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「言語工作@敵の手口を暴露」や「法律工作@敵の手口を暴露」に書く予定です。


憲法を改正しようとする動き。
ルール破壊の観点で最も警戒を要するのは憲法改正だろう。
憲法9条は間違っているとか、天皇制の部分は必然ではないといった特徴が現行憲法には有るだろうけど、それ以外の部分は大体、ほとんど必然なんじゃないかと思う。
数学の公理みたいな所が有る。
だから、角を矯めて牛を殺す、の愚に陥るのを避ける事が最優先だと思う。
現行の憲法のままで自衛隊もやってるわけだから、憲法を変えないと自衛隊は出来ないとかそういう問題は今のところ無いわけですよね。
だから、そういう部分を直す事には、気分がスッキリするといった種類の利点しか無いのではないか。
それに比べて、憲法を改正する事に伴うリスクは非常に大きい。
改正するという事に成ると、変えてはいけない部分まで変えようとする者が出て来る、また、最初からそれが狙いだけどその事を隠して憲法改正を言っている人も少なくないだろうと私は疑っている。
サケの産卵で、スニーカーオスが素早く割り込んで精子をかける現象が教訓になろう。
まだ書いてないけど「集団ストーカーは被害者の何に反応して来るのか」という問題について、原理主義的に日本国憲法に書かれている通りに行動すると来る、という風に私は認識しています。
結婚は両性の合意のみによって成立するという規定に従って異性との交際は第3者を全く介在させず完全に独自の直接交渉によって1対1で話をつけようとすると来る、職業選択の自由の通りに進路選択をしようとすると来る、といった具合です。
生活保護の不正受給が多い事が生活保護制度を破壊しそうな勢いである事も、憲法が保障する生存権を破壊する事が目的の攻撃ではないか。
集団ストーカー方式を実行形態とする勢力が実質上の最高権力であると言っても過言ではない現実を見れば、憲法を改悪したいと考えている勢力は非常に大きいと見なければいけない。
反グローバル主義の台頭が日本だけとかアメリカだけではなく世界中で起こっているのを見て私は、これは共産主義の世界同時革命みたいな指導に従って行なわれているのではないか、と疑っています。
参政党の党カラーがオレンジ色である事も、多分その表われなんだろうなあ、と思っています。
私は、日本国憲法の中の差別を禁止する条項に、人種差別とか男女差別だけでなく、出生、門地、性別、国籍、社会的地位、・・・によって差別してはいけない、と書かれているぞ、人種差別と男女差別だけにものすごく目くじらを立てて他の差別はむしろ擁護する態度はおかしいじゃないか、という事を日頃から言っています。
敵はこれを非常に不都合だと考えているはずです。
憲法改正では、例えば日本国憲法のこの部分を狙っている者も、息を殺してチャンスを待っているに違いない。
憲法改正には、こういう危ない問題が、たくさん潜んでいるだろう。
参政党は「国旗損壊罪」だったか、新法を提案して、これが本当に法律として成立しそうな勢いです。
これを私は、例えば初めてパソコンを買って使い始めた時に、解説書を読んで、試しにEメールを送信してみましょう、と書かれているのでやってみた、というのに似た事じゃないかと疑っています。
つまり、世界同時反グローバル化運動の日本支部として自分達が本当に実力を付与されているのか試しに法案を1つ通してみる、というものじゃないかと思うんですよ。
つまり、国旗損壊罪は試し撃ちなのではないかと。
国旗損壊罪が試し撃ちなら、本命は何かと言うと、それが憲法改正なのではないか。
 
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2026年04月から06月までTBS系「日曜劇場」枠で放送された「GIFT」というテレビ・ドラマで山田裕貴さんが演じた「宮下涼」が参政党の神谷宗幣さんに似ている。
ゼッケンの数字もオレンジ色であるのを最終回の放送で見た。
潜在意識レベルでのコンテンツ・マッチング的な応援が幅広く敷かれているならば、これは、戦争広告代理店の様なものが関与した大規模陰謀の一部だと見るべきだろう。

