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日本物理学会2010年春季大会での私の発表は、文法物理学についての20pBJ-1「作用汎関数は新文法版量子論の何なのか」および物理教育についての23pRC-10「大学の定義」の2つだった。 会場の岡山大学津島キャンパスは自宅から普通列車で日帰り出来る距離の所にあるので、事前に購入しておいた青春18切符を駆使して、会場まで往復した。 2010年03月20日は、弁当を購入したり食べたりで、自分の発表の前に他人の発表を見学する時間をあまり取れなかった。 それでも、休憩時間だと思ってBJ会場(17番教室)内の席に座っていたら、中小規模研究室懇談会というものが始まったので、それに参加した。 この懇談会は、研究費が足りないので政府に要望書を提出しよう、と考える人々の集まりだった。 私の発表20pBJ-1「作用汎関数は新文法版量子論の何なのか」については、真面目な質問もして頂けたし、最後に拍手までしてもらえた事には少し驚いた。 発表としては、講演概要の文章をOHPで提示して、それを読み上げながら適宜補足説明した。 OHPの内容と講演概要のコピーが、このページの下方に掲示されている。 補足説明の内容は具体的には次の様であった。 ohp10sp-sr-2の2行目の式でhに横棒を重ねた記号を、誤って横棒を忘れて、hと書いている事を指摘し謝罪した。 ohp10sp-sr-2の2行目の式の説明として「これは経路積分の被積分部分です」と述べた。 ohp10sp-sr-2の「今回の発表は、この問題の提起です」まで読んだところで、今回の発表内容は実質上はここまでであり、ここから後は書く事が無かったので講演概要を埋めるために書いたようなものだ、という意味の事を述べた。 ohp10sp-sr-2の「新文法版シュレディンガー方程式の代わりにΦを解に持つ方程式を作れば、私が今までに発表して来た新文法とは全く別の新文法に導かれはしないだろうか?」まで読んだところで、「発想としては今までは量子歴史というものを考えて、それを解に持つような方程式というのを考えたんですが、で新文法版シュレディンガー方程式とかいうのを作ってみました。で量子歴史を解に持つ方程式を作って行くという発想の範囲内で考えても私が既に発表しました新文法版シュレディンガー方程式が正しいかどうか、それはちょっと良く分かりません。しかしここでもっと発想を変えて、量子歴史を解に持つ方程式というのではなくて、全く別の視点で、作用汎関数を解に持つ方程式を考えてみてはどうかという、そういう問題意識がここに書いてあるわけです」と述べた。 ohp10sp-sr-2の最後まで読んだ所で、見付けたので良い物が見付かった、とまでは思っていない、まあ例えばこれなんかそうですよ、といった程度の事で、もっと極端な話を言うと、作用汎関数は時間方向にズラしても不変なわけだから、時間方向にズラしても不変です、という方程式を作れば、作用汎関数はそれの解に成っているわけで、そんな方程式だってあるわけだから、作用汎関数を解に持つ方程式は幾つも考えられ、どの方程式が物理的に意味があるのか、新しい事を発見して行くために効いて来るのか良く分からない、という意味の事を述べた。 ohp10sp-sr-3の「変分がゼロに成る事が運動方程式と等価でありさえすれば良いだけなら、作用汎関数以外にもそういう汎関数は無数にある」という部分を読んだ所で、「証明したわけじゃないんですけど、感覚としたら、こういう事なんですよ」と言って、ohp10sp-sr-6の上段の図を提示し、与えられた点で最小値を取る関数は幾らでもあり、これとの類推で、変分原理で運動方程式が出て来るような汎関数は幾らでもあるはずだ、という意味の事を述べた。 ohp10sp-sr-3の「量子論的には作用汎関数はその全体が物理的意味を持つ事が、経路積分法から分かる」という部分を読んだ所で、経路積分の作用汎関数の所に別の汎関数を入れたら全然違った結果が出て来て、極論を言うと、それは実験結果に合わない、という意味の事を述べた。 ohp10sp-sr-3の最後「だから、方程式→(汎)関数→方程式という階梯の、文法的に一段階上の理論に進む方法としての、有効性を検討すべきだ」という部分を読み終わったところで、「これが量子歴史を解に持つ方程式を作って・・・というのとは別の方向性としての文法主義的なもう一つのシナリオなんですけれど、シナリオと言っても、これをやれば確実に成功ですよ、というシナリオではなくて、成功の可能性のあるシナリオとしての提案なんですが」と言ってohp10sp-sr-6の後半を提示した。 