since 2003 イレコナビ サイトマップ |
||||||||||
< 日記 > | ||||||||||
< 2015年03月 > | ||||||||||
< 07日 > | ||||||||||
2015年03月07日(土曜日) | ||||||||||
共産主義と資本主義(宇田経済学の話の続き) | ||||||||||
経済学の新理論を打ち出した時、それを不都合とする者が、共産主義思想だ、というレッテルを貼って、それを社会的に葬ろうとする事は、有りがちな事なのではないか。 最も極端な場合としては、共産主義者が、反共産主義の論客を撃退するために、その論客に共産主義者だというレッテルを貼って大衆の目を欺く、という手法さえ存在しているだろう、と私は推測している。 そこで、宇田経済学が共産主義と資本主義に対してどういうスタンスなのか説明しておく事は、そういうデマかしに対する予防措置として有効だ、と思う。 そして、経済学の新理論を打ち出す人には、自分の理論の共資軸上の位置の明示を標準装備とする事を、おすすめする。 共産主義に対しては、私はハッキリと反対の立場を取る。 その意味を込めて、私は、共産主義の主張を次の言葉でモノマネする。 「あなたが何時どこで何をするかは、全部みんなで話し合って決める。 なぜなら、ここはみんなの社会だからだ、みんなの土地だからだ。」 これに対して、資本主義の立場は、次の言葉で代表したい。 「ここから内側は私の分だから、私がダメと言ったらダメ」 「私の分」の中でも基礎的な分限は特別であり、それが絶対である事は自明だ。 資本主義と共産主義は所有を認めるか否かで分けられる、と聞いている。 資本主義は所有を認めるが共産主義は所有を認めない、という具合にだ。 所有の概念は、個々人を他者の侵略から守るために、必要に迫られて対症療法的に編み出された、防御的で自然発生的な道具だろう。 その観点から言って、共産主義による所有の概念の放棄は、無防備の強要「人間を全部明け渡せ」だと言える。 本音では「あなたもみんなのものだ」と言いたいくせに、幾ら何でもそれではボロが出てしまうので、靴の上から足の裏を掻く様な気持ちで「社会はみんなの物」「土地はみんなの物」と言っているのが見え見えである。 事実、私には、十代の頃に「あなたはあなただけのものではないのよ」と母から言われた事が有る。 体裁を繕った制止を私が全て突破してしまったために芯が出て来た、というのが真相だ、と当時から思った。 当時、時代劇で将軍役が側近役から同じ事を言われるシーンを見たが、私の場合、そういう意味ではなかった。 この事は、共産主義思想が生み出された時代の状況とは正反対である。 共産主義者は、資本主義の方こそ「人間を全部明け渡せ」だ、と反論するだろう。 この点、共産主義思想が生み出された時代の資本主義実践の状況が「人間を全部明け渡せ」だった、という事は、斥力の結果であって資本主義の結果ではない、というのが私の立場だ。 各個人が自給自足しようと思えば出来るだけの資源を最初から所有している、という前提(2012年10月15日の記事)でであれば、自由取引をする事は「人間を全部明け渡せ」ではない。 これが斥力ゼロの状態だ。 つまり、自給自足している人が趣味で作った竹細工を売りに来た時に「嫌なら売らなくたって良いんだよ、私ゃ強制してませんからね」と言う事には脅迫成分は含まれていないが、竹細工を売って生活している人にそれを言う時には、脅迫成分が含まれている。 斥力が有る場合というのは、最初は何も所有してない状態から出発して、正確には、自給自足には不十分な所有内容から出発して、足りない分は他者との取引で補う、という状況だ。 最初は何も所有してない状態から出発する個人にとっては、共産主義で、みんなの社会だみんなの土地だ、という風に成っていた部分が、資本主義では、ここは誰々さんのという風に区分けされているだけで、共産主義と何も変わらない。 私の分はどれですか、と尋ねれば、自分の分は自分で稼いだカネで買いなさい、という風に言われるだろう。 そこで「それではそうします」と言って就職すれば、「それではあなたにはこれをやってもらいます、あなたが何時どこで何をするかは、全部雇用者が決めます」と言われて、共産主義に逆戻りするわけだ。 抽象的な悪魔の立場からすると、気付かれない様に時間を掛けてジックリと斥力を充満させた後で、そろそろホトボリが冷めた(所有概念登場以前の痛みをみんなが忘れた)かな、と言って、共産主義思想を声高に吹聴して回った、とも見れる。 宇田経済学が正義だとするルールは、斥力ゼロの資本主義だ。 先日知り合ったばかりの人と話をして、良い話が出来た、と思っているので、ここまで、忘れないうちに書いておいた。 生物主義と反生物主義の対立が本質であって、資本主義と共産主義の対立はチャフだろう、という洞察を以前述べたが、資本主義でも共産主義と同じ事が出来てしまう、今それをされているんだ、という事をこのページで示せた事は、この洞察を補強するだろう。 名目上の共産主義者であるか資本主義者であるかを問わず、実質上は、結託して手分けして所有タイルを敷き詰め、宇田の様な勝手な奴に勝手な事をするスペースを与えるな、という共産主義の考え方をしている人が、名目上の共産主義者よりも遥かに多い様に感じる。 共産主義も、共産主義と等価な斥力付資本主義も、生物抑圧装置である。 それは、平均的な個体よりも優秀な個体が、人生の楽しみは自分です、他の個体とどのぐらい差が付くか、それが楽しみだ、雲泥の差が付けば良いんだけどなあ、という方針で生きる事を、劣った個体が力を合わせて阻止する為に作られ、その火を片時も絶やさぬように運営され続けている。 劣った個体が、優れた個体の進路選択を直接禁止せず、ちゃんと自由にしてるんですよ、とか、みんなの物を独り占めはさせない、という理屈を付けている事が、自分たちの目指している事を悪だと自覚している証拠だ。 動きの遅い個体が動きの速い個体の動きを止めようとする、という描像が分り易い。 実際、そういう動物本能が存在するのではないか、とも私は思っている。 2004年アテネ五輪男子マラソンへのニール・ホランの乱入は、そういう本能の存在を感じさせた。 私自身、自分の心身で、そういう本能を実感した事が有る。 それは、止めなければ置いて行かれる、という不安感だった。 妬みや攻撃される懸念ではなかった。 本能であれば生物主義によって擁護される可能性が有る。 |
||||||||||
|