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2021年11月08日(月曜日)
「~が・・・する様に狙って選択する」という言い方のチェック(相対正義論の話)

行為の外形という物を微に入り細をうがって記述するならば、行為の外形を禁止する事と狙いを禁止する事は等価である、と私は書いた。
しかし、根底に技術的可能と必要のジレンマ(必要の充足と技術的可能が両立しない問題)がある以上は、「狙う」という言葉を使って処理しても、なお微弱な不具合が残るのではないか。
今日は、この問題を考えてみる。

(1) 狙っても狙い通りに成らない事を禁止してはいけないのではないか、という点について。
例えば、台風が生じる様に狙って扇を振ってもそれで実際に台風を生じさせる事は不可能だろう。
だから「台風が生じる様に狙って扇を振ってはいけない」というルールを置いてはいけない、だろうか。
また、「相手が死ぬ様に狙ってワラ人形に五寸釘を打ち込んではいけない」というルールを置いてはいけないだろうか。
いけないことはない、そういうルールを置いてもよい、と私は考える。
幸福追求などの目的を達成する手段として狙う必要が無いからだ。
つまり、禁止されても実質上の自由は全く減らないから、そういうルールを置いてもよい。
余計な事をするな、というわけだ。
逆に、狙い通りに成らない事は狙ってもよい、と定めると、誰かがそのルールに違反した時に、狙い通りに成らない事を証明しなくてはいけなく成ったり、狙い通りに成らない事をリストアップしなくてはいけなく成ったりする。
狙い通りに成らない事をリストアップする事は、禁止すべき行為の外形の詳細をリストアップするより易しいわけではないので、それでは「狙う」という言葉を使った意味が無い。
同じ「ワラ人形に五寸釘を打ち込む」という外形の行為でも、行為者が呪い殺す効果は無いと分かっていながらマスターベーションとしてやっている場合には、そういう行為は自由だ。

(2) 狙ったわけではないのに行為の外形の詳細が犯罪に偶然一致してしまった場合について。
罪の有無を狙いで判別する方式と、行為の外形で判別する方式で、結果に食い違いが出る。
これについても、狙いで判別する方式の方が正しい、と私は考える。
その理由は、責任能力の有無である。
人に出来るのは狙って選択する事だけであり、その影響で結果がどう成るという事は自分の意志だけでは完全にはコントロールできない。
この様な理屈は、イスラム教道徳に見られると聞くが、狙って選択する事には責任を持て、という私の理屈は多分イスラム教道徳には無いだろう。
その意味で、私の相対正義論は、この問題についてはキリスト教道徳とイスラム教道徳の中間ぐらいに位置するだろう。
結果に責任を持てと定めたところで、そう言われた人に出来る事もそう言われた人が実際にする事も狙って選択する事だけであり、それ以上の事は誰にも出来ないのである。
結果に責任を持てと言われても、もっと真剣に狙う様に成るだけである。
ならば、結果に責任を持てというルールは、その真剣さで狙えというルールと同じなのである。
私の実感としては、私が悪気なくした事を、外形がそれに一致する行為を狙いに関わらず一律すべて許可(自由)だとする屁理屈の根拠に使う悪者が居続けた、と感じている。
例えば、歩行中何かを思い出して歩行の向きを突然180度変えて後続歩行者に迷惑を掛けた事が、私には有る。
また少年時代に日曜大工で大きな工作音を立てた事も私には有る。
どちらの外形の行為も集団ストーカー犯罪で悪用されている。