ohp10sp-sr-6の後半を提示しながら、「要するに、古典力学でまず運動方程式が微分方程式で出て来て、それを作用汎関数の変分イクオールゼロと捉え直す。その作用汎関数というのは経路積分すれば量子力学が出て来るわけだから、作用汎関数はイクオール量子力学である。次に作用汎関数を解に持つ方程式を作る。作用汎関数を解に持つ様な方程式が変分イクオールゼロで出て来る様な汎関数を見付けて。そうするとその汎関数全体が文法的に量子論より1個上に当たった理論を表しているんじゃないかという、そういう考え方なんです」と述べた。 ohp10sp-sr-4とohp10sp-sr-5については、会場ではチラッとだけ提示したが十分に解説する時間が無かったので、ここから少し説明を書く。 これらは、ohp10sp-sr-2の下端付近に表示されている式の証明です。 ohp10sp-sr-5の第1式は作用汎関数の変分がゼロであるという条件から運動方程式が出て来る事を、汎関数微分の言葉で書き直したものです。 ohp10sp-sr-5の第2式は、ohp10sp-sr-4の結果にohp10sp-sr-5の第1式を代入した後で両辺にi ohp10sp-sr-5の第3式の成立は、ohp10sp-sr-5の第2式を使うと分かります。 ただし、ohp10sp-sr-5の第3式の第2行目と第3行目では、因子exp{(i/ すみません。 ohp10sp-sr-4とohp10sp-sr-5についての説明は以上です。 ohp10sp-sr-4とohp10sp-sr-5をチラッと提示した後で、ohp10sp-sr-6の後半を提示しながら、この文法主義的アップグレード方法論は興味深い考え方だが、興味深い事実に基づいた話ではなく、だったら面白いだろうなあ、みたいな話だ、という意味の事を述べた。
質問の内容は、今回の私の発表の後半の部分で紹介された関数→方程式→関数→方程式→・・・という路線と、前回まで私が発表して来た新文法版シュレディンガー方程式との関係についてだった。 それに対して私は、一方が当たりならば他方は外れ、という関係だ、という意味の事を答えた。 具体的には次の様な内容だった。 質問者:新しく汎関数を解に持つ方程式がありそうだ、という事だったんですけど、 宇田:有りそうだ、とは言ってないですよ。あったら面白いなあ、という事ですね。 質問者:その方程式で記述される物理というのは、今までに見付けられた新文法での量子歴史によって記述された物理と、ある極限でコンシステントに成ってるんですか? 宇田:どちらかと言うと、片方が当たっていれば、もう片方は外れてるだろう、みたいな話で、 質問者:なるほど、アップグレードというよりは、2つヴァージョンがあって、どっちか行けてるかもしれない、という感じなんですか? 宇田:アップグレードでどちらかのヴァージョンが、という事に成ると、上のヴァージョンが正しければ下のヴァージョンが違う、下のヴァージョンが正しければ上のヴァージョンが違う、みたいな見方に成りそうですけど、そういう事を言ってるんじゃなくて、アップグレード方法論の方が正しければ、今まで発表してた量子歴史を解に持つ新文法版シュレディンガー方程式の方はたぶん外れで、量子歴史を解に持つ新文法版シュレディンガー方程式の方の路線が当たっていればアップグレード方法論の方はたぶん違うんじゃあないか、という、そういう感じですね。 質問者:じゃあ、そのアップグレード方法論が正しければ、新しく出来た方程式から新たにある極限として新文法版の量子力学をもう一回見直さなければいけないのですか?下にある構造を。 宇田:新文法版シュレディンガー方程式が依然としてそのぐらいには当たっている可能性もあると思いますけど、全く違ってて、その程度のつながりすら無いぐらい違ってる可能性だってあると思いますねえ。 この質疑応答の後に、発表中に読み上げた講演概要の「Φは新文法版シュレディンガー方程式の解ではない事が分かる。