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フロー経済と無限連鎖講

どのプレイヤーも必ず、通貨の所有量が減り続ける人か、または増え続ける人か、または変化しない人か、のうちのいずれかならば、その経済の実態は無限連鎖講です。
これを基準にして、通貨の所有量が増える時と減る時の両方が有る人が居ても、その(人数)×(変化量)が小さかったり、そういう人も、増えるのは一時的に過ぎず長期的には減り続けるとか、減るのは一時的に過ぎず長期的には増え続けるならば、その経済の実態は無限連鎖講(的)です。

それに対して、金流と益流は有るがどのプレイヤーの通貨の所有量も一定のまま変化しないならば、その経済の実態は(純)フロー経済です。
これを基準にして、通貨の所有量が変化する人が居ても、その(人数)×(変化量)が小さかったり、そういう人も、1日おきにとか1週間おきにとか1年おきに通貨の所有量が元に戻ったり、あるいは死ぬ直前の通貨の所有量の最終値が相続した通貨の量に等しいならば、その経済の実態はフロー(的)経済です。

正義の観点から言うと益流は保存流でなければならず、その為には経済の実態はフロー経済でなければいけません。
無限連鎖講では、通貨の所有量が増え続ける人が益の湧き出し口に、通貨の所有量が減り続ける人が益の吸い込み口に成り、益流は非保存流に成る。
従がって、経済の実態が無限連鎖講である事は正義に反する。

通貨の総量が正(プラス)ならば、経済の実態がフロー経済に成らない(成り難い)。
正定値通貨が不渡りに成るとは、そういう事である。

以上では各人の通貨の所有量の変化でフロー経済と無限連鎖講を定義したが、通貨の追加発行を繰り返して通貨の総量を変化させる場合には、そういう定義の仕方では駄目で、益流が保存流ならフロー経済、益流が非保存なら無限連鎖講と考えます。
通貨の追加発行を繰り返して通貨の総量を変化させる場合には、経済の実態は純フローには成らず、良くて無限連鎖講的、悪くすれば露骨な無限連鎖講に成ります。
その様子は
国家財政の分析@経済循環機関で通貨を追加発行する方式として説明されています。

経済の実態が無限連鎖講である場合の様子を以下に図示しました。
 
上端の人の通貨の所有量は減り続け、中流の人の通貨の所有量は減り続ける時間が長いが最初に増えた分だけは減らないのでトータルでは増えます、下端の人の通貨の所有量は増えるだけである。
つまり、通貨の総量が変化せず通貨の所有量がトータルで減るだけの人と増えるだけの人しか居ないので、無限連鎖講です。
下流が無限に存在するなら無限連鎖講も正義に反する点以外ではボロが出ません。
しかし、下流は有限なので、通貨が下端にまで行き渡ると無限連鎖講は停止してしまい、そこで通貨の不渡り問題が発生します。

無限連鎖講では、最後の平衡状態で手元に残ったおカネは
使えないおカネです。
なぜなら、全員が買おうとするばかりで売ろうとしないので、おカネは有るのに買えないからです。
使えないおカネをもらって売るのだから、正定値通貨で報酬を支払われた働きは全て
タダ働きです。
まさにおカネ詐欺!
下端の人以外は、もらったおカネで自分より下流の人から益を買う事が出来ますが、それは自分より下流の人にタダ働きさせるという事であり、この図式ならおカネを消去しても
透明貨幣の思考実験として成り立ちますよね。