2026年04月20日から2026年06月29日まで関西テレビ制作・フジテレビ系列・月曜22時枠で放送された「銀河の一票」というテレビ・ドラマも、「GIFT」というテレビ・ドラマと連携しているのではないかと私は疑う。
こんな時期にこんなテーマの番組が何故出たのか不可解です。
何か関連する事が現実に起こったり進行していたりしますかねえ。
不正選挙が今よりも容易に成る選挙システムが導入される事にも目を光らせたい。
写真撮影への法的制限が増やされて来ている。
カスタマー・ハラスメントを取り締まる法律が新規に作られて来ている。
自転車交通の取締りが強化されて来ている。
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2026 0401自転車青切符制度開始
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国旗損壊罪の新設が議論されている
2026年03月25日の参院予算委員会で、れいわ新選組の奥田芙美代議員が防衛装備品を「人殺しの武器」という言葉でそしった事を受けて、小泉進次郎防衛相は、そこで「人殺し」という言葉を使う事は看過できない、という意味の発言をした。
私の記憶では「人殺しの武器」ではなく「人殺しの道具」ではなかったかと思うが、2026年04月05日に本稿を執筆中にインターネット検索すると「人殺しの武器」という言葉ばかりが並んでいた。
小泉進次郎防衛相の発言の中に「看過できない」という言葉が入っていた事は間違いない、インターネット検索の結果にも、そう書いてあった。
本件は、言論のルールのこれまで続いて来た相場を一変させようと小泉進次郎防衛相が仕掛けた物だ、と私は疑っている。
したがって、言わせてるヤツが背後に居る、と私は見ている。
中国大使館に自衛隊員が侵入して言葉を慎めと要求したのとほぼ同時ですよね。
背景を長期醸造した上での仕掛け(崩壊を開始させる最後の一押し)が行なわれてるんですよ。
この様な発言などの出来事がキッカケで色々な基準の相場が大きく変わってしまう、という事は有りがちな事ではないですか。
私の経験でも、ある時期まで長年に渡って私が言い続けて来たが全く呵責されなかった様な事を、ある時を境に突如として、刑法犯罪の現行犯をつかまえたかの様な態度で文句を言われ始め、それが今も続いている。
途中で相場が変わって、その事が私には伏せられていた様だ、と私は見ている。
丁度大学を卒業する直前(1991年)ぐらいの事だった。
私の意見は以下です。
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国会は言論の府であり、国権の最高機関とも言われ大事な事を決めるのだから、意味内容が聞くに堪えないなどの理由で発言が制限される事によって、議決内容が左右される事は有ってはならない。
この道理は、意味内容が聞くに堪えない発言を出来るだけしないようにすべきだ、という道理よりも優先されるだけでなく、国会中継をテレビ放送して内容を広く国民に視聴してもらわなければいけない、という道理よりも優先される。
国会中継を見た人の心理的な負担を無くしたり減らしたりしたければ、そういう発言を禁止するのではなく、視聴者サイドで受信機を操作すれば受信機から出力される範囲のグレードを選択できるようにすべきだ。
裁判では審議の内容が著しくしたくない話に及ぶ事があるので裁判をするには覚悟が必要だ、という噂を聞いた事がある。
これも、裁判が正しく行なわれています、という風に私には聞こえた。
国会も、それと同じ事です。
したがって、国会での国会議員の発言の意味内容面での自由は、一般的な言論の自由よりもずっと大きいはずである。
語弊を恐れずに言うならば、国会での国会議員の発言の意味内容面での自由は無制限であるのが正しい。
たとえ他の場所では言ってはいけないとしても国会でなら言ってもよい、とされるのが本当でしょう。
選挙民が、自分では怖くて言えないから国会議員の先生に国会で自分の代わりに言ってもらう、だから代議士って言うんじゃないのか。
(ただし、防衛装備品を「人殺しの道具」と表現する事が、一般的な言論の自由だけでは正当化され得ない、とは私は言っていない)
したがって、奥田芙美代議員の当該発言がルール違反であるか否かは、この発言が奥田芙美代議員の意見を的確に表現したものであるか否かのみによって決まる事である。
奥田芙美代議員の意見を的確に表現したものであるならば、それがどんなにどぎつい物であろうと、これは容認されねばならない。
いわゆるポリティカル・コレクトな発言でなければルール違反である、という基準には私はハッキリと反対です。
その理由は、何がコレクトであり何がコレクトでないかや、ポリティカル・コレクトネスをどの程度尊重しなければいけないかは国会で議決されるべき問題だからです。
国会での議決に先立って基準が存在すれば、その基準が正しいのか否かを国会で議論する事が出来ません。
そういう基準は1つたりと有ってはいけないはずです。
特定の何かの基準について、これは当たり前の事だから国会であってもそれを否定する法律を作る事は許されない、と誰かが言っても、その誰かが団体であっても、その事(誰かが言ったという事)だけでその基準が当たり前の正義だと認定する事は出来ない。
言ってる人が誤解してるかもしれないし、間違いだと分かっていながらふっかけているかもしれない。
聞いた人が自分も当たり前だと思っても、その事まで合わせても足りない。
本当に当たり前なのか念のために確認する必要が有る。
その確認は、民主主義では究極的には選挙で行なわれる。
国会での議決というのは、その内容が選挙によって支持されました、という事だから、結局、当たり前の事は国会でも否定されてはいけないという意見は語義矛盾レベルに間違ってるわけですよ。