だから、Φはいずれかの量子歴史を表しているはずだけれど、それがどの様な量子歴史なのかを詮索する事はあまり重要ではないかもしれない」という部分について、新文法版シュレディンガー方程式に非常に信頼を置く言い方をしてしまったが、可能性としては、逆の可能性、つまり、Φは新文法版シュレディンガー方程式の解ではないから新文法版シュレディンガー方程式は的外れな方程式なのではないか、という見方が出来る可能性だってあると思う、という意味の事を言った。 もちろん両方とも外れである可能性もある。 現時点ではまだ文法物理学は、競馬に喩えると万馬券狙い専門の馬券購入活動のごときものなので、やる事なす事すべて外れ、という可能性も十分にある。 3年ぐらい前までは、私の発表は、おおよそ嘲笑の雰囲気に包まれていたが、最近それが少しずつ変わって来た様に感じる。 私は性格的に、敵意を露にする相手に対しては心の中で「へっへっへ」と笑うみたいな堂々として落ち着いた態度を取れるのだが、相手の態度が好意的だとビクビクおどおどした感じが出てしまい、その点をどう直せば良いのか思いあぐねている。 何故そう成るのか理由も分かっているつもりだが、分かっていても、ついついそう成ってしまう。 2006年秋ハワイの発表では拍手が有ったが、それを私は日本とアメリカの慣習の違いだ、という風に理解している。 国内にも慣習の違いが存在するのだろうか? 聞く人の心が徐々に好意的に成って来ているとしたら、私の心はまだ十分それに順応していない気がする。 私の次は鈴木貞吉さんの発表で、このセッションは、私の発表と鈴木さんの発表の2つだけだった。 鈴木さんの発表は、内容的には前回までと同様に意味不明だったが、少しずつ体裁が整って来ている様に感じる。 発表が終わった後で、鈴木さんから「気が合いますねえ」と声を掛けられて、気が合う事もあるけれど、鈴木さんのこの発表について気が合う、という風に会場の皆さんに誤解されてはいけないので、私は「どこが?」という突き放した返事をした。 2010年03月23日は雨だった。 2010年03月20日にした様に朝食の補足用の弁当と昼食用の弁当計2個を購入しようと、10時前ぐらいだったか大会本部前に行ったが、2010年03月20日と違って弁当はまだ出ていなかった。 大会本部の人に聞くと、11時からでないと弁当の販売は行なわれない、との事だった。 そこで、岡山駅まで戻って駅で朝食の不足を補う事にした。 雨だったので、法界院駅まで歩くのは止めて臨時バスを使った。 すると往きは良かったが返りのバスの待ち時間が非常に長かったので、大学構内に留まって空腹を我慢した方が良かったな、と後悔した。 大学に戻った後、自分の発表の前に他人の発表を見学した。 23pRC-2の質疑応答時間に、少しコメントし、お返事を頂いた。 その内容は以下のごとくであった。 私「物理Iを履修してない生徒が自分ところの大学に入って来るんだ、という事を前提にして、と言うか、その枠内での話としては、非常にしっかりしてるなあ、という風な印象を受けたんですが、しかし、その前提自体をちょっと考えて見直すという方が、本来は正しいのではないか、という疑問を持ちまして、要するに入学試験ないしはそれに類する様な入学要件の所に、物理Iは履修しておいてください、と書いておくだけで、もう・・・」 発表者「おっしゃる通りなんですけども、私立の大学としては昨今なかなか厳しい問題が色々ありましてですね、入試制度という事自体について私どもはなかなかこう口を出す事は厳しい部分もある、というので、ちょっとそこは御理解いただきたいと思います」 私「色々価格破壊だとか何とか破壊だとかいう言葉がありますが、分業破壊というものもねえ、最近の社会は私は問題があると思うんですよ。高校の先生がやるべき事をなぜ大学の先生がやる?とか、ごっちゃに成ってねえ、どの人も全部やってください、みたいに成ってしまってねえ、効率が下がってるんじゃないかと思いますねえ」 発表者「痛し痒しの所があります」 23pRC-5の質疑応答時間に、次の様に感想をコメントした。 「写真の中に三角比がある、であるとか、そういうタクティクス・レベルと言うか、そういうのに留まらず、不思議さとかロマンチックだとか、そういうもっと本質的な所を突いておられる、というのは非常に素晴らしい所だと思います。で、これ、大変な作業だとおっしゃってましたが、ホントに大変過ぎると思いますねえ。これ以上には出来ないだろう、という感じが。