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1970年代か1980年に母(ウダマチコ)から聞いた。
私が間違えないと、という意味ではなく、有名人が間違えないと、という意味だった。
多分2000年より後にテレビでタレントの大場久美子さんが、「間違えないとみんなが助けてくれなく成る、と言われたので、故意に音程を外して歌っていた」と証言するのを聞いた。
1999年か2000年に、派遣され労働をしていた際に、職場の正社員種野から、「(宇田が)間違えないと(宇田に)何も言えないから不都合だ」という意味の事を言われた、多分これがテレビ・ドラマ「ドクターX」の由来だろう。
28日@2021年12月@日記で私が「ゾウリムシの繊毛運動」という言葉で揶揄している事も、この問題です。

集団ストーカー犯人が言う「間違えないとみんなが助けてくれなく成る」という定型句の本当の意味は、「どこかで間違えないと間違えるまで際限なく難度を上げながら問題を課され続ける」という意味だと私は考えています。
これには、みんなが助けてくれなく成る、だけではなくて、他者の助けが必要に成るような加害をされる、という意味が含まれます。
自分達が加害をする、という本当の事を言わないようにするために、助けてくれなくなる、とだけ言う手口です。
主に「間違えないとみんなが助けてくれなく成る」という善意の忠告の体裁で発言されます。
「間違えろ、さもないと、みんなが助けてくれなく成るぞ」という脅迫の意味で使われます。
「間違えろ」とは、よくもまあ抜け抜けと。
意味不明なことを言っているとは、本当は、こういう発言が受ける評価のはずです。
それなのに実際は、「間違えろ」と要求する種類の人が、要求される種類の人の発言を「意味不明なことを言っている」という言葉でもみけして第三者に聞かれないようにする傾向がある事は、嘆かわしい。

1970年代か1980年に母(ウダマチコ)から聞いた時には、本当に助けてくれなく成るだけだと思った。
つまり、間違えなければ、この人は何でも1人で出来るので助けは必要ないようだと周りの人が思って助けなくなる、という事なのかな、と思ったわけだ。
つまり、エベレストに単独登頂できるぐらい有能なところを周囲の人に見せるとエベレストに登るときに誰も一緒に登ってくれなくなりますよ、という意味。
それ以外の意味であってはいけないような事だ。
だから、その時の私は、単独登頂を目指すか、ハードルを下げてパーティーでの登頂を目指すか、どちらにするかは難しい問題だ、と思った。
目指すなら単独登頂だよな、ぐらいに思ったのだ。

1970年代というのは、私が広島県福山市沖野上町に住んでいた時代です。
2023年にウダマチコに訊ねると「池田アパート」という名前の賃貸住宅だったそうです。
自分でGoogleで調べると、「コーポ朝日」という名前でした。
途中で改名されたのかもしれません。
1970年代は私の小学生時代です。
それより何十年も後に成ってからはウダマチコは私の人生の進路選択を理由に「そんな事とをしていたら、みんなが相手にしなくなる」という定型句を多数回言いました。
私が「相手にしなくて結構」「自分は単独登頂するんだから」という意味の事を言い返すとウダマチコは「馬鹿じゃなあ、あんたは、相手にされなくなるという事は生きていけなく成るという事なんよう」と語るに落ちた。
生存権の否定である。
これも、「みんなが助けてくれなく成る」とは人権が蹂躙されるようになるという意味である証拠だ。

もっと昔、私が広島県福山市草戸町に住んでいた頃、母(ウダマチコ)から、「人生では必ず間違えなさい、さもなければ、イエス・キリストのような末路に成るぞ」という意味の事を言われた記憶が私には有る。
そう言われたのは私が保育所に通っていた頃か、保育所に通い始める前だろう、と記憶している。
私が広島県福山市草戸町に住んでいたのは小学校1年生までです。
非常に昔の事だし、非常に幼かった時の記憶なので、記憶違いではない事を分かってもらうには工夫が必要だ。
その頃の別の出来事の記憶を色々と挙げるのがよいと思う。
そうすれば、その時期について私の記憶が確かである証拠に成るだろう。
ちなみに、私の出生は1967年だとされていて、私も長い間そう思って来たが、本当は1964年ではないか、という疑いも私は持っている。

また、多分2000年から2010年までの間だと思うけど、1990年頃に同じ大学に通っていた中堤直という友人とインターネットでヴォイスチャットをしていた時、中堤直が私に「人間は間違えるから進歩が有るんだってさ」という意味の事を何度か言った。
私にとって、それがどうかしたのか、というタイミングで発せられた言葉だったので、多分中堤直が私を見ていて、宇田君は間違えない、と思った事を伏せて、私に「間違えろ」という意味で言った物だろう。