それが、議会制民主主義って言うのか、日本の現行の制度の基本中の基本であるはずです。
議会制民主主義が正しいか否かは究極的には不確実ですが、議会制民主主義ではそうでしょう。
簡単に言うと、特定種の差別がいけないか否かは国会で議決されるべきことであり、たとえ国会様であろうと差別の是非を議論する事は許されないという意見は間違っている、と私は言ってるんです。
実際レベルで言うと、国会は法律を作る所であり、立法は憲法に従わなければいけない、だろうけど、原理レベルで言うと本来は、憲法だって国会で作る物です。
多分これは法治国家という原則から言える事ではないか。
何が正しくて何が間違っているかの公定基準の中に、その根拠が国会の議決ではない物があれば、それは国会以外の誰かが決める事に成ります。
それは、法が治めるのではなくその誰かが治める、って事でしょう。
法治国家の原則は、そういうのは一切だめです、と否定しているわけですよね。
それでは、奥田芙美代議員の当該発言がルール違反であるのはどういう場合か。
それは、奥田芙美代議員が自分の意見ではない事を言った場合です。
自分に投票した人の意見を代弁するのは構わないけど、聞いた人が誤解する様に狙ったとか、言われた人が不利に成る様に狙ったなど。
本当にそう思って言ってるんだったら許されねばならないんだけど、聞いた人が誤解したり言われた人が不利に成る様に狙って思ってもない事を思ってますとウソをつく、こういう発言はルール違反だとされるのが本来は正しいはずです。
しかし実際問題としては、人が心の中で本当はどう思ってるかなんて立証できないんだから、この種のルール違反については、違反 → 処罰という方式で対処したのではいわゆる「正直者が馬鹿を見る」に陥るのでいけないから、対抗議員が「あなたは違反している」と発言する事や、周囲の議員や国会中継の視聴者が違反してると思うかどうかを今後の発言や投票行動に反映させる、という対処の方式が正しいだろう。
「人殺し」という言葉については、武器というのは基本的に人を殺す道具です。
細かな事を言えば、殺さず怪我だけで済ませるとか、色々あるだろうけど、警察ではなくて自衛隊の任務が想定する状況としては、そうも言ってられない状況が主な状況だろう。
したがって、自衛隊が使う武器を「人殺しの道具」と表現する事の不当性は高々言葉を不当に飾っている事だけであり、語幹まで歪めているわけではない。
「殺傷兵器」という言い方ならよいが「人殺しの道具」という言い方はいけない、と言えるのかどうか、私には疑問です。
正直言って、同じじゃないか、と思うんですよ。
「看過できない」という言葉について。
これをテレビの国会中継で聞いて直ぐに私は反射的に「看過できないってどういう意味に成るんだろうか?」と独り言を言った。
看過できないというのは、行動を起こす必要が有る、って意味だと思うんだけど。
権力者が行動を起こすというのは、権力を行使するという意味に成りますよ。
言論に対して行動を起こす、という発言は、権力者が軽々しく口にしてはいけない物です。
小泉進次郎防衛相は軽々しく言った様には見えなかったけど、でも即座に言ったよね。
権力者が即席の判断で「行動を起こす」と口にしてもよいのは、極めて特別な場合だけでしょう。
したがって本件は総じて、小泉進次郎防衛相が大変な失言をしてしまった、という事件だとまとめるのが適当だと私は思う。
しかし、近年の国会内での色々な国会議員の野次ではない正規の発言の中に、国会にふさわしくないと私が感じる物が増えているのも確かです。
これを私は悪しき傾向だと思っています。
これも一種のガスライティングであるならば、小さい事だから我慢しろ、といって済ませていると甚大な被害が生じて気が付いた時には手遅れに成ってしまう。
だから念のために、まず、そういう不品格ではないかと思われる発言の、どこがどういけないのかをキチンと明らかにする事から始める必要が有ると私は思う。
私も、まだ、その答えを知らない。
どこがどういけないのかをキチンと究明し尽くさないまま曖昧な基準を置いて取締りを開始すると、将来的にはその基準が悪用される様に成るんですよ。
その事は最初から敵に狙われている。
国会での国会議員の発言を聞いて、半ば笑いながら、最近一体どうしちゃったんだろう、すっげえなあこの言い方、ある時期までこんな言い方を国会中継で聞いた事は皆無だったけどなあ、と思う事が増えた一方で、議長が「先ほどの○×議員の発言に反則発言が含まれていました、これについて後で・・・」という意味の発言をする事が多い事にも問題を感じています。
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2026年06月05日13時00分開始の国会中継で、
16時07分21秒頃から16時16分20秒頃まで、れいわ新選組の奥田ふみよ議員が発言するのを私(宇田雄一)はテレビで視聴しました。
この発言の直後、16時16分20秒頃、議長が「ただいまオクダ君の発言中に不適切な言辞が有ったように思われます。指摘がございましたので、後刻理事会にて協議をいたします」と発言しました。
これに対して奥田ふみよ議員が「それは何の言辞ですか?それは何のどの言葉ですか?どの言葉かわからないですけど」と言っているのが聞こえた。
この件を例に取って、具体的なコメントを以下に書きたい。
まず、不適切な言辞が有ると指摘した人は誰なのか、どの言辞が不適切だとされたのか、これらがテレビの視聴者に伏せられている事を私はいけないと思う。
不適切な言辞が有るという指摘は、挙手するなどして議長に指名されて、公開の発言として国会中継でテレビ放送される形で行なわれるべきだと私は思う。
誰が言い出したのか伏せられる、内容も伏せられる、というのは、精神病院の強制入院の手続きに似ている。
実質上は同じ物だからではないのか。