で、抽象的な言い方をしますと、自然ではなくて、まあ自然も良いんですが、自然科学を芸術家の目で鑑賞する事によって自分の芸術のレベルが上がるんだ、というメッセージを送って、それに学生が心から納得する事が出来れば、自然科学に本気で取り組んでくれる、という事ですねえ、きっとねえ」 このコメントの「抽象的な言い方をしますと」以降の部分は、その点をもっと考慮すべきだ、という意味ではなく、この発表の内容がその事を裏付けていますね、という意味です。 23pRC-6の質疑応答時間に、「ちょっとした質問なんですが、これは、物理チャレンジとか物理オリンピックのコンテストの準備とは違うんですね?いわゆる特訓とか何とかかんとか」という風に質問して「それとは全く関係ありません」という返答を得た。 コンテストの準備で合宿というのは一夜漬けって事だから、それは学問には馴染まない、と思うが、そうではないと聞いて、それなら大いに結構、と思った。 ただし、コンテストの準備で合宿、というのでも、予行演習、旅先での受験という状況に慣れるため、という事なら、良い事だと思う。 私の発表23pRC-10「大学の定義」については、まず最初に、タイトルをなぜ学校の定義ではなく大学の定義としたのか、小中高校は含まないのか、について、高校までは勉強だけの所ではないが大学以降は勉強だけの所に成り、勉強だけならばこうしてはどうかという提案を発表するからです、という意味の事を述べた。 その後で、講演概要の文章をOHPで表示して、それをそのまま読み上げた。 その読み上げの後で、色々なアドレスに散らばっている教材のどれとどれをどの順序で学習すれば良いか学部学科毎にコーディネートするウェブディレクトリの様なサービスが自然に出て来て、さらにそれら各々のコーディネートに対する評判が形成され、全体として徐々に整然として行くだろう、という意味の予想を述べた。 私は携帯電話にニュース情報をメールで届けてくれるサービスを購読していて、それで、中国が日本の大学との単位互換を提案している、というニュースを見た様に記憶していたので、その事に一言触れた。参考記事 その後、如何にして替え玉を防ぐかが技術的な問題として残る、という意味の事を次の様に言って、これについて意見を求めた。 「これもちょっとニュースでチラッと見たんですが、オンラインで試験というのは、企業かなんかの入社試験かなんかで問題になってたらしいんですけれど、替え玉がどうも問題ならしいんですよね。で先ほどあの、何だったかなあ・・・レスポンス・・・レスポンスなんとか(ここで座長が「レスポンスアナライザー」だと教えてくれた)、ああ、あの時も本人確認の部分をちょっと興味を持って聞いてたんですが、例えばどういう風な事かと言うと、昔は代理で返事をする代返というのが行われておりました。友達に“授業に出たら僕の分も返事しといてくれない”という風なやつですねえ。それからレスポンスアナライザーで友達に自分の学生証を持たせて、友達が二つ分ポンとこうやって置いて、ふふふ、という事は無いんだろうか、やはり学生証は貴重品だから友達も信用できないから預ける事は絶対しない、だろうかとか、その辺りの事が替え玉対策としては肝心な事で、私も答えは分かっていないんです。だから、ここで是非良いアイデアがあれば教えて頂きたいなあと思うところなんですが、金融機関なんかの場合は、本人確認が失敗しない方が良いわけですね、本人にとっては。金融機関なんかを利用するときには本人確認が失敗しない方が良いわけだから、他の人を連れて来て自分の代わりに、という事はしないわけなんですが、オンラインで例えば単位取得なんて事に成ると、本人確認が失敗した方が良いんですよね、本人にとってみれば。だから、自分の部屋にデキスギ君を連れて来て、で僕の代わりに受験してくんない、とやられたらどうなるのかと言うことでね。その時に、だから何か良い方法は無いかなあという、そんなとこなんですが、質疑応答に入りたいと思います。」
