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2021年12月29日(水曜日)
派遣労働体験談の補足説明と背景1

なあ、もう丸山眞男を超えたかなあ。
うんうん、超えてる部分も有るけど超えてない部分も多い。
そりゃあ、私はもともとはこっちの専門じゃないからねえ。

まだこのページで話を終えるつもりは無いんだけど、そろそろ、派遣労働体験談というタイトルには収まり切らない内容も盛り込んで行きたいので、タイトルを変えました。

本当の心理学について。
少数者に精神病の難癖を付けるのがエセ心理学。
言葉で説明できない様な危険を感知する心の働きは間違う事も有る、という法則を捻じ曲げて、言葉で説明できない様な危険を感知する心の働きは病気である、とするのがエセ心理学だ。
別の機会には正常性バイアスというのも紹介しているくせに、被害妄想の話をする時には正常性バイアスの話はおくびにも出さない、これがエセ心理学だ。
これに対して、大抵の人が普通は持っており犯罪の動機に成る恥ずかしくて劣った心の性質を暴き出すのが本当の心理学だ。
多数者が少数者に対して行なう犯罪の動機を解明する、これが本当の心理学だ。
誰でも普通は他者を出来るだけ馬鹿にしようとしているものである。
その証拠としては例えば、サヌキの「オペレーターは労働力ではなくコストだ」という発言や、別の正社員の「自動車関連の製造ラインではもっと体力が必要だもんね」という意味の発言や、派遣会社所長山本の「雇用者より自分の方が偉いと私が思ってるなんて話に成らない」という発言が挙げられます。
山本の発言は、山本が馬鹿にしようとしていた証拠ではなく、派遣先の雇用者が私を馬鹿にしようとしていた証拠です。
この他にも有ります。
私が自著「古典物理学」を図書館に置いてくれないかと面識の有る数学の先生に出身高校の教員室で打診したら「私塾ふぜいが書いた本は信用できないので置けない」と言われた。
公務員が民間人からこの様な形で物品を仕入れるわけにはいかない、という理由ではありませんでした。
これは証拠として重要です。
なぜなら、言ったのが「下の下」とはちょっと違う人種の人だからです。
この先生は、私が高校生だった時には、私も含めて生徒たちから他の先生より威厳が有ると感じられ、数学が得意だった私もこの先生に褒められたいと勉強を頑張ったものです。
この先生を人格が平均より下だと言う事にはどうしても無理が有る様な人です。
つまり、この先生の発言は「上等な人は他者を馬鹿になんかしてませんよ」というウソに反論する為の証拠としてなかなか得られない貴重な発言なわけです。
失言でも何でもない、と私は思いますよ。
自分は他者よりはマシな人間だと出来るだけ思いたい、自分は国立高校の先生に成れたので私塾の先生よりはマシだと感じる事が出来る様に成った、そう考えるのは当たり前の事じゃないですか、誰でもそうです、それすらいけないと言われたのでは心のやりくりが出来ない。
しかし、それと同様に、他者を出来るだけ馬鹿に出来る様に進みその成果の分だけ馬鹿にする権利は私にも有るんですよ。
エリート校のであっても高校の先生なんかでは終わりたくないと私は高校生の頃には既に思う様に成っていました。
その数学の先生は授業で、私たちに必要条件と十分条件の覚え方を教える際に、矢印(→)の左に縦棒、右に斜め線の延長と点を補って+-※という風に(切れてなかったけど)板書し、AならばB(A⇒B)のAが十分条件、Bが必要条件だと教えました。
+が十、※が必って事です。
一方、私の覚え方は、Bを証明するためにはAを証明するだけで十分だ、人間である為には生物である事が必要だ、という風に「必要」とか「十分」という言葉の日常語の意味や用法に訴えて納得する方法です。
この納得の仕方を私は、その先生の授業を受けていた時に既に自分で編み出していました。
出来る生徒向きの説明としては、その先生のやり方ではマズイと思うんですよね。
自分が天才である事の確認を私は20才頃までには終えていた、と書きましたが、その確認ではその件もカウントされています。
他者を馬鹿にする発言というのは、口喧嘩の局面では、ほぼ例外なく誰でもするものです。
子供が「おまえのかーちゃんでーべーそー」に節を付けて歌うのを見れば分かる様に、思ってるよりも悪く言う事も有りますが、誰でも他者を出来るだけ馬鹿にしようと努めている証拠には成るでしょう。