我々の経済の実態が無限連鎖講であり不正である事を実感するには、自分の消費と生産の釣り合いを省みるのが有効です。
果たしてこの程度の生産でこれだけの生活が出来るものなのかと。
ホワイトカラーの生産性の低さが問題にされ始めたのは、人々がそれに気付き始めたという事でしょう。
我々は、おカネ詐欺の勢力から、生産量と消費量を金額でしか考えない様にしつこく習慣付けられている。
そういう目で見て、アレもそうだコレもそうだ、という発見をして下さい。
例えば、通貨の所有量が増える事は得なんだ、利益とは通貨の所有量がどれだけ増えたかだ、という常識がそうやって刷り込まれた思考習慣の例ですが、上掲の図では通貨の所有量が増えた分だけ損をしています。
経済の基礎は必ずおカネ語で語り、おカネの基礎付けの問題に目を向けさせない、そうする事によって、この様な真実に人々が気付くのを防いでいるわけです、おカネ詐欺犯は。
おカネ詐欺の勢力によるこういうしつこい刷り込みのせいで気付くのが難しいけれど、自分の生産量と消費量の釣り合いを金額に換算せず益量として評価すると、自分はものすごく悪い事をしているのではないかと、誰もが不安に成るはずだ。
私なんかは、日本人の平均的な生活レベルの消費量と釣り合う生産量は、ひょっとすると私の様な世界一の天才の業績でやっとぐらいではないか、とすら思うんですよ。
そして私は、生物個体としての先天的な資質が同じなのに、アメリカや日本に生まれた人は経済的に恵まれ、発展途上国に生まれた人は経済的に恵まれない事を、ハッキリ間違っていると考えています。
誰がどういう処遇を受けるべきかは、その人がどういう人かだけで個々別々に決まる事であって、国別に一括に決まるのではない、と私は何十年も前から一貫してものすごく強く思っています。
つまり、国際格差並みの格差が国内に存在する、同じ人はどの国に住もうが結果は同じに成る、のが正しいと私は思ってるわけです。
だから私は左翼です。
ただし、一般的な左翼の意見には右翼の意見よりも賛成できない物が多い。
一般的な左翼は平等を最高善の様に言いますが私の標語は、平等を見たら泥棒と思え、です。
2019年に萩生田文部科学相が、経済的理由で英語の民間試験を受験できない人は身の丈に合った進路選択をしろ、という意味の事を言って批判され、そのせいで辞任せざるを得なく成った。
私は日頃から、失言で辞任させるのはいけない事だ、と言い続けているが、この「身の丈」発言には私も目くじらを立てている。
それは、この「身の丈」発言はおカネ詐欺を推進する為の追加の吹っ掛けであり単なる「配慮に欠ける」ではない、と私は見抜いているからだ。
私にとっては「この期に及んで、よくもまあ抜け抜けと」であったわけだ。
その何年か前には、米国のハーバード大学のマイケル・サンデルという先生の講義がテレビで「白熱授業」というタイトルで放送されているのを見たが、この先生の論調が機会の平等を否定する方向を向いていた。
萩生田文部科学相の「身の丈」発言とマイケル・サンデル教授の白熱授業、一見無関係に見えるこれら2つの出来事はおカネ詐欺推進キャンペーンという同一の運動に属する、と私は考えている。
先天的資質の優劣で出世の程度が決まる事を不条理な差別であるかの様に描こうとした屁理屈映画も有りましたが、それもです。
私が結果を出し始めたので私の台頭を防ぐ為に抜け抜けと公是を反転しに掛かって来た、と考えられる。
通貨の所有量や相続した財産や親の七光は身の丈ではなく、身の丈と比較される物事です。
性質と能力が身の丈です。
能力の劣った人が大金を持っている事が身の丈に合っていないのである。
年月を空けてまた同じ間違った事を言う事を繰り返して、いつかはその間違った意見をまかり通す事が狙われているので用心が必要である。

生産性というものも普通は金額で見積もられるが、それでは、不当に低い値段が付けられた仕事の生産性は低い、という事に成ってしまう。
だから、生産性もまず益量で定義し、金額で見積もられた生産性がどこでどう間違うかを調べる必要が有る。
それから、外注を開始したばかりの頃は国内から買うよりも外注の方が安く買える、外国の人雇費は安いからだ、人雇費が安いのは物価が安いからだ、と説明されるが、これを怪しいと私は思っている。



00日@0000年00月@日記 日記記事タイトル


最終更新2021年05月29日