来ない。 みんなで知恵を絞って作った法律も、一面非常に良く出来ているんだけど、行為の外形の種類を取り締まる形式に成っているなど概念構成に的確でない所が有る。 つまり、みんなが思ってる事を上手く書けてないわけです。 何が正しくて何が間違ってるか誰でも知ってるわけだから、悪人も知っている。 だから、本当は合法違法と善悪は完全に一致していなくてはいけないんです。 少しでも食い違ってる部分が有ると、悪人がそこを狙って来るのです。 これは法律だから善悪の基準とは違います、ではいけないんです。 何が正しいかどうせ私にしか分からない領域が、さらにその先に有るわけですが、それ以前の問題として「法律が書けてない」という問題が有るわけです。 動物を殺しても器物損壊罪にしか成らない、というのもです。 善悪と合法違法が程度で食い違ってるので悪人はここを狙って来ます。 最近は、動物愛護の法律に違反するという視点も多く見られる様に成りましたが、それでも不十分です。 自分が所有している動物を殺される事は無生物を壊される事よりもずっと嫌(い)な場合が多い、という視点が欠けているからです。 もし法律家にこの点を反省しなさいと言ったなら、ともすれば、心理学などの客観的な法則に基づいた(誰でもそう感じるものだと言える様な)精神的苦痛などの被害として何が認められるかの範囲を広げる方向に行くと思うんだが、それは的外れだ、というのが、好き嫌いが基準だという私の説です。 本当は、好き嫌いという主観的な基準が基礎なのであって、客観性は、それに公平性を加味した時点でやっと立ち現れて来る物である。 精神的被害は、実害と区別されて、実害よりも一段低く軽く見られる傾向が有るが、これは間違いだ、という事も言っておきたい。 好き嫌いが基礎なのだから、実害が害である根拠も、被害者がそれを嫌(い)だと評価する事である。 その意味では、全ての被害は精神的被害であり実害はその特別な場合だ、と考えるのが本当は正しいのである。 上記のAさんBさんの問題について私は、次の視点も持っています。 Aさんにβを売ってくれとBさんが頼む場合、Bさんがどんなに多額のおカネを払うと提示してもAさんは売るのを拒む事が出来る。 それはAさんの自由である。 それなのにAさんの制止を振り切ってBさんが一方的にβを破壊したならばBさんは少ししか賠償しなくてよい、とするのは、そのAさんの自由の否定であるから間違っている。・・・※1 これが私の論法です。 これは嫌がらせについても言える事で、BさんがAさんと対話をしたければ「話をしたいんですけど」とか「ちょっとお時間よろしいですか?」などとAさんに依頼して了解を得る必要が有り、Aさんには時間がよろしくてすらその依頼を断る権利が有る。 それなのに、BさんがAさんに無断で一方的に嫌がらせをすれば、AさんはBさんに抗議せざるを得なくなる。 これは、AさんのBさんとの対話を断る自由の侵害だと考えられる。 その上、AさんによるBさんへのこの抗議を、Bさんに了解を得ずに一方的に話しかける行為だとして訴える、という犯罪をBさんがするというパターンまで有る。・・・※2 このページで扱った問題について、2千1桁年代に私はウェブ上の「教えて下さいML(http://www.freeml.com/nazenani)」というメーリングリストで質問した事が有る。 司法試験を受ける為に勉強していた人が応答してくれたが、法律の不備ではなく限界だと答えたのだったか、納得の行く答えは得られなかった。 ※1をどう思うか、と質問したのだったと思う。 私の相対正義論全般を見れば分かる様に、このページで私が指摘している問題は、現行法の概念構成、論理構成が的確でない事によって生じている問題であって、その概念構成を相対正議論に変更する事は、限界を超えるので出来ない事、ではありません。 メーリングリストで応答してくれた人がもしここを見ているなら、どういうコメントをすべきか迷います。 うっかりすると誹謗中傷してしまいそうです。 そこで考えたコメントが以下です。 「あなたが司法試験に合格して弁護士に成った場合に間違った仕事をしなくて済む世の中にする助けに私の相対正義論が成れば幸いです」 こんなところかな。 私は、現行法には犯罪を可能にする抜け道が故意に設けられている、と思っています。 ※2は、その悪用例です。 この様な犯罪に法律家として仕事で味方してしまう事は、本当に嫌(い)ですよね。 どうして犯罪を可能にする抜け道が故意に設けられているか、それは「そうしないと強い者が勝つんだ」という人がそうするからです。 じゃあ「強い者が勝つ」って何なんだ。 何かと思ったら、「正義が勝つ」事を捻じ曲げて「強い者が勝つ」と言ってるんですよ。 ごめん、このページは日付が変わった後も編集したよ。 |
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