私は常にその問題意識も持って物事を見ているので、やっぱりだと思った事が何回も有ります。
具体的にどんな発言が有ったか答えろと言われれば、その先生の発言ぐらいしか直ぐには答える事が出来ないけれど、だからその先生の発言が証拠として貴重なのだけど、誰でも心の中では出来るだけ他者を馬鹿にしている、という事なんです。
頭かくして尻かくさずな事に、例えば、テレビで中国人というものを馬鹿にする発言を聞く事がよく有ります。
日本人に比べて中国人は・・・という風にです。
これは、視聴者のひとりひとりが自分は他者よりマシだと言われるのを好きだと感じて受け入れる性質を持っている証拠です。
日本人の中のどういう人がどういう人より駄目だと言うと当たり障りが有るので言えないけど視聴者の集合の外に居る中国人なら言ってもしっぺ返しの心配が無い、だから中国人をけなせばけなした分だけ謙遜語の原理で点数が稼げるわけです。
私は、その発言が不当だ、とは言っていませんよ。
その発言の内容が正しくても間違っていても、そういう事に成るじゃないですか。
そもそも謙遜語というものが存立している事自体が、誰でも自分は他者よりマシな人間だと思いたい証拠です。
馬鹿にしてはいけない、馬鹿にしてない、と幾ら言っても、こういう所に証拠がちゃんと出ているわけです。
少し前に、ラップ対談の形式で相手を「ディスる」という行為が流行っていた時期が有ります。
「お前はオレよりくだらない人間なんだ」と言ってののしり合うわけです。
あなたも覚えてるでしょう。
それをみんなで盛り上げようとしておきながら、今度は一転して「誹謗中傷はいけません」「侮辱罪の罰を重くします」と言い始めた、おかしいと思いませんか。
おかしいんですよ、一体誰が操ってるんだ。
何らかの巨大なエコヒイキを通用させ続けようとしているからそう成るのだろう、と思いますよね。
これが、一瞬だけ垣間見える本当の巨悪の姿なんです。
巨悪と言うと贈収賄なんかばかりが取り上げられますが贈収賄も、このエコヒイキと関係が無ければ2級の巨悪に過ぎず、このエコヒイキと敵対していたならむしろ巨善ですらある、と私は思うんだよね。
他者を出来るだけ馬鹿にしようとしている点では誰でも同じなのだから、馬鹿に出来る様に成った人と、馬鹿に出来ないで居る人の2種類しか世の中には居ない。
これが馬鹿にする人と馬鹿にされる人の正体です。
私の相対正義論では、罪の有無や重さは何をどの程度熱心に狙ったかで決まるので、馬鹿にする人と馬鹿にされる人の間には、馬鹿にするされるの点では罪の有無や重さに差は無い、という事に成ります。
馬鹿に出来る様に成ったというのは、他者を自分より劣っていると感じる事が出来る様に成った、他者より自分の方が社会の役に立ったと感じる事が出来る様に成った、という事です。
あるいは、自分の消費内容の方が豊かだと感じる事も他者を馬鹿にする事だ、と言う人も居るかもしれない。
他者を馬鹿にするというのはあくまで主観だから、どういう条件が成り当てば馬鹿にするのかは、人によって違う、同じ人でも時期によって違う。
その条件を突き止めるのだって本当の心理学の役目じゃないのか。
同じ「馬鹿にする」でも、他者の権利を侵害する形で馬鹿にするのは許されないけれど、他者を馬鹿にする思想を持つ事や、選択の自由に属する選択で何を選択するかをその思想で決める事は、憲法で保障されている思想・信条の自由や各種選択の自由によって、自由に行なってよいとされている事である。
幸福追求の権利もかなあ。
それを、(選択しなかった事を)馬鹿にしているからいけない、と言うのは、当該選択の自由の直接的な否定に等しいのである。
大雑把に言うと、私が主種目として理論物理学を選択したのは、理論物理学が最も貴いと思ったからであり、理論物理学が最も貴いと思ったという事は、それ以外の種目をもっと下だと思った、という事です。
「おじさん、それ、もしかして仕事」という風に。
それを馬鹿にしているからいけないとする事は、選択の自由の否定なのです。
誰でも、自由に何かを選ぶ時には、自分が一番素晴らしいと思っている物事を選ぶでしょう。
それには必然的に、選ばなかった物事を馬鹿にするという側面が付随するのである。
犯人はここに目を付けたのです。
選択の自由に正面から異を唱える事なしに選択の自由を否定するにはどうすれば良いか。