質疑応答時間には、座長さんが促してしばらく待っても質問が出なかったので、座長さんがレスポンスアナライザーについて一言補足なさり、それを受けて私も少しコメントした。 座長:ちなみに先ほどのレスポンスアナライザーは、学生が2枚友達のを、という事も有り得ますので、人が居ない所にカードが乗っかってたらそれはおかしいと、チェックする必要があるわけです。 宇田:ああ、なるほど。みんなが学校とか通わずに自分の部屋の中で学校に行くのと同等の事をしてしまうという様な事に成ると、そのチェックの方法はちょっと応用できないですねえ。 座長:ああ、そうですねえ。こないだ就職試験でウェブテストを替え玉が受験しているというのが新聞に載っておりましたけれど。 宇田:そうですか、はあ。私が見たのもそれだったかもしれないですねえ、ひょっとすると。ウェブカメラかなんかで、リアルタイムでパソコンの前に座っているというのを写すとかいうのも考えたんですが、それで完全に防げるかと言うと、・・・あの、本人確認が失敗しない方が良い様な認証システムというのはものすごく高度なものがありますけど、指紋でやるとか角膜でやるとかありますが、本人にとって本人確認が失敗した方が良いという事に成ると、ちょっと厄介な事に成りますねえ。それから、まあこんなのも単なる思い付きなんですが、本人確認が失敗した方が良い、例えばオンラインで受験するサイトにログインした時には、同時に本人確認が失敗しない方が良いサイトにも同時にログインしてしまう様に作ってしまうとかね、例えば、自分の銀行口座にも同時にログインしてしまっているような状態にしてしまうとかね、そうすると他の人をそこに座らせるのはかなり気持ちが悪いだろうとか、まあ思い付きだからもっと良いのがあるんじゃないかと思いますが。 その後で、小中高校は勉強だけの所ではないが大学は勉強だけの所だ、という私の意見に対して、それはちょっと違う、というコメントを座長さん以外の人から頂いた。 その際の問答を以下に書き起こす。 相手:「ちょっと聞き逃したかもしれないんですが、大学までと大学とは教育の機能が違う様な事を冒頭におっしゃってた気がしますが、大学は従来の小学校中学校もっと生まれた時からかもしれないんですが、もっと遡れば親御さんの何らか背景を受けて子供たちは影響を受けますので、ですからそうした時にその延長線上に大学があって、大学の機能としてですね、勉強だけというのはちょっと違って、僕は受け止めたんですね。社会人に成って行くための準備期間という見方も当然あるわけでして、先ほど高専の先生方ね為さっている事柄は、社会人に成って行くために必要である、という事で色んな事を為さっている。で社会人に成って行く、あるいは社会人でなくても家庭人に成って行く上で、家庭に入った時に子供たちを育てて行くための準備期間としての大学の位置付けというのもこれからたぶん注目されるんだと思いますね。ですから勉強だけやるのが大学だというのはちょっと違う。人間形成の場面であるし、なんと言うかなあ、・・・だと僕は思いますので、そこは認識が違うかもしれませんが、ちょっと違和感を持って感じました。」 私:「僕も100%とは思いませんが、そうすると、たとえば大学に通う自宅生と下宿生では大分違うわけですよねえ、勉強以外の部分については。その部分が、それじゃあ自宅生は大学生として生活している間に下宿生ほどには成長しない部分は問題に成るのか、とかいう事に成って来ると。」 相手:「ユニバーサル化してますので、本当勉強だけして勉強しかしなくて良いという人が居ても良いんですよ。それを否定しているわけではないんですね。それがパーセンテージどれだけ以上あると支障があるかはちょっと分からないんですが、そういう人達が居て構わない。だから大学なんですよね。だから、それを全てだと言ってはいけない、という言い方です。」 私:「はあはあ、分かりました。それじゃあ、パーセンテージとしては小中高に比べると大学の方が、勉強だけと言うといけないかもしれんけど、勉強ばっかしな感じはあるから」 相手:「まあ、そもそも大学に入るという事で、一つ選択されてるわけですね。選択して大学に行こうと思って行ってる。だけども、さっきのユニバーサル化の中で、とりあえず行こう、みたいな、行ってから何か考えよう、みたいな人が増えてるので、昔というか、いつを昔と言って良いか分かんないけども、随分と変わって来ているし、そういう人が増える事によって勉強だけの人は結構パーセンテージとしては少なく成ってる、という事が一般的ではないかな、という風に思ってますが。」 私:「じゃあ、単位取得は勉強だけでも出来るけれど、ちゃんと建物に来ても出来るし、あの、建物に来なくちゃいけない言う風にするのはどうなんですか?」 相手:「やっぱり、共同学習とかですね、グループワークとか、友達と、力を合わせると言うのが良い意味でも悪い意味でもあるんだけども、学び合うという事は結構注目されて来てますし、頑張ってる誰かを見て俺も頑張ろうと言って頑張る人達も居るわけですから、単に勉強を誰かがどっかで単独でやるという事ではなくて、社会人に成って行く準備というのは社会性を身に着けるという事が、たぶん小学校ぐらいから、もっと幼稚園保育園から始まってるわけですから、その社会人に成って行く前段としての大学というものは、社会性という観点は必要だと僕は思ってます。」 