私が気に成った発言は以下です。

16時14分08秒頃の発言。
「小学校の授業でも、ちゃんと目的とか狙いとか、そういうのを絞り込んで授業するんですよね、学校でも。ホントに、いい加減にしていただきたい、と思います」

16時15分24秒頃の発言。
「武器って何ですか?小学生でも分かる様に分かり易くお答えください」

小学5年生でも分かる様に説明しろ、という意味の事は私も言われた事が有る。
説明を受ける人が大人であれば、そんな要求に応える義務は無いはずだ。
説明を受ける人が大人でなくても、高校生でも、中学生でも、小学6年生でも、小学5年生でも分かる様に説明する必要は無いはずだ。
そうでなければ、小学校の第6学年や中学校や高等学校は世の中に必要ない、って事に成るじゃないか。
しかし、それらは必要だから有るわけでしょ。
国会での答弁なら、国会議員なら誰でも理解できる、という分かり易さのレベルで十分なはずです。
それなのに何故か、こういう要求が拒絶されるのを見た事が私には無い。
首相は「小学生でも分かる様に説明します」といった意味の事を言っていたが、そういう態度は、こういう不当な要求をする人に「つきあう」事に該当する。
出来るだけ付き合わない様にする事を、私は勧めている。
善意に解釈すれば、質問答弁内容が属する分野の専門家ではない大人にも分かる言葉で説明しろ、という意味を「小学生でも分かる様に」という言葉で表現しているのかもしれないが、私はこの言い方を聞く度に違和感を覚え、その感覚は多分アレルギー反応だと思う。

