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2021年11月30日(火曜日)
自由と公平の両立(相対正義論の話)

普通は「自由と平等」という言葉が使われますが、「平等」という言葉は「結果の平等」という意味で使われる事も有るので、私は「自由と公平」と言いたいと思います。

結果の平等を必要だとするのは間違っている、という認識は「機会の平等」という言葉を生みましたが、果たしてこの言葉で全てが表現できているのか?
例えば、受験資格は与えるが採点基準が不平等に成っている場合、これは不公平でいけない事ですが、機会の平等には叶っているのではないでしょうか。
機会の平等という言葉を使う背景には、そういう屁理屈が通る余地を故意に残しておきたい、という悪意が有る事が疑われる。
機会の平等が話題に上った時には決まって、機会の平等もまだ達成されてないんですよ、という話に成るが、これも機会の平等では不十分だという論理から人々の目を反らす工作かもしれない。
機会の平等がどうしても達成できないからアファーマティヴアクションだ、という話を聞かされるんだけど、初心に帰って公平化の視点で見れば、それは逆進ではないかという事にも気付く。

そこで「機会の平等」という言葉も避けて「公平」という言葉を私は使いたいのですが、公平と平等を使い分ける様な論法は詭弁臭いと思われるかもしれないので、その点を説明しておく。
差別ではなく区別だ、という言い方も詭弁臭いですよね。
公平とは「扱いの平等」の事である。
例えば「法の下の平等」という言葉は公平概念を表していると思われる。
これは、各法律が「扱いの平等」という条件を満たしていると同時に、法律は全ての人に平等に適用されねばならない、という理念だと思います。
この事をキチンと書こうとした物が
数理法学へ向けて@持論@学問ですが、途中で挫折しました。
それは、「あなたが・・・ならば~」という規則が誰についても適用されるならば、誰についても同じ規則が適用されるから公平だ、と言えるのか、それとも「・・・ならば」という条件が有るから「・・・」な人と「・・・」でない人を差別しているのか、どちらか判定できないからです。
この深刻な原理的困難がある為に、公平性の条件にはまだ曖昧なところが有り、この曖昧さを無くす研究が今後必要です。

さて今日の本論ですが、私が主張したい自由と公平の両立は、以下の図でイメージできます。
 
AさんもBさんも自分の私権のどれをどれより大切にするか自由に決める事が出来る。
その結果、同じαでも、BさんがAさんのαを大切にするほどにはAさんはBさんのαを大切にしなくてよい。
この様な不平等が生じます。
しかし、BさんがAさんのδを大切にするのと同じだけAさんはBさんのηを大切にしなくてはいけない等、同じ順位の私権どうしは同等の尊重を受ける、という種類の平等が存在します。
また、Aさんの私権全体とBさんの私権全体は同等の尊重を受ける、という種類の平等も存在します。
これらの平等をもって、公平性の条件が満たされている、と考えます。