since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 日記 >
< 2021年12月 >
< 24日 >
2021年12月24日(金曜日)
派遣労働体験談、話しかけについてだけじゃなくなっちゃったね

話を次の段階に進めたいところですが、このあたりで、ここまでに書いて来た事の補足説明や注釈を書かないと、それらを書く機会を逸しそうなので、今日は、そういう話から書き始めます。

昨日までに私が説明して来た様な事情は、その現場がもしずっと盗聴や盗撮されていて、その結果を視聴したとしても、どういう事情か見抜く事が出来る人は全く居ないでしょう。
事情は私に説明されないと分からない。
昨日までの私の説明は、そうだと分かってもらう為の説明でもあります。
実際に盗聴や盗撮は行なわれていたのではないか、と今では思っています、当時は思わなかったけど。
そして、それに漫画の吹き出しを付ける様にして、私が何もかも悪いんだという曲解をこじつけて、いずれかの範囲の人に流布する、という事をされているだろう、と私は疑っています。
独り言で今自分が考えている事を声に出して言う習慣が私に有る理由のひとつは、それを防ぐ事です。
そして、独り言を言う私の習慣にケチを付ける人は、私の独り言によって自分達の犯罪が防がれているのを何とかしようとして、そうしています。
さて、盗聴や盗撮の結果を見てすら本当の事は分かるものではないのだから、裁判なんてまともな結果を出せるわけがないのです。
裁判では、もっと乏しい証拠だけに基づいて表面的な罪しか問題にされないからです。
それでもしないよりはマシだろうが、とあなたは言うかもしれない。
そうとも限らないんですよ。
そういう裁判では善悪が逆転してしまう(事が有る)からです。
そんな不良品の司法制度で世の中が動いているというのは、公共の交通機関が故障を抱えたまま運用されているのと同じです。
飛行中に翼が折れるかもしれない旅客機で飛ぶみたいな。
数日前「新・映像の世紀」というテレビ番組でロックフェラーという大富豪の姿を見て、昔はあんなにカネモチでも肥満体形では無かったんだなあ、と思った。
明らかに、その時代から現在までの間にアメリカ人の体の形が全体としてどんどん醜く成って来ていませんか。
法禍による逆淘汰(劣勝優敗)が起こっているのではないか、と私は疑っています。
考え過ぎかもしれないけど。
幾ら優勝劣敗ではいけない優勝劣敗ではいけないとキャンペーンを張って承認を得ても、劣勝優敗なら良いという承認を得た事には成らない。
最近、ダーティーハリーという映画を第1話から第5話まで通して見ているのですが、第1話で主役によって「どうしてなんだ、おかしいじゃないか」と批判されている状況がどうしてなのかを第1話から第5話までの推移によって分かれというメッセージがこの作品には込められているのではないか、という事に気付きました。
第1話で主役によって批判されていた様な態度の人に第5話では主役が成ってしまった、という話なのかも。
それから第5話では、精神病が犯罪の原因に成るのは希だ、と医者役が言っています。
現在、テレビニュースを見ても新聞を見ても犯罪者はハンで押した様に統合失調症だとされているのとギャップが大きい。
サラミスライス式に長期計画でメディカライゼイション工作が浸透して来た証拠でしょう。
この様な、評判を操作する工作が「集団ストーカーの何々キャンペーン」という言葉の「キャンペーン」という概念に良く馴染むので、メディカライゼーションの主犯と集団ストーカーの主犯は同一だろう。
どう頑張ってみても、裁判であるとないとにかかわらず、事実の認定で「誰かが精神病だから」という理由を根拠に使うのは、せいぜい「本当に精神病だったかもしれないじゃないか、絶対に違うとは言えないじゃないか」という所までであって、積極的に「精神病なんだから」という理由付けで判断するのは、それこそ正気の沙汰ではない。
(したがって、調子に乗って「あれもこれも精神病だ」と言ってしまった今では、もう誰もウソを取り繕う事は出来なく成っているのです)
「精神病だ」「精神病だ」と言ってる人々でも、そのぐらいの事が分からないはずが無い。
なら、分からなくて言ってるのではなくて、悪意を持って冤病しているのです。
その動機も分かり切った事です。
「あいつが精神病なんだ」「そんなのは妄想だ」と思わないとやり切れない、あいつが精神病でないなら、それが妄想でないなら、自分達がどんな人で何をして来たかが恥の骨頂である、それを直視する事は耐え難い屈辱である、だから「あいつが精神病なんだ」「そんなのは妄想だ」とする。
そういう認識形態こそが妄想なのであり、そうする様に成ってしまった人こそが精神病患者なのであり、現実の厳しさに耐えられなかったのである、本当にそう思って言ってるんならね。
それが事実だなんて絶対に嫌だと思われる恥の骨頂と言われても何の事か思い浮かばない人の為に、具体的に言うとこんな事ですよ、という形で説明する目的も昨日までの記事には有ります。

