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2021年12月27日(月曜日) | ||||||||||
派遣労働体験談6 | ||||||||||
相手がかわいそうじゃないか、という点について、私が境遇に怒っていたとしても、相手が心的にでも嫌だと感じる様に狙って選択したならばその選択が顔の表情を変えないといった類の行為の外形として何ら違法性が無い選択であっても、私の相対正義論における弾力的義務には違反してしまう。 その様な選択を私が社会への抗議と位置付けた、という事は私を見た人が苦痛を感じる様に狙ったという事ではないか。 そういう事に成りますね。 では私の選択は、私の相対正義論の弾力的義務に違反していたのか。 違反していなかったと考えています。 それは、既に受忍義務を超えてしまった被害を私が自腹で埋める行為を最小限に留めるという目的も同時に存在していたからです。 弾力的義務の理論における、実被害の受忍義務を超過した分だけ協力義務が減る、という規定が適用されます。 正当報復や正当な八つ当たりです。 また次の様な見方も出来ます。 Aを狙って選択してもよいがBを狙って選択してはけない場合、AとBの両方を狙っての行為の外形がAだけを狙っての行為の外形と全く同じならば、AとBの両方を狙っての行為は、Bを狙って選択してはけないという規則への違反ではないと見なされねばならない。 これはAだけを狙って選択したらBの達成がおまけとしてついてきた、Bの達成は能動的に狙ったのではなく受動的に好感するのみである、というl構図です。 Bを狙って選択してはけないという規則への違反ではないけれど、他者の邪魔に成り過ぎてはいけないという規則に違反しないかも考えなくてはいけない。 これについては、通俗の法律に違反しない程度の事だから違反してない、という暫定的な判断で良かろう。 どちらにせよ通俗の法律に違反してないんだから私の勝手でしょ。 私が従がおうと努めている規範論理は、この様に、私独自のものではあるけれど、現代法的正義観を、要するにこういう事でしょ、という風に自主的に深読みして、通俗の法律より先まで行っている、そういう洗練された規範論理です。 これを私は1990年代前半に「宇田イズム」という言葉で誇りました。 独り言でしか言わなかったと思いますが、それを境に、世間で「イズム」という言葉がもっと独創的でない方針を表すためにやたら用いられるのを聞く様に成り、それはまだ続いています。 これも直した方が良いよ。 テレビで年長男性が特定の若者の態度を「自分達の勝手な正義観で動いている」みたいな言葉で非難するのを聞いた事が有ります。 テレビドラマの登場人物の台詞だったと思います。 例によって、若者の勝手な正義観から犯罪が出る、という表現で若年者を貶める事によって年長者をいい気にさせる御世辞表現でした。 これも、私の規範論理を、内容を知らずに存在だけ知った人による表現だった事でしょう。 そんな事を一々わたしが覚えているのは何故か、そのぐらい嫌だったからですよ。 社会への抗議には、無表情・無反応だけでなく例えば、馬鹿にしている人は必ず怠るはずだ、という期待を裏切るという形で周囲の人を打ち負かす、というのも有りました。 これなんかも、間違っているから直しなさいとは言えない様子が良く分かる例でしょう。 天才の服装の話の続きを書きます。 天才は毎日がオフ、一生私生活みたいなイメージの自由業。 作家の先生なんかも、これですね。 毎日自宅で休日の様に過ごしている制度性の権力を何も持たない普段着の天才、これが自由主義、民主主義社会の優勝者を象徴するイメージです。 好きな事を好きな様にするのが最も世の為人の為に成る、私利と公益が完全に一致した人。 手柄も一番、幸福も一番。 普通なら、そんな生活をしていると体も心も頭もなまってしまって何も生み出せないのがオチだ。 だから、それは失業者と紙一重であり、この事は「天才と馬鹿は紙一重」の具現と見なされます。 その様な天才は、散歩している時など机に向かっていない時に実は最も働いており、それは、個人において作業の手を休めた時にこそ名案が思い浮かぶのに相当する役割を社会において担う、手を休めて名案を思い付くのが仕事である人です。 したがってその業績は、実践よりは方法、特殊よりは一般、具体よりは抽象、ハードよりはソフトに寄る傾向を持っており、この事がハードなイメージのスーツではなくソフトなイメージの普段着によく馴染む。 私が1人称を「僕」と書く事にケチを付けられたのはMSNコミュニティ「物理とともに」での事で、ケチを付けたのは「どてらβ」さんです。 どてらβさんは、ここならケチをつけても反論は無いだろうと思ったかもしれませんが、残念でした、こんな事にまで理由が有るなんてね、私は。 いま派遣労働体験談として良いのが書けていると満足しているのですが、一生自宅で私生活だったなら、これは書けなかった所です。 転んでもタダでは起きぬ、という事では有りますが、転ばなかったら私の生涯生産高は馬鹿に成らないぐらい減った様です。 悪徳百科事典みたいなのが書けてると思う。 網羅性は無いけど、悪徳百科事典を作るならこのぐらい深く切り込んでよね、というメッセージが発進できてる。 法の下の平等に基づけば厳密には上司は上ではないし、部下は下ではない、と書きましたが、それについて以下の事に気付きました。 人は上だったり下だったりしないけど、上司が担当している仕事の方が、部下が担当している仕事よりも上だ、という事なら法の下の平等に違反しない。 そして、そういう事なのだろう。 国会は国権の最高機関である、と言うし、最高裁判所なんて言葉も有る。 仕事に上下は有るようだ。 