条件部分が「間違えないと」である事は「強きをくじく」と同様に、動機・理由として正当性が無い事を犯人が語るに落ちている部分だと見なせます。
裁判で、動機を訊ねられた被告人が「被害者が間違えなかったからです」とか「被害者が強い人だったからです」と答えれば、「なあんだ、それなら無罪です」って成りますか?
成らないんですよ。

こけるまでこかしにかかってくる、というのは、犯行動機を知る大きな手掛かりです。
間違えるところを見ないと気がすまない、という事も考えられるし、間違えなければとてつもなく素晴らしい結果が出てしまうので何としてもそれを阻止したい、という事も考えられる。

こちらが間違えるまで際限なく難度を上げながら敵が問題を課そうとしても、こちらがそれを解くのを断ってしまえば、敵は目的を達成する事が出来ません。
そこで敵は「これはあなたの義務です」「断れば解雇です」という法外な相場をふっかけて来る。
それを真に受けて敵の要求に応えようとし続ければ、どこかでこちらは間違えてしまうわけですが、それを義務だと言われてるもんだから、間違えれば義務が果たせなかった、という形に成り、不当に卑しめられる事に成る。
間違えるといっても、ただ間違えるのではなく、義務違反の形で間違えるのである。
これは、劣っている所を見せて恥をかく、というのではなく、悪い事をして責められる、という形にされる、という事です。
敵は、責めるとは限りませんが、責めなくても「許してやらあ」という形で道徳的な貸しを作った事にして来ます。
こちらが問題を解くのを断れないようにする為に、こちらの損害がその様に不当に増大しても構わない、という態度を敵が取る、という事です。
この様な敵の性質は、それに留まるものではなく、敵がこれ以上問題の難度を上げれば、それを無理に解こうとすればこちらは病気に成ったり大怪我をしたり死んでしまったりする場合でも、敵は構わず難度を上げて来る、という態度にも見られます。
構わずというのは、仲間と軽口を叩きながら談笑しながら、という事です。
ここに、敵がこちらより劣っている、こちらが敵より優れている、と敵が認識すると、それへの不満を、こちらは人間じゃない、犬の方が鼻が利くのと同じ様な事だ、という間違った言い訳にすり替え、それでも足りない分を、人間じゃないから人間扱いしなくてもよい、という屁理屈でカバーする性質が敵には有ります。
その事によって、敵は人間じゃなく成るのです。
「馬鹿にするなよ」「馬鹿にされた」というのは、ここまでの試練にこちらが耐え抜いた時に敵が発する言葉です。
敵の犯した罪が限度を超えて重く成ったとき、その罪を敵はこちらの「馬鹿にした」という罪にすり替えてくる。
これも反転詐欺と同じ犯人がやってるからだろう。

こけるまでこかしにかかってくる、その延長上に冤罪が有る。
冤罪も、ただの冤罪だけじゃ終わらない。
敵が自分で犯罪した上で、その罪をこちらになすりつけに掛かって来る。
これが巷の冤罪事件の本質である。
間違えたんじゃないんだよ、知っててやってるんだよ。
つまり、警察が犯人を間違えたんじゃなくて、冤罪の被害者がやった事にされてしまった凶悪犯罪もケーサツがやってる、という事です。
飯塚事件のドキュメント番組を見て、そう思った。
09日@2023年05月@日記の実例からも、そう思った。
直前の2行を加筆した翌日2023年05月25日に長野猟銃立てこもり事件が起きた。
また、2023年05月24日には、私は「噂の刑事トミーとマツ」という古いテレビドラマの第86回の国広富之さんが拳銃でメッタ撃ちにされる辺りから1分間ぐらいを何度も繰り返して見た。
その直後に長野猟銃立てこもり事件が起きたのを極めて不審だと思う。
長野猟銃立てこもり事件では、珍しく警察官が撃たれて死んだ。

参考:2022年11月@日記 ・・・ イトウ変死事件。
多分2016年私と父が自動車で帰宅した時に我が家の南隣に警察車両が駐車されており制服の警察官2人が我が家の敷地内に立って我が家の母屋の2階を屋外から見上げていた事があった。

ドクターXが実際に居たら、これをやられる、という事です。
ドクターXなら全部突破する、と思うかもしれませんが、旧約聖書のヨブ記みたいにされるって事ですよ。

冤罪も最終兵器ではなく、冤罪でも犯人の望みが十分に叶えられなければ、犯人は戦争を起こす、これがの戦争のホントの原因だ、と私は考えています。

加害をするのではない、助けないだけだ、という屁理屈を論破して代わりに正しい理屈を立てる事は、私の相対正義論の主目標のひとつです。





最終更新2023年06月01日