私:「という事は、自宅から一歩も出ずに単位が取得できるのは反対、という事なんですか?」 相手:「いや、反対ではないんですが、勉強だけ出来て勉強だけ出来て行く人が居るので、もちろんそれはそれで頑張って欲しいし、ノーベル賞取ったりとかユニークな何かを研究開発して欲しいんですよ。で、そういう人達は居て構わないし居て欲しいんです。で、そうでない人達もたくさん居るという事を知っておいて欲しい。」 私:「分かりました。貴重な意見を有難うございました。」 自分の発表が終わった後も、他者の発表を見学した。 特に、最後の23pRC-11の質疑応答時間での私と金澤喜平さんとの対話が印象に残っているので、それを以下に書き起こす。 宇田:金澤さんは、電子だとか電荷だとか磁界だとか電解だとかには非常に強い不信感を持っておられますが、その一方では何故エネルギーという概念はものすごく強い信頼を置くんですか、そのエネルギーという概念に。そこの所が無根拠なんじゃあないですか?エネルギーはもうとにかく良いヤツなんだ、そこの部分は全然疑わない。 金澤:世の中の、全てエネルギーがありますよね。 宇田:それはねえ、金澤さんねえ、そういう風に刷り込まれてるんですよ。 金澤:そう、ずいぶん。 宇田:一番大きいのは、アインシュタインがE=mc^2で偉い人に成った。もう、そこら辺から、エネルギー、エネルギー、もう、とにかく何でもかんでもエネルギー言えば俺も偉い人に成れるんだ。 金澤:電流というのが電線の中を流れている、というのは、そうじゃない、という 宇田:何故そう言えるかと言うと、それではエネルギーが供給できないからだ、と言うんでしょう?金澤さんの理屈は。 金澤:電線の中は流れてない。エネルギーそのものが流れてる。エネルギーが流れてる。要するにエネルギーが流れてる。ここから、エネルギーがここへ、流れるとすればですねえ、右手じゃなくて左手の向きへ、負の方からプラスの方に、エネルギーが電線の周りを、空間を流れてる。電線の中は流れてない。 宇田:その流れているエネルギーを電子では供給できない、という理屈だったんじゃあないんですか、金澤さんのは。 金澤:電子じゃない。もちろんここが、電子じゃなくてエネルギーだと。マイナスの電荷を持った電子じゃないと。 宇田:電子じゃなくてエネルギーが何なんですか?流れている? 金澤:そう。 宇田:うん、じゃあねえ、エネルギーというのは、普通ねえ、あの、 金澤:光のエネルギー。 宇田:まあ、そう・・・そうだなあ、金澤さんのねえ、それもちょっとねえ、引っ掛かる所あるんですよ。普通はね、エネルギーというのは基本的に丁寧に言うと、何々のエネルギー、なんです。例えばね、質点の持っている運動エネルギーだとか位置エネルギーだとか、それから、磁界のエネルギーであるとか、光なんかにしても、まあ、極論すると電磁場ですが、電磁場の持っているエネルギー。何々のエネルギー、なんですよ。だから、何々の、の部分は省略されている場合はあるかもしれないけれど、丁寧に言ったときに、何々の、が付かないエネルギーというのは、今のところ物理学では出て来てないはずなんですがね。その部分がね、ちょっと金澤さんのは引っ掛かるなあ、と思って。 以下の補足説明は、会場での私の発言ではありません。 金澤さんが「光の」と言ってるのに、私が「何々の、が付くはずなんですが」と言ったのは、ちょっと見ると変に見えるかもしれないが、きちんと書くと次の様に成る。光のエネルギーという考え方を認めるのなら、光すなわち電磁場それゆえに磁界や電解も認める事に成るのではないか。しかし金澤さんのは、磁界や電解は無くエネルギー有るのみだ、という考えだから、光のエネルギーと言った時の光に当たる部分は無い、という意見だ。したがって、何々の、の部分が無いエネルギーを考えている事に成る。それはおかしい。 |
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最終編集2014年09月27日 | ||||||||||||||||||||||||
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