ここで少し訂正や補足をしようと思ったのですが、今メモを誤消去してしまったので、思い出した分だけ書きます。

一昨日の記事の種野の「そう成ってしまった、もう手遅れだ」という発言は「そう成ってしまった、もうおしまいだ」だったかもしれない。

法の下の平等に従がいながらだと、雇用者が被雇用者を屈服させるには被雇用者が違約した所をとらえて呵責するしかないと書きましたが、これについて補足します。
実際には、呵責するのではなく、被雇用者が常時違約しておりそれを雇用者が常時大目に見てやっているという関係、大目に見てやってる大目に見てもらってる関係を絶対に必要だと感じる雇用者が多い。
しかし、しなければいけない事を被雇用者が出来ないならばその事は契約時のすり合わせで気付かれて契約は不成立に成るはずです。
契約時のすり合わせがそんなに百発百中に出来るわけがないじゃないか、と言われれば、それはその通りです。
しかし、しなければいけない事を被雇用者が出来ないという事態はすり合わせミスのせいだと言うなら、どうして大目にみてやってる大目に見てもらってる関係はどの職場でもほぼ必ず存在しているのでしょうか。
それは、契約時に雇用者がすり合わせに必要な情報の一部を故意に伏せて含みを持たせ、被雇用者をフライングさせて契約を結ぶからだと考えられる。
これは雇用者による不正である。
被雇用者の常時の違約を大目に見れる、最初からそのつもりだったという事は、それは実態としては違約ではないという事で有り、本当は雇用者は契約時に被雇用者にそれが分かる様にしなければいけなかったのだ。
そうでないのは、雇用者本体が被雇用者本体よりも優れている場合だけでしょう。
本当に違約なら大目に見る事は出来ないはずだ。
大目に見る事が出来るという事は、本当の違約ではない、実態としては契約通りだという事なのである。

盗聴や盗撮の結果を見ても真相を見抜くのが困難なのは、誰が頭の中で何を考えているからそうなっているのかこそが肝心だからです。
これをテレビドラマとかは決して表現しない、と書こうかと思ったのですが、良く考えてみると、そうではありませんでした。
テレビドラマも悪役が何をどう考えて何をしたからどう成った、という事を視聴者に分かる様に表現しますね。
でも、テレビドラマは決して表現しない事が、これまでの私によるレポートに含まれていると思うんだよね。
例えば、米倉涼子主演のドクターXというテレビドラマで、主役が腕の良さを正当に評価されないままに仕事を増やされ、それでもお前だけ仕事が遅いと言われ、それによって手術ミスで患者が何人も死んで、他の医者ではそんなミスは考えられないと言われ失職する、といった描写がもしかすると見られたかもしれないなんて可能性は無いと思う。
そういう事はテレビドラマで表現されないだけでなく、むしろ本当の悪は、被害者をテレビドラマの悪役に見える様に持って行くものです。
だから、テレビドラマでは表現できないのです。
テレビドラマを作る人だってやってる犯罪、これからもずっと使って行くつもりの、みんなの大切な武器だからじゃないですか。