前置きが長く成りましたが、ここから今日のメインテーマについて書きます。 今日のメインテーマは、私が絶対に譲らない事と特にこだわってない事、です。 これは私の好き嫌い属性に分類されます。 私が最も素晴らしいと思う種目(主種目)で優勝する事を自分の目標の中で実質上の最優先目標とする事、これを私は絶対に譲らない。 「実質上の」というのは、命の方が大事だといった様な事です。 どの種目であれ、自分の実力が他者に実際より小さく見える様に狙って選択する事はしない、これも譲りません。 どの種目であれ、自分の実力を自己評価より小さく言う意見には賛成しません、これも譲りません。 主種目以外では、自分の実力が実際より小さくない事を証明して見せる事にはこだわらない。 自分の実力が実際より大きくない事を嫌だと思う程度は種目ごとに異なります。 これは、単純に重要だと思う種目ほど嫌だと思う程度が大きい、とは限りません。 その理由は以下です。 重要だと思う種目でも、自分がそうありたいと思うレベルに自分の実際の実力が既に達していれば、全く嫌だと思わない。 重要だと思う種目ほど自分の実力を高める努力を多くするので自分の実際の実力が既にかなり高まっている傾向が有る。 以上が理由です。 さて、私が派遣労働を経験した工場では、ある正社員が私に向かって次の様に言いました。 「自動車関連の製造ラインではもっと体力が必要だ」 そう言ったのは、休憩時間に私が話しかけても無視した人でした。 これは、「お前、自分が一番だと思うなよ」「もっと上が居るもんね」という意味でした。 つまり、それまで、そこの半導体部品製造工場で私の体力の限界を見ようとした(こいつら何やってんだ、何の権利が有って)が、生産計画をどう歪めても半導体部品製造という業種ではもうこれ以上は出来ない、その範囲内で宇田の体力の限界を見る事が出来なかった。 それで悔し紛れに「自動車関連の製造ラインではもっと体力が必要だもんね」と言ったのだ。 それまでに有った事とこの発言が相互の証拠に成っている。 さて、それでは、体力という種目は、私にとって何でしょう。 それは最優先の主種目ではありません。 主種目は特定の学問です。 学問でも自分が選んだ分野以外は主種目ではありません。 武道は私の上位目標のひとつなので、体力という種目は主種目ではありませんが重要です。 体力を高めたいという願望は普通より高い方でしょう。 そのための努力もしていたが、願望の方も実力の方も一流の体力(を)とは考えていませんでした。 それは「いつか出来れば」という意味では青天井の向上心を持っていましたが、派遣労働をした時点では、現在の自分の体力を上中下に分ければ中ぐらいだと思っており、それをそんなに嫌だとは思っていませんでした。 腕立て伏せの回数などを20才頃の回数まで戻したいがまだ出来てない後でやろう、と思ってた頃です。 それから、体力の中でも呼吸がからむ持久力では私は学校の同級生の中でも下位でした。 つまり長距離走の順位はこれまでの人生で一貫して下位です。 自転車はちょっと違うかもしれないけど。 長距離走の能力が自分は平均より低い事を私がどう思うかと言うと、嫌だけどそれが自分なら仕方が無い、原因を突き止めて能力を高めれないか、高めれないとしても嫌で嫌で仕方が無いというほどではない。 そう私が思うのは、武道で必要な体力が持久力ではなく瞬発力だ(誤解かもしれないけど)からだろう。 派遣労働した当時の私も、そう考えていた。 つまり、自分の持久力は普通以下で、それをあまり嫌だとは思ってなかった、という事です。 それなのになぜ、お前の体力は優れていないんだ、と言われる羽目に成ったのか。 それは多分、息が上がる事に対しては私は弱いんだけど、息が上がらない持久力は別だったからではないか。 息が上がらない持久力も特に自信が有るわけじゃないんだけどね。 私の自意識は、自分は体力派じゃなく、頭脳派にしては体力が有る方だ、ぐらいなんですよ。 その私の体力にどうしてそんなにこだわるかなあ、って事なんです。 つまり、本質を言うと、私は主種目以外の種目の自分の実力にはあまりこだわっていない(ありのままの事実を言われてもそうですね残念ですねと応じるつもり)、そんな種目でもそれが実際の私の実力より小さい事を証明しようとされた時には、面倒だからそれでいいや、とは出来ない性分なんですよ私は。 それだと、限界まで付き合わされる計算に成るじゃないですか論理的に。 それに怒っているんだ私は。 どこへ行ってもこれなんだよ、学校もじゃなかったかなあ。 ゾウリムシなんか。 何年か前にボビー・オロゴンの腹筋のトレーニングで、普通の打撃ではびくともしないのでハタケヤマというボクサーが上から全体重で踏み始めたのをテレビで見た。 あれ大丈夫だったのかなあ。 ゾウリムシに成ってたのじゃなかったら良いんだけど。 今日はウダオサムにツボタという常連客が来た。 戸を閉める音が乱暴だったので、昨日の「いいですか」の件かなあと思った。 また、昨夜から今朝にかけて寒波が始まったみたいですね。 昨日の記事みたいに私が集団ストーカー勢力にトドメを指す様な事を書くと、冷やされるパターンが有ると感じている。 そういう時ウダオサムが「さびーのー、にんげんのすむところじゃにゃーのー(寒いのう、人間の住む所じゃないのう)」と発語するパターンが有る。 この発言における「寒い」というのが私の不正を許さない態度の事を言ってる様にいつもものすごく感じる。 何か、ウダオサム達が人肉を燃やして暖を取ってるのを私が摘発して出来なくしたみたいな印象を受けるのだ。 読み直すと直したい所があったけど、時間が来たので、また明日。 |
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