(3) 試行回数が増えて狙い通りに成ってしまう事について。
狙って選択しても、結果が狙い通りに成る確率が非常に小さかったり、結果が非常に小さい害である場合、その「非常に小さい」事が著しいので問題に成らない、としてよいだろうか。
いけない、というのが私の答えだ。
これは、行為の外形で判断すると禁止すべきでないが狙いで判断すると禁止に成ってしまう、どっちが正しいんだ、という問題だ。
狙いで判断するのが正しい。
「台風が生じる様に狙って扇を振ってはいけない」というルールを例に取って、この事を説明します。
台風が生じる確率がN分の1である場合、Nが幾ら大きくても、N回試行すれば台風を生じさせる事が出来てしまう。
特定の1人がN回試行する場合には、そのN回という要素も行為の外形だから、行為の外形での判断と狙いでの判断は一致するが、大勢の人が1人1回ずつ試行する場合には、各人の行為の外形への禁止では大きな悪い結果を防げない。
この場合、行為の外形への禁止と狙いへの禁止が食い違い、行為の外形への禁止が間違っていて狙いへの禁止が正しい、という事に成る。
集団ストーカーという犯罪は、現行法のこの微弱な欠陥を執拗に悪用する犯罪である。
だから、集団ストーカーという犯罪は、非常に有りそうな犯罪なのであって、それを心配する事を被害妄想だとする言説は揉み消し犯罪でありそうな気配が最初から濃厚なのである。
一体、精神分裂病(統合失調症)という病気と集団ストーカーという犯罪と、どちらの方が有りそうなのか、どちらの方が無さそうなのか。
集団ストーカーの方が有りそうで、精神分裂病の方が無さそうに決まってるじゃないか。
そんなもの有るわけないじゃないか、と言われるべきなのは、精神分裂病の方である。
精神分裂病は、有るかどうか疑わしいどころじゃなくて、有るわけないじゃないかレベルなのである。
それを逆転させて、精神分裂病が有るから集団ストーカーは無いんだ、なんて屁理屈が普及している。
そんな屁理屈を自分でも正しいと思っている人がほとんどだなんて思えない。
とすれば、口裏合わせ、共謀罪という事に成るじゃないか。
医学や医療という物まで動員してその無理を道理として通用させている、その罪の重さは一体どれだけに成るのだろうか。
また、有るわけないじゃないか、という率直な感想を、買収された医学や医者の権威を使って正反対の感じ方にまで持って行く、人を馬鹿にしていると言われるべきなのは本当はこれであるはずだ。
それがどうしても隠し切れないと成ると今度は「分断」などという言葉で、さも高尚な問題ででもあるかの様に格好を付ける。
集団ストーカーなんてものは、そんな高尚な問題ではなく、害が人間の尊厳を否定するまでに深刻である上にやり方が唯のゴリ押しである点で糞がこいた屁の様な犯罪であり、この問題について意見を求められた時の私の態度が極度の軽蔑調であったのは、そのためである。
その私の態度が、この問題の解決の必要性を小さいと私が思っている態度だ、と誤解された可能性についてはずっと懸念している。
解決の必要が大きく軽蔑されるべきとは、ちょんちょんで片付けられるのが正しいという事だ。
唯のゴリ押しとは、ただ白を切るのが徹底しているだけ、ただ口裏合わせの範囲が広いだけ、という意味だ。
歩行の向きを突然180度変える外形の行為も、日曜大工で大きな工作音を出す行為も、加害を狙ってのものでなければ、どの個人にも過度の被害が集中する事は無いものである。
歩行中に誰も直ぐ後ろを同じ向きに歩いては居ないだろうという想定は当たっている場合がほとんどだろうし、日曜大工で音を出す頻度やそうする人の存在密度は統計的に小さいからだ。
大人数で1回ずつ試行して狙い通りの結果を生じさせるという方法も、合意に基づいて行なわれれば、それは共謀罪であり、共謀は行為の外形だし、1人の人が大勢の人に教唆(扇動)してそう成ったならば、教唆(扇動)も行為の外形である。
従がって、共謀や教唆(扇動)の場合には、原理的には行為の外形で取り締まる事が出来る。
しかし、共謀や教唆(扇動)が無く大勢の人が独立にやってしまう事は、狙いで取り締まるしかなく、行為の外形では取り締まれないのである。
(ただし、行為の外形として集団の行為の全体の外形を考えるならば、行為の外形でも取り締まれます)

(4) 狙いを禁止する方式では因果関係の有無が行為者の主観的な判断に置き換えられている事について。
確かにそうですね。
行為者は「こうすればこう成るはずだ」と考えて狙って選択したが、客観的にはそんな因果関係は存在しない場合も有るでしょう。
その分、行為の外形を禁止する方式よりも、狙いを禁止する方式の方が不確かです。
悪い結果を狙う事の禁止ではこの不確かさは危険ではありませんが、良い結果を狙う義務ではこの不確かさは成績の低下(安全の不足)をもたらすかもしれない。
しかし、そのデメリットを補って余り有るだけの長所が狙いを禁止する方式には有ります。
それは、因果関係の立証が必要なく成る事です。
狙いを立証する事は行為の外形を立証する事より難しいけれど、狙いを立証すれば因果関係を立証しなくてもよい、と成れば、狙いを禁止する方式も十分に実用的であるわけです。
因果関係が存在する事とその因果関係が知られている事とは別です。
まだ知られていない因果関係が存在すると見込んで狙う、という行為には大きな可能性が有ります。
技術開発や科学実験の成功例が、その証拠です。
だから、まだ知られていないが存在する因果関係に依拠した犯罪も最初から禁止されねばならないのは当然の事です。
その禁止が、行為の外形への禁止では出来ないが、狙いへの禁止なら出来るわけです。
少し離れた所に居る人が自分の用事をしているのを見て私の直ぐ近くに居る年配男性が周囲の人々に「おい、何かしろ」と呼びかけたのを私は見た事が有ります。
おそらくアレも集団ストーカー工作だったのでしょう。
これを見れば、犯人が「こうすればこう成る」ではなく「(タイミングを合わせて)何かすればどうか成る」という因果関係を悪用しようとしている事が分かります。
これでは、因果関係を立証して有罪を宣告する事は到底不可能です。
この様なズル賢い犯罪も、被害が大きいだけに、見逃すわけには行かないのです。

ついでの話だが、行為の外形に対する一律すべて禁止と言えば、誹謗中傷、侮辱罪の罰則強化の話題が今聞こえて来ている。
これについては、行為の外形に対する一律すべて禁止の問題点として私がここまでに説明して来た事が全て成り立つので、大変な懸念を覚える。
侮辱罪の罰則強化という動きが防犯ではなく犯罪プロセスの一部である疑いも持つべきである。

どの様な言葉で表される外形の行為も、加害に使えるだけでなく、防犯にも使えます。
詳細を指定しないで同じ言葉で表される外形の行為を一律すべて禁止したのでは、その種の外形の行為による防犯が出来なくなってしまいます。
そこで犯人は、その種の外形の行為が総じて防犯によりも犯罪に役立っている時期には黙っていて、犯罪によりも防犯に役立つ様に成ると、その種の外形の行為で凶悪犯罪を行ない世間の耳目を集め、その種の外形の行為の評判を低下させ、その種の外形の行為の全てが一律禁止にされるように持って行く。
その結果、その種の外形の行為による防犯から犯人は解放される。
この手の犯罪プロセスが繰り返し実行されていると私は見ています。
私が、法律がガサツなんですよ、と言うのは、そこです。