派遣労働で勤務した半導体部品工場で自分が就任する職種を「どぶに落ちた雑巾」という言葉で私は初出勤の道すがらイメージした。
また、職場で出会うどんな同僚や上司も、想定としては、言葉を交わせば交わした分だけ時間と体力が無駄に成るだけな人々だと考えていた。
(今日だったかIT犯罪の犯人が被害者に時間の無駄だと言うのをテレビで聞いたが、私の文章のこの部分への反応だろう。ただし私がこの部分を書いたのはそれより後。昨日までに私が声で言った事への反応か)
もちろん、実際に会ってそうではないと分かれば率直にそれを認めるつもりだったし、美人女性は別です。
そういう想定だったので、もし素晴らしい人が居ても相手から申し出てくれないと私から話し掛けることはありません。
話し掛けなかった事をナンテもったいない事をしたんだ、と後悔する様なもっと素晴らしい人も居た可能性が論理的には有りますが、まあ居なかっただろう、あれで良かったろう、と思っています。
その工場の工場としてのレベルには、業種が半導体部品製造だったので、半導体部品製造の他の工場よりランクが低いとは言え、他業種の工場よりは高級な工場だと一目置いたが、自分が就任する職種については、そもそも「工場の製造ラインの現場労働者」という地位が屈辱だった。
本業にブランクが出来るという点以外では、それで自分の素晴らしさが変わるものではないので、屈辱という表現は正しくないが、私の気持ちを直感的に理解してもらう為にはこの言葉が適していると思うので、あえて「屈辱」と言う事にします。
制服の作業服を着るのも屈辱だったし、指差呼称の動作と発声「よしっ」も屈辱だったし、作業内容にも興味は無かったし、被雇用者という地位も屈辱だったし、新米という地位も屈辱だった。
集団ストーカーで私に来る市役所の俗物などは、これを良いザマだと、そうでもないとやり切れないよと感じたであろう。
つまり、偉いのは設備だけであって、そこで働いている人も、そこでの人の働きも「下の下」というのが私の価値観であり、初出勤前にそう想定し、その後もその考えは変わりませんでした。
そんなお高くとまった登場人物はテレビドラマでは必ず悪役と決まっています。
ものすごくカネモチだとか、ものすごく社会的な地位が高いとか、ものすごく頭が良いとか、ものすごく美人だとか、そういう人はテレビドラマでは必ず、悪役で罪を犯しそれ故に下の下よりもっと下に成るか、または、私が下の下だとこきおろす様な事や人に羨望や賞賛や劣等感や深い興味を示し別れを望まないか、必ずどちらかであり、お高くとまったまま全ての勝負に勝ち「これでもうお前らにも良く分かったろうが」と言いながら何の未練も無く去って行く登場人物は見た事が無い。
しかし現実では、罪を犯すのは下の下のやつらであり、ものすごく・・・な人が下の下な事や人に羨望や賞賛や劣等感や深い興味を示し別れを望まない事はないのである。
あれば、それはお世辞である。
こんな罵詈雑言、悪態をつく私がもしテレビドラマの登場人物なら、必ず人として絶対にやってはいけない様なひどい罪を犯すが、しかし現実では下の下の人がそういう罪を私に犯したのです。
現実では、恵まれた人は、恵まれてない人に近寄ると自分の身にどんな火の粉が降りかかるか分からないので慈善活動以外では近寄らないようにするものです。
恵まれた人の様子を見せるのはかわいそうだから近寄らない、というのも有るでしょう。
本当は自分も恵まれてない人の様に暮らしたかったなんて、有るわけないだろう。
有ると思うのが妄想なんだよ。

時間が来たので続きは明日書きます。