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2021年11月06日(土曜日)
「~が・・・する様に狙って選択する」という言い方の長所(相対正義論の話)

故意の働き@義務の弾力化@相対正義論@持論@学問で説明されている考え方の補足説明を書きます。

既存の文法で許される無数の文型の中から私が選抜した「~が・・・する様に狙って○×する」という言い方は、「目的」という言葉を使った言い方とどこが違うでしょうか。

「石が的に当たる様に狙って石を投げる」という文を例に取って、その事を見てみましょう。
「目的」という言葉を使った言い方との違いは、「石を投げる」という行為の外形の詳細を指定する働きが有るか無いかの違いです。

「石を的に当てる事を目的に石を投げる」と言った場合には、石を投げるという行為の外形の詳細が指定されません。
目的は石を的に当てる事だから、石が的に当たる様に狙って石を投げただろうと推測は出来ますが、そう書いてあるわけではありません。
「石を的に当てる事を目的に石を投げる」という言い方では、石をどの様に投げるかを目的とは独立に書けます。
「外形がコレコレである行為をした、その目的は石を的に当てる事だった」という風に。
「コレコレ」の部分には、単に石を投げる形であった事だけでなく、どの様に投げたかを幾らでも詳細に記入する事が出来ます。
その詳細が石を的に当てるという目的にふさわしくなくても、「外形がコレコレである行為をした、その目的は石を的に当てる事だった」という言い方は間違っていない。
つまり、「目的」という言葉を使う場合には、何をしたか(行為の外形)と何を考えていたか(目的)を切り離して別々に論じている事に成る。
外形を詳細に至るまで完全に指定された単一の行為に複数の目的を考える、これが「目的」という言葉の使い方です。

それに対して、「石が的に当たる様に狙って石を投げる」と言った場合には、「石が的に当たる様に狙って」である事が「石を投げる」という行為の外形を指定しています。
その指定の仕方は、角度が幾らかスピードがどれだけかといった様な物理学の言葉を使っての指定ではないし、狙って投げた人の能力や真剣さによって「石を投げる」という行為の外形は変わって来るけれども、それでも柔らかく指定しているわけです。

例えば外形が角度とスピードの2つで完全に指定される行為を考える時、横軸を角度、縦軸をスピードとする座標平面内で、禁止されるべき外形の行為に対応する領域は、数式や言葉で表現できないほど複雑に成ってしまいます。
石が的に当たる様な投げ方を禁止するだけなら、それほどでもありませんが、台風が生じる様な扇の振り方を禁止しようとすればそう成ってしまう、と言うのが、カオス理論でバタフライ効果として言われている事の意訳です。

従がって、行為の外形への禁止を物理学の言葉や数式で書く事は実際には不可能であり、扇を振る事は一律すべて禁止にするか、一律すべて許可にするしかなく、これが現実の法律で行なわれている事です。
現実の法律では、誰も居ない公園で扇を振る事は一律すべて許可(自由)だとされています。

しかし、一律すべて許可にした場合、その中に本当は許可してはいけない外形の行為が無数に含まれています。
台風が生じる原因に成る外形の振り方で誰も居ない公園で扇を振る事は、本当は禁止されなければいけない、という意味です。
技術的不可能と必要のジレンマに対する絶妙のバランス感覚でこの部分をカットするのが「台風が生じる様に狙って扇を振ってはいけない」という決め方です。
この様な禁止は必要です。
台風については実際には必要ないだろうけれど、狙って何かすれば狙い通りに成る事がたくさん有るからです。

ついでの話ですが、外形が角度とスピードの2つで完全に指定される行為を考えた時に捨象した要素に、他との関係(タイミングなど)が有ります。
実際にはこれが極めて重要なので、禁止を行為の外形への禁止として書く時も、他がどうである瞬間にコレコレしてはいけない、と決める必要が有り、ますます複雑すぎて書けません。
それに対して、「台風が生じる様に狙って扇を振ってはいけない」という決め方なら、地球の大気が全体としてどう成った瞬間にどの位置で扇を振る事についての制限か、という意味まで自動的に込められています。

また、行為の外形が同じなら罪は同じはずだ、という主張が、何を狙ったかで罪が違うという私の主張への反論には成らない事が、このページで説明できた事に成ります。
行為の外形が同じなら罪は同じか?
同じです、他との関係(タイミングなど)まで含めて本当に全く同じならね、微塵も違わなければね。
しかし、狙いが違えば行為の外形も少しは違うわけです。
その違いは、どんなに小さくても、ゼロではないわけです。
そして、その少しの違いが決定的に重要なのに、行為の外形への禁止文でその少しの違いをあげつらう事は実際問題としては技術的に不可能なのです。