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2021年12月01日(水曜日) | ||||||||||
遺伝子と人生戦略(相対正義論の話) | ||||||||||
さて今日は、破損しやすい私権を自分の一存だけで勝手に非常に上位に置く人が居れば他の人が迷惑するか、という問題から考え始めたい。 結論を言うと、そんな事は無いだろう、というのが私の予想だ。 理由は、弾力的義務の理論では義務は努力義務であって結果責任ではない事です。 優先度が同じ私権にはそれを侵害しない努力を同じ程度だけすればよいのであって、私権が侵害されたかされなかったかという結果を揃える義務は無い、という事です。 また、破損しやすい私権を非常に上位に置く人は、それ以下の私権を弾除けに使うという事だから、その分だけ上位に置かれた私権の安全性は高まります。 本当の事というのは決して矛盾しません。 正しい理論もそうです。 正しい理論においては、各部分が巧妙に相補いスレスレの所で矛盾が回避されます。 社会科学では「合成の誤謬」という言葉を得意に成って言う人が居ますが、これも正しい何かと別の正しい何かが矛盾している事では絶対にないはずです。 だから、もうほとんど矛盾してしまいそうだ、という状況は大発見の前兆である場合が多い。 大発見と大間違いもまた紙一重なわけです。 弾力的義務の考え方が自由と公平の両立の問題を矛盾から救う様子は、まさにこれを私に感じさせます。 もし破損しやすい私権を上位に置く人が居れば他の人が迷惑するなら、それは不公平を意味したところです。 開封理論にも書いた様に、公平とは授受の平等だから、公平が成り立っていても、自分自身が自分を益する量の差や、他者から受けた益をどれだけ活用できるか(燃費の様な事)の差の分だけ、結果は不平等に成ります。 「狙って選択する」「邪魔に成る」の問題での誰が何をどれだけ譲るかも、昨日の記事のイメージで理解できます。 好きな結果が生じる様に狙うのだから、結果が狙い通りに成る事は、結果が好きだという事です。 そこで、受忍義務の基準に使う、結果がどれだけ嫌(い)か、という観点と、狙って選択した結果がどれだけ好き(好ましい)か、という基準を統合して、(好き度)=(-1)×(嫌い度)を(結果に成り得る事)の関数と考え、この関数が個人ごとに異なる、と考えます。 すると、(狙いの候補の優先順序)と(邪魔に成らない様に協力する義務)の関係と受忍義務の両方をまとめて、昨日の記事の描像で理解できそうだ。 そこで結果が狙い通りに成る程度の話をすると、優先順位第何位までの目標が結果として達成されるかについて、結果は平等に成りません。 自分の能力の総合計が大きい人ほど、また達成され易い目標を上位に置いた人ほど下位の目標まで達成されるからです。 ただし、達成され難さと好き度が一致している人は、達成され易い目標ばかりを上位に置いたのでは、結果全体の好き度は最大に成りません。 そして、目標の優先順序は後天的に自分の意志で決めるものですが、好き嫌いは自分そのものであり意志では変更できないほとんど先天的な属性です。 優先順序の選択はイクオール人生戦略だと言えます。 それに対して、好き嫌いはほとんど遺伝子で決まると言えます。 したがって、どの人も自分の遺伝子に合った最適の人生戦略を取るなら、各人の結果全体の好き度(満足度)の期待値はその人の遺伝子で決まる事に成ります。 これが正義の結論なんです。 「強い者が勝つ」という歪んだ言い方で悪人が表現し忌み嫌うのも、これです。 「公正裡の経済現象は非干渉生命現象の相似拡大に他ならない」という宇田経済学の標語のコンセプトが、こんな所に出て来るなんて。 私の場合、大学卒業時の選択で、独学の続行を普通では考えられないぐらい上位に置きました。 それは、私の遺伝子では、そうしない事は耐えられないぐらい損な選択だったからです。 世の中の九十九点九何パーセントかの人々にとっては、そうする事は耐えられないぐらい損な選択なのだけれど。 (この私の理屈を頑なに否定した人々よ、で結局どうだったんだ、オレの言った通りだったろうが、どうしてくれるんだ) 私がそういう選択をしたという事は、世の中の九十九点九何パーセントかの人が諦めるのは絶対に嫌だと思っている様な事、を全て質に入れる様な選択をした、という事です。 これはオール・オア・ナッシングの賭けであり、独学で成功できれば質に入れた事を何もかも買い戻してお釣りが返って来るけれど、独学で芽が出なければ質に入れた事だけでなく他の事でも収穫ゼロの人生に終わってしまう。 こういう理屈なんです。 どこも間違ってませんよね。 それなのに、私の独学手段という物が、相応に尊重されなかった。 例えて言うなら、私は頭を残す為に足りないなら全く躊躇せず「あ、そう」と言って脚を切り捨て、それでも足りないなら全く躊躇せず「あ、そう」と言ってさらに腕を切り捨てた、それなのに、それを見た人々は私が平気な顔をしている事を不満に思い、頭が残っている事を不満に思い、まだ足りないと言って来た、こういう事です。 私が躊躇なく「あ、そう」と言ってやってのけたら脚や腕は大した事ないのでしょうか。 そんな事は有りませんよね。 具体的に言うと、勤め先を解雇されたり、勤務条件で独学を妨害されたりが、それです。 こうまではきちんと説明できなかったが、この理屈の断片を口にする事が1990年代の私には何度か有った。 思い出した、違った、そういう背景があって、20年間限定として独学を後回しにして実家に帰った事を何度か口に出して父か母に言ったのだった。 それを受けてらしい台詞を当時テレビドラマで聞いたのが、うるさかった。 男女関係で男が女に「多くの大事な事を後まわしにしてあなたを優先したのに・・・」と言った事を女が不満がる、という内容だった。 分かって言ってるんだったら良いんだけど、視聴者も分かる様に言ってるなら良いんだけど、違ったなあ。 「自分探し」という言葉もそうだったんだけど、私の発言の字面だけを私よりずっと浅薄な意味でそれも軽蔑される様な使い方で使う例が多いんだよな。 ーー 別の話なんだけど、今日テレビニュースで入学試験の話題で「勝負ごと」という声が聞こえたので、ちょっと。 少し前に私は、勝負事で相対評価を譲る義務は無い、という話をした。 入学試験はどうかと言うと、はい、得点の高さの順位を譲る義務は有りません。 けれど、教育を受ける機会というのは、相対評価ではないですよね。 だから、相対評価を譲る義務は無いけれど、だれが教育を受けるかを学力の相対評価で決める事まで正しいとは私はまだ言ってません。 ここまでの私の論調は「正しくない」という内容に成っていますが、そういう私の意見が間違っていたらいけないので、あまり強硬には主張しない事にします。 また、誰が教育を受けるかを入学試験の成績で決めても決めなくても、独学は妨げられてはいけないし、教育を受けた後の学力の相対評価では独学した人を対象から外してはいけない。 |
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