そうだ「馬鹿にするな」で押せばいいんだ。
「馬鹿にするな」だったら間違った事は言ってない。
こう犯人は考えたのである。
「なめたらあかん」「なめるなよ」の類は全部この流れから出て来ている。
したがって、この手の「馬鹿にするな」という要求は内面の自由や選択の自由への侵犯であり違法だと見なされなければ本当はいけないのである。
間違った事を言うのにどう言い方を変えても間違っているのである。
学者を目指すという私の選択についてだったと思う、他の仕事を馬鹿にしてるのかと恫喝された事が有る。
まあ馬鹿にしてるのだが私はそう言わず、他の仕事の人も自分の仕事を学問に比べて馬鹿にしている、だから私が学者に成るのを許せないのだ、と私は言い返した。
「お前こわくないんか」とすごまれたのは、その時の事です。
学生時代晩期の事だった。
いま日大の御家騒動が耳目を集めているが、そこで明るみに出た様な関西の強引なインチキの連中が、その頃には私の周りをうろつく様に成っていたのかもしれない。
選択の自由という人権の次ぐらいに大切な権利を潰す為に「馬鹿にするな」などという得体の知れない要求をする、これも、
25日2021年12月@日記の序盤に私が書いた事の続きです。
自分が勝ってしまったりまだ勝っている間は相手を馬鹿にして「馬鹿にされたくなかったら馬鹿にされない人間に成れ」と言い、相手の方が勝ち始めると今度は「馬鹿にしてはいけない」と言い始める。
「馬鹿にしてはいけない」と言われるともっともらしく聞こえるが、こいつら昔は「馬鹿にされたくなかったら馬鹿にされない人間に成れ」と言ってたんだよ。
まだ勝てない状態から勝てる様に成るまでには長い年月がかかるので、こっちがそれを忘れる。
それを計算に入れて最初から最後までずっと自分達が上から押さえつけて居られるように立ち回っているわけだ。
長い年月に渡る努力を何だと思ってるんだ、という事も有る。
ここまでに見て来た様に、基本的に「法の下の平等」が利いているので、劣った人は幾ら○×長に成っても、○×長の上の□△長に成っても、どんなにカネモチに成っても、馬鹿にされる。
(自分の実力で成ってれば違うけど、自分の実力では成れないというのが劣った人の定義である。自分の実力で成れたなら本当は優れていたという事です。劣った人が成ったというのは買い与えられたのに相当する)
このエッセンスを私は次の体験で会得した。
私が小学生だった頃の事だった、と思う。
何だったかは思い出せないが、何かとても意気消沈する様な事が有った。
それを見た私の父か母の計らいでだったのだろう、私は多分スティックの付いたキャンディーを与えられ自動車に乗せてもらってドライブに連れて行ってもらった。
それで私は現金にもたちまち上機嫌に成った。
その少し後の事だった。
隣の自動車の窓か不動産の窓に映っている自分の姿、自動車に乗せてもらってキャンディーをしゃぶっている上機嫌な自分の姿が、私に見えた。
ものすごくカッコ悪いと思った。
ははあ、みんな、こんな風にして私を馬鹿にしていたのか、と思った。
そして、永久にもうその手は食わん人に成ったのである。
一瞬の出来事だった。
自分が着ている服や乗っている車や住んでいる家や社会的地位や資産総額は、馬鹿にされるされないとは別なのである。
気を付けないと、みんな心の中ではあなたの事を馬鹿にする様に成るよ。
オレは内容で勝負してるんだよ。
法の下の平等は、たとえそれが法規で保障されていなかったとしてもそれ自体として正しいので、法の下の平等が成り立っていない社会でも、不平等な扱いの結果である様な地位の高低や貧富は、やはり馬鹿にされるされないとは別です。
法の下の平等という言い方をすると、私は反対だという意見も可能に見えるかもしれないが、要はエコヒイキの禁止です。
エコヒイキの禁止なら誰も反対できないでしょう。
エコヒイキが許可されている社会でもエコヒイキが恥である事には変わりは無い。
そして、エコヒイキが禁止された社会、社会的地位に伴う人物のグレード感が消失した社会に、その代わりに有るのは何か?
それは、生物個体としての優劣や、仕事の出来・不出来だけです。
この様に、社会から不公正を全て取り除くと、社会以前の生物としての人間が再び姿を現す事に成るのです。
公正な社会であっても社会は人間の生物としての側面を覆い隠す、というのはウソである。