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益貸借描像


宇田経済学では、貨幣の登場は、本質的には、交換価値を持つ物質片の採用ではなく、貨幣の使用という新種の契約の許容化(契約の自由の拡大)だ、と考えます。
最近話題に成っている様に、電子マネーというものが少なくとも理論的には可能だ、という事が、その考えを裏付けています。
実際の歴史では貴金属(交換価値を持つ物質片)が貨幣に用いられたのも事実だが、それは、貨幣の使用という新種の契約の許容化が、その時代には、まだ未完了だったから、という風に理解できます。

私の言う新種の契約とは、個人等と経済全体の間に結ばれる契約です。
例えば、個人Aが個人Bに与益αをし報酬として百円を受け取った場合、これは、個人Aが経済全体に与益αをし、その代わりに経済全体から将来、個人Aの決める任意の時期に、個人Aの決める任意の種類の、百円分の益(金銭を除く)を強制的に徴収できる、という契約を、個人Aと経済全体が結んだ、という事です。
つまり、ここに言う新種の契約は、
金銭以外の益の貸借契約であり、貨幣は金銭以外の益を貸した事を証明する債券だ、と言える。
任意の時期に任意の種類の、と言っても、それは経済活動の領域の範囲内から選ばれねばならず、その範囲(経済活動の領域はどこまでか)を決める問題は、別途検討が必要である。
強制的な徴収を受けるのは経済全体だから、個人Aから請求されたどの個人も拒否する事が出来るが、どこかの誰かが受けなければ、経済全体は約束を破った、という事に成り、その分、この新種の契約の信用(貨幣の信用)が低下する。
貨幣の信用が低下する、とは、人々が貨幣を、なんだこんなもの、と言って軽んじたり、貨幣で支払われる事を前提とした与益をしなく成る、という事だ。
けれど、それは、各人に、貨幣の信用を維持せよ、という義務が無制限に課せられる、という意味にではなく、新種の契約(貨幣)が市場原理によって棄却される事もあり得る、という意味に解されるべきだ。
実際には、我々の現実社会では、みんなカネカネと言って貨幣を追い求めているので、新種の契約(貨幣)の信用は非常に高い、と言える。

貨幣使用という新種の契約が許容される前は、相互に見返りの関係を持っている与益と受益は同時かつ同一人物から、でなくてはいけなかった。
これに対して、貨幣を使用する場合は、同時でなくても良いし、同一人物からでなくても良い。
そういう風に、取引の自由が拡大されたのだ。



出典 11日@2012年01月@日記 宇田経済学における貨幣の定義


最終更新2016年01月29日