その後録画を再生していて、気付きました。
16時15分37秒頃の
「武器というのは人殺しです、人殺しの機械です」
という部分、この部分が引っかかったと見て間違いないでしょう。
この様な正規の発言内容の取り締まりが始まる前に、いわゆるヤジという物が聞かれなくなっているでしょう。
その話が全く表に出てないんじゃないですか。
これは現時点では、発言を取り締まってる側の取り締まり行為が重大な犯罪であるようだ、その様な犯罪がコッソリ推し進められている様だ、これは重大事態だと見られねばならない、というのが私の印象です。
大変な事が起こってるぞ。
戦時言論統制みたいなものが始まっている可能性が有る。
放っておくとサラミスライス様にもっと禁止が増やされて行く恐れがあるので、早めに芽を摘み取る必要が有る。
言論を取り締まれという要請の発信源はどこなのか、を見極める必要が有る。
小泉進次郎防衛相も発信源ではないと私は思う。
彼は伝言しているだけだろう。

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2026_0713_0947にメモした。
新聞に、言論の自由の是非に関する論説が掲載されていた。
論者は慶応大学教授の駒村圭吾さんと、日本国際問題研究所の桑原響子さん。
「言論は言論によって是正され、うそや偽情報は信頼できる対抗的な言論があれば淘汰されて行く」という法則が成り立たなく成って来ている、という意見が紹介されている。
第1印象としては言論取り締まりの背景支援が始まったって感じを受けたが、悪気は無いのかもしれない。
「言論は言論によって是正され、うそや偽情報は信頼できる対抗的な言論があれば淘汰されて行く」という法則が成り立たなく成って来ているとしても、それ以前に、ずっと昔の日本や現在の共産主義国で「言論を取り締まれば解決する」という法則も成り立たない事が分かる事例が多く、その反省に立って「言論は言論によって是正し、うそや偽情報は信頼できる対抗的な言論によって淘汰して行こう」という「言論の自由」の方針が打ち出されたのだから、言論の自由を制限するにしても、「言論は言論によって是正され、うそや偽情報は信頼できる対抗的な言論があれば淘汰されて行く」という法則が回復ないし強化される様に狙った制限でなければいけない。
そういう事が書かれているのかもしれない。
合わせて、間違った言論を是正する言論や、うそや偽情報を淘汰する対抗的な言論を、特殊部隊の様に鍛え上げて行くべきだ。
間違った事を言うのは禁止です、という形の制限ではダメです。
それでは、間違っているという判定を間違える事や、間違っているという判定でウソをつく事が、不当に有利に成ってしまうからです。
うそであるのか否か、偽情報なのか否かは、どれも究極的には、絶対確実な形で判明する物ではない、という認識を前提にする必要が有る。
デマを流布してはいけない、という法律は全く正しいんだけど、どんな発言も、それをデマだと言う発言と、どちらの方がデマなのか、究極的には、絶対確実な形で判明する物ではないから、本当である可能性が少しでも有れば発言を禁止しない、という方針を貫くならば、何も禁止できない事に成ってしまう。
これが、「デマを流布してはいけない」という法律を最初に見た時に私が思った事であり、近年インターネット上での情報発信について発信者のアカウント削除が行なわれたという話やファクト・チェックをやってますという話を聞く度に思う事です。
 
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能力主義に反対する意見が複数の論者(マイケル・サンデルさんや、竹端寛さん)から発せられ始めた。
これについて、私の意見は、最初このページに書いていましたが、01日@2026年05月@日記に掲載位置を変更しました。
追記はそちらに行ないます。
01日@2026年05月@日記





最終更新2026年07月19日