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要は、自由であるか否か、であって、共産主義か資本主義か、という事ではない。 自由を奪う事は、共産主義でも出来るし、資本主義でも出来る。 共産主義では、ここはみんなの社会だからあなたの事も逐一みんなで決める、という論理によって、自由が奪われる。 資本主義では、社会のどの部分もあなた以外の誰かのものだから、何事についてもあなたはその人の指図に従いなさい、という風に、私有タイルを敷き詰める事によって、自由を締め出す事が出来る。 従って、共産主義が正しいか資本主義が正しいか、という議論は、的外れであり、本当の対立は自由主義と反自由主義の対立である、という事から目を反らす為のチャフではないか、と私は疑っている。 ここで言う自由主義は、出来るだけ自由にするのが正しい、という考えの事であり、その意味では、自由にすると弱肉強食に成る、という事は無い。 なぜなら、弱肉強食では弱者が不自由だからだ。 出来るだけ自由にする、とは、弱者も出来るだけ自由にする、という事だ。 そういう出来るだけ開封を手伝うルールは、斥力がゼロの資本主義だ。 現行の資本主義は、その名に反して、自由を保障するに足る十分な所有権を誰にも与えない事を主眼としており、実態においてはむしろ共産主義に近い。 上に書いた「私有タイルを敷き詰める」という法方が、それだ。 これを私は地上げ資本主義と名付けた。 土地の所有権を不正に強奪する地上げに倣って、そう命名したが、地上げ資本主義が不正に強奪するのは土地の所有権だけではなく、それが有ると他者の依頼を断る事が出来てしまう一切の所有権である。 従がって、現在の我々の目に入る所有権の表示は、ほとんどが地上げの犯人の名前だ、と考えるべきだ。 個人名もそうであり、大人数の談合集団が個人を天才である事に仕立て上げて自分達のマスコットとして立て、地上げで奪取した権利をその人に付け替えるわけです。 その個人の権利から上がる収益は雇用関係などを通してその談合集団に分配される様に成っている。 そういうマスコットの天才役と同じだけの発案が出来たら誰でも同じだけの成功を手に入れる事が出来るのか、そうでなければいけないのは間違いないが、本当にそうなのか、とてもそうは思えない、と思うあなたは、その事を言われなくても自分で分かっているという事です。 大きな実利につながる特許権などの知的所有権の所有者は大抵は大企業である。 しかし、大企業の定義は人数です。 大企業は生産性が高く、中小企業は生産性が低いなんて言いますが、大企業の定義は生産規模ではありません、人数なんです。 ここが、そもそも共産主義なんですよ。 一方、優れた発明や著作というものは、個人の才能と選択によって生まれる物です。 中小企業でもない、個人です。 それは、大企業も創業者個人の発明業績によって生み出されていたりする事にも現れています。 おかしくありませんか、そういうジャンルの所有権まで大企業が持っているのは。 これは、生産性の低い大勢の人が地上げによって生産性の高い一握りの人から所有権を奪い、その所有権から上がる収益を理由に自分達は生産性が高い、と言ってるという事です。 最近では、会社の業務として発明を成功させた個人の特許権は会社に帰属する、という法率まで作ろうとしているではないか。 それでは、という事で、会社に所属せずに個人で発明を成功させて特許を取ろうとしたら、どうでしょうか。 地上げ屋が来るんですよ、地上げ屋が。 この事は、それ以前の一見合法に見える物も本質的には地上げである事の証拠です。 本当なら、才能の無い人は集まって会社を作り量の仕事を担当し、才能の有る人は独立して個人で質の仕事を担当する、というスタイルに成るはずなんです。 私だったら、人を雇うなんてまっぴらゴメンだけどなあ。 そう成ってないという事は、我々の現行の社会が共産主義に成っていて、それを見破られない様に、資本主義がそうなんだと逆の事を言ってる、という事です。 株式会社と言い出した頃からおかしく成ったんじゃあないかなあ。
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最終更新2021年05月12日 | ||||||||||||
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