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2021年12月30日(木曜日)
派遣労働体験談の補足説明と背景2

今日は、大学卒業時の私の選択とその理由について書きます。
ここまでに、私の態度は正しいかったけれど、それでは周囲の人がかわいそうではないか、かわいそうだけど私のせいではない、なぜなら私には余裕(特に心理的な余裕)が無かったからだ、余裕が無かったので最低限の義務を果たすだけで精一杯だった、という話を書きました。
25日@2021年12月@日記の後半や27日@2021年12月@日記の序盤に、そういう事が書かれています。
しかし、もっと余裕を作り出す事も出来たのに「おりゃおりゃ」という風に周囲の人をかわいそうな目に遭わせる目的で私が故意に自分の余裕を無くしたなら、悪いのは私であり、余裕が無かったというのは言い訳でしかない。
私の相対正義論で判定すると、そう成る。
私に余裕が無かったのは本質的には、私の本業と職業が異なっていたからです。
そう成ったのは、私が大学卒業時にそう選択したからです。
大学卒業の少し前そう選択した時(1991年頃)に私は、これから
私が通った後には屍(しかばね)の山が出来るであろう、オレのせいじゃないもんね、と思った。
この一文(赤文字部分)こそが、派遣労働体験談の本質中の本質であると同時に、分水嶺の様な働きをする文です。
「屍の山が築かれる」だと私はずっと思っていたが、今国語辞典を引いてみて「屍の山が出来る」とすべきだと思う様に成った。
アファーマティヴ・アクションに賛成の人々は、この問題をどう考えるのでしょうか。
アファーマティヴ・アクションのせいで、働く意志も有るし働く能力で勝っている人をエリート業種からあぶれさせたら、外でその人が通った後には屍の山が出来ますよ。
そう成らない様にせよと、そういうあぶれた人に要求するのは、あまりにも酷なんです。
納得できない形であぶれさせられた上に、外でも何もするなとは、そんな無体な、という事です。
屍の山が出来るというのは、そう成った人々がたまりかねて罪を犯してしまったり、罪を犯すのは思い止まったが自信を無くしてしまったりする、という事です。
アファーマティヴ・アクションは、あぶれた人だけでなく、それらの人々にまで負担を掛けるわけです。
まあ私の場合は、アファーマティヴアクションの被害ではないので、話を元に戻します。
そんなわけで、学界の中に出来るだけ収まっていようと私は心掛けました。
しかし、以下の理由で、どうしてもそれが出来なく成ったのです。
私が、学界の外で学問をしようと決心したのは、学界というものを「こんな所では学問は出来ない」と思ったからです。
それが最大の理由ですが、他にも理由が有るので、それを以下に書きます。
職業学者に成るには大学院に行かなければいけないが、大学院に行こうと大学院入試を受けて不合格に成ったら、それを理由に学問以外の仕事を本業にしろと言われるのが嫌だった。
まあ、これは、不合格でもオレは学問を本業にするんだ、と言い張れば済む話なので、ギャグ程度の理由でしかない。
学部で既に2年留年しており、それだけ余計に学費を親に出させてしまっていたので、それに加えて大学院の学費まで親に出させるのは嫌だった。
それが嫌だった理由としては、普通の親孝行感情だけでなく、宇田イズム的な次の理由も有った。
親に学費を多く出してもらえば出してもらうほど、その後の業績で自分が1番に成った時に、どの範囲の人々の中で1番に成ったのか、その範囲が狭く成ってしまう。
経済的に恵まれた少数の人々の中で1番に成ったに過ぎない事に成ってしまう。
私は全員の中で1番に成りたいので、それは嫌だった。
言い換えると、これは、私は誰にでも与えられている道具と材料だけを使って作品コンテストで優勝したい、自分が優勝したのは自分だけが特別な道具や材料を与えられたからだというのでは嫌だ、自分が優勝したのは道具や材料の違いのせいではなく自分本体が他より優れていたからでないと嫌だ、という願望(好き嫌い)に例えられます。
この事は結果的に、人生の進み方についてより多くの人に(より普遍性の大きい)手本を示すのを目指すのと同じだ、という意味で私利と公益の一致をもたらします。
ここまでが宇田イズム的な理由です。
この他に、職業学者では研究テーマーが制限されるが、私は既に知られている研究テーマのどれよりも上だと評価される研究テーマを独自に見付け出して、その世界一の研究テーマを研究したかった。

じゃあ、そろそろ「こんな所では学問は出来ない」の話をしましょう。
真っ先に思い出すのは、大学で量子力学演習の時間に見た鈴木公という先生の態度だ。
私の発表の時に先生の言葉に私が何か言い返そうとするとそれを鈴木先生は言葉ではなく非言語発声で遮った。
先生から「そんな事をして何に成るんだ」みたいな事を言われて私が「理解が深まって良かった」と答えると、「あなたは良いかもしれないが他の学生はどう成るんだ」と言われた。
演習というのは、指名された人が与えられた問題を次回までに解いて解答を次回発表する、といった形式の会合です。
私は自分の発表に付加価値を付ける様に努めていたので、善意に解釈すれば、それでは他の生徒が書き写して模範解答だとするには向かない、という事だったかもしれない。
しかし、そうではなかったと考えるべき証拠も有る。
その件が有ったのを境に、他の学生も何か付加価値を付けた発表をする様に成った。
その発表内容から私は、陰でコソコソ鈴木先生が指南している様だ、と判断した。
鈴木先生は、私の発表を「積み上がってる感じ」「縦糸と横糸で織られている感じ」と言って褒めた事が有り、私の発表内容はその通りなのだが、そう褒められた発表と「他の学生はどう成るんだ」と責められた発表の違いはあまり無かった。
4年生次の卒業研究で輪読用に私が書いたノートは私と一緒に参加した学生からも先生(鈴木先生ではない)からも非常に好評だった。
卒業後何年も経ってから学会で発表していても同じ様な事が有る。
日本物理学会2019年秋季大会@学会発表@活動報告@学問
であれば「他の学生はどう成るんだ」という鈴木先生の言葉は、他の学生が敗北感を感じるからいけない、という意味だったと考えられる。
学問というのは、他の誰もと違って自分だけが卓越している事を示してナンボ、です。
その正反対を言われたんじゃあ、こりゃ駄目だ、という事に成るじゃないですか。

疲れたので、今日はここまでにします。