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敵の正体・本質を表す言葉として私は「反生物」という言葉が適当ではないかと考えている。
その意味では、既存の言葉・概念の中では、「死神」がこれに当たるのではないかと疑っています。
「病」という概念も、反生物に該当するだろう。
「故障フェチ」「間違いフェチ」という観点も有ろう。
コントでステージ上で人がずっこけるのを見て面白いと感じる心は、誰にでも有ります。
また、他人の不幸は密の味、という言葉もあります。
難しい事が途中で頓挫せず最後までつながって過去に見た事が無い新しい結果を初めて目撃するよりも、頓挫の方が面白いと感じる、それが敵なのではないか。
私は赤ちゃん時代に母から「人生においては必ず間違えろ」と言われたし、友人から「間違えなければ面白くないんだよ」「人間は間違えるから進歩するそうだよ」と言われたり、職場で同僚から「間違えないと何も言えないから不都合だ」と言われた。
敵が行なっている犯罪の本質は「飼い殺し」ではないか。
「妙な気を起こすんじゃねえぞ」「お前、まさか自分の先天的な資質を活かそうなんて考えてるんじゃないだろうなあ」というのが敵の言いたい事です。

共産主義は、本質・正体ではなく仮面だろう、というのが私の検討です。

敵は、ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽作品に背を向ける。
ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽作品は「生」を表現しているからではないか。

「生」と「正」は同じではないのか。
自然科学ではそれは違いますが、何かの意味でそうではないか。
正の反対は誤ですが、正義の反対は悪です。
生の反対は死で、反生物は死神かもしれない。
以上から、死神と悪魔は同じ概念なのではないか。

ヒトはみな生物である、という視点を殺してしまおうとする敵は、その手段として社会や心理という物を不当拡大する事に成る。
だから精神科医療を悪用するんですよ。
2024年末までに、主要な悪を指し示す言葉として「反社会的勢力」という言葉が用いられる様に成っている。
これでは、社会的なら善い、個人主義的なら悪い、という意味に成ってしまいませんか。
反社会的勢力は、裏社会と呼ばれる事もありますよね。
裏社会も社会だから善い、個人主義よりはマシだ、と言いたいのでしょうか。
「反社会的」を「悪」と同義で用いるとは、社会主義を押し付けたいのでしょうか。
極めて不可解です。
生物と社会・心理は対立する、という認識がそもそも間違ってるんだろうと私は思う。
生物と社会・心理は一致するだろう、という予想の下に新しい哲学を発達させれば、画期的なホントの事が分かり、それが敵のペテンを暴く役に立つだろう。

私がこれまでに見聞きした事の中から、当ページの問題に関係していると思われる事を以下に列挙します。
1932年に制作・公開された「フリークス」というアメリカ映画がイギリスで上映禁止されたのは、視聴していて気持ち悪いからなどと表向きは言われてますが、本当はそれが人間社会の本当の姿を描いていて、そこで風刺されている人々が、この映画を他の人に見られたくなかったからではないか。
つまり、チャップリンの「モダン・タイムス」と同じ趣向の映画なのではないか。
とすると、この「フリークス」という映画は、当ページで私が言いたい事と同じ事を表現しているだろう。
法規に敵性の間違いが含まれている場合、経済的な権利と社会的地位が厳格に尊重されれば、各個人の人生が自身の生物学的特長に全く相応しない、という形で、見るに耐えないグロテスクな世の中に成る、実際そう成ってますよね、という事を表現している映画なのではないか。
宇田雄一が赤ちゃん時代に謎の大人から「あまり高望みせず、せいぜい、人生はそんなに悪くはないもんだ程度に考えておく事だな」という意味の事を言われた。
また、その時期に宇田雄一は、謎の大人が生物という言葉を心理や社会という概念と対立させて用いるのを聞いた。
あなたはどちらを選ぶのかと、二者択一を迫られた。
心理や社会と反対の意味での生物の否定的なイメージとしては、野生動物の世界は弱肉強食だとか、カマキリのメスは受精直後にオスを殺すなどが、挙げられよう。
21日@2025年10月@日記
1977年にグリコ・アーモンド・チョコレートのテレビ・コマーシャルで使われていた松崎しげるの「愛のメモリー」に、「美しい人生よ」という歌詞が含まれていた。
グリコ森永事件は1984年と1985年だった。、
1978年1979年に放送された中村雅俊主演の「ゆうひが丘の総理大臣」というタイトルのテレビ・ドラマの第26話で下元勉さんが演じる鍋島喜一という人物が、「人生は(本来は)素晴らしいものなんだ」と繰り返し発言し、人間として駄目な人物として描かれていた。
「人生は(本来は)素晴らしいものなんだ」なんて主張する様なヤツは人間として駄目なヤツであり従って「人生は(本来は)素晴らしいものなんだ」という主張も間違っている、という敵のメッセージが、このテレビ・ドラマに仕込まれている、と私は判断した。
1980年06月に東宝系で公開された「復活の日」というタイトルのSF映画の中に「Life is beautiful.」という台詞が出て来た。
この映画にとって主題級の台詞ではないか。
市役所勤務の公務員だったかの特定の種類の人が「何も無くて良かった」という反応をする性質を持っているけれど、これはおかしいですよね、と学校の先生が言うのを少年時代に聞いた。
悪い事が起こらなかったという意味の「無事」の事を言ってるのではないだろう。
無事でよかった、という意見は全然おかしくないのだから。
良い事、素晴らしい事が何も無くて良かった、と発言する種類の人が居る様だ。
私は自分の目でそれを見た事は無いけれど、それが敵なのだろう。
2016年に私が心の調子が著しく悪くて苦しんでいた時に、ウダオサムが仏教の四苦八苦の教えを引用して人生は辛い事と悲しい事が基調である、と私に説いた。
2015年ぐらいだったか私は自宅敷地内屋外便所で「じーんせーい、らーくあーるーさー」と何度も歌った。
これはテレビ・ドラマ「水戸黄門」の主題歌中の「人生、楽ありゃ苦もあるさ」という歌詞を変更した替え歌です。
すると、ある日、ウダオサムの客の1人であるマツカワ・ミシンの社長だった人が来て、「おにいちゃん、人生は楽だけじゃなくて苦もあるんだよ」と私に言った。
私が歌うのが聞こえる位置には居なかった人だ。
31日@2023年12月@日記 ・・・ 2016年問題の資料。
2009年と2011年にテレビ放送された大沢たかお主演の「JIN-仁-」というドラマで使われていたBGMのチャーム・ポイントを、自宅母屋1階居間で視聴中にテレビの前でリアル・タイムで、同室していたウダオサムに教えたら直ぐ、ウダオサムはそれが分かった(作者の狙い通りの感情が生じた)らしく、分かってしまった事を不都合で恐ろしい事だと思いながららしく直ぐ退席して部屋から出た。
再放送を試聴している時だったかもしれない。
テレビ・ドラマ「水戸黄門」の冒頭で放送される主題歌の歌詞に、いつ頃からか「そんなに悪くはないもんだ」が含まれるようになった。
人生はそんなに悪くはないもんだ、という意味です。
ある時期まで、そんな風には言ってなかったと思う。
「泣くのが嫌なら、さあ歩け」が「そんなに悪くはないもんだ」に変わったのだろうか。





最終更新2025年11月26日