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2026年05月01日(金曜日)
能力主義、実力主義はオプションなのか

2026年04月下旬に「言葉とルールへの猛烈な破壊キャンペーンが仕掛けられている @現状の注意点@
敵の手口を暴露」に書き始めたが、とりあえず日記のページに書いておく方が良い、と思ったので、2026年05月01日に、このページに掲載位置を移動しました。

まず、私が特に怒っている事は、能力主義の話だけじゃないんだけど、私がこれまであまり勉強して来なかった分野の事で、「クソ」に分類される疑いの強い間違った話が、単なる学問的議論に留まらず影響が私にまで及ぶであろうほどの大規模な現状変更の企てとして、次から次へと提起され、本来ならそれぞれの問題を担当している専門家が各個撃破してくれるべきなのに、専門外の私が黙っていると誰も何も言わない、フリーパスで話がどんどん進行して行く、中には反論する事が犯罪の様に扱われる物まである事です。
また、熟議する時間を与えない様に次から次へ新しい問題が提起されている。
だから、それぞれの問題を担当している専門家にも怒っているんです、共謀してるんじゃないかと。
黙っている事がうるさい、「お前ら、うるさいんだよう」と怒鳴りたい気持ちで毎日過ごしている。
私は社会科の勉強を真面目にやっていたのは中学校卒業までで、高校1年生からは、社会科に分類される勉強はろくにやっていません。
私は、高校生の間も大学生の間も大学卒業後も、数学や物理ばかりを勉強したり研究したりして来ました。
だから、社会科に分類される事で間違った事を言われると、それが間違いだと気付く事がまず難しいし、間違いだと気付いても、反論に骨が折れるんですよ。
そういうのって霊感商法だったかで非難されているやりかたですよねえ、無知に付け込んでどうのという。

(1) 能力主義って何の事を言ってるのか
(2) 能力主義の否定は自由の否定である
(3) 個人が社会に組み込まれ過ぎている事の方が問題だ。
(4) 能力主義は非人道的であるか、それとも人道主義の一部であるか
(5) 優越感が問題なのか、それとも劣等感の方が問題なのか
(6) 多動物描像
・ 必需品生産労働者の納得、競争入札
・ 差別の定義
・ 金銭的豊かさというもうひとつの不公平の形
・ 仕事をなめとるんか、
・ 私が卒業した東京理科大学はアメリカ的な実力主義の校風だと言われていた。この言い方は日本国内が実力主義ではない証拠。
・ 私は平均的な人と自分の出した結果の間に雲泥の差が生じる事を目指して頑張って来た。格差がいけないなんて、正反対だ。
・ 個人が社会に組み込まれ過ぎるというのはチャップリンのモダン・タイムスという映画で指摘されており、その頃に始まったのだろう。
・ 能力主義に反対する人は、プロスポーツの選手の起用も能力主義的に行なわないのが正しい、と考えるだろうか。
・ 人材登用が能力主義でなくなっても、人材登用が能力主義だった時代にエリートが分担していた役割(役職)は無くならない。
・ 人材において希少な資質を持つ人が重要である事は、物質資源において希少なレアアースが重要である事を見れば分かる。
・ 能力主義を否定する言説は、長年に渡って発覚しなかった大学入試の大規模な不正が発覚したのと同じぐらいの時期に始まった。
(100) 仕事をなめとるんか、
・ 私が卒業した東京理科大学はアメリカ的な実力主義の校風だと言われていた。この言い方は日本国内が実力主義ではない証拠。
・ 私は平均的な人と自分の出した結果の間に雲泥の差が生じる事を目指して頑張って来た。格差がいけないなんて、正反対だ。
・ 個人が社会に組み込まれ過ぎるというのはチャップリンのモダン・タイムスという映画で指摘されており、その頃に始まったのだろう。
・ 能力主義に反対する人は、プロスポーツの選手の起用も能力主義的に行なわないのが正しい、と考えるだろうか。
・ 人材登用が能力主義でなくなっても、人材登用が能力主義だった時代にエリートが分担していた役割(役職)は無くならない。
・ 人材において希少な資質を持つ人が重要である事は、物質資源において希少なレアアースが重要である事を見れば分かる。
・ 能力主義を否定する言説は、長年に渡って発覚しなかった大学入試の大規模な不正が発覚したのと同じぐらいの時期に始まった。

(1)
能力主義って何の事を言ってるのか、という問題も有る。
学歴主義を能力主義という言葉で表す場合が有るようだけど、そういう意味での能力主義は無制限に正しいわけではないのは当然である。
しかし、学歴主義の正しくない部分を正しくないとする理由として正当なのは、本当の意味での能力主義に反するから、という理由だけだろう。
能力主義に反対する意見が複数の論者から発せられ始めた。
最初わたしはこういう意見をハーバード大学教授のマイケル・サンデルさんが言うのをテレビで視聴した。
しかし、マイケル・サンデルさんだけでなく他の人も同じ事を言っていると成ると、これは1つの動きだと見なければいけないだろう。
私が言いたいのは、まず「能力主義」という言葉の意味を曖昧にしたまま論じるな、という事です。
1つまたは幾つかの特殊な能力主義の欠点を挙げて、それを根拠に能力主義一般や他の特殊な能力主義を否定する、というタイプの詭弁を注意深く排除する必要がある。

---

(2)
何を素晴らしいと考え何をくだらないと考えるかは各人の自由に属する事であり、能力主義という言葉も何らかの価値観を表す言葉として使われ得るから、特定の価値観が公的に押し付けられる事はあってはいけない、という意味では、私も能力主義には反対です。
各人が能力が高い事を素晴らしいと思うかくだらないと思うかを変えようとする働きかけとしては勧誘程度の介入しか許されないはずですよね、というのが私の認識です。
しかし、各人が自分の価値観に基づいて自由に選択する権利を平等に持っており、この権利はその平等さに反しない限り無制限である(他人の同権利と両立しない事だけが譲歩義務の正当理由であり譲歩義務も平等である)、という正義観と等価である内容も、能力主義という言葉で表され得る。
自由な選択の結果というのは、ほとんど能力に比例するからです。
こちらには私は強固に賛成している。
分かり易く言うと、自営業の人がどれだけ高い競争力を持つ商品を作って広く知らせるかは、その人の能力と意欲で決まる。
したがって、経済の方式が自由市場方式である限りは、そういう生産者が受ける名誉や金銭的収入は、その人の能力と意欲で決まる。
故に、能力主義がいけないという意見は、どういう意味で言ってるのか分からないけど、これによって反駁されたと考えられる内容の意見であるか、または、だから自由市場方式がいけないと言ってるんだよ、という内容の意見であるか、どちらかだと思われる。
しかし、自由市場方式でないという事は、俺の方が競争力の高い商品を供給できるんだという自信を持っている人に、「ダメだ、お前は作るな売るな」と要求したり、そういう人が供給する商品は欲しくても買うなと消費者に要求したりする、という事です。
まあ、確かにそうするのが正しいという意見も有って、それは社会主義経済と呼ばれているのではなかったですか。
私は、これには大反対なんですよ。

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(3)
常識を疑う、という点では、能力主義を疑うという疑い方はまだ疑い方が不徹底だ、と私は感じる。
私が前々から思ってる事は、各人が人生において経験する事は全て社会との授受だけでなければいけない、という間違った考えが日を追うごとにますます支配的に成って来ている、という点です。
分かりやすい例を出すと、日本でも高度成長期の途中のいつ頃かには、余暇の増大という事がもてはやされました。
私の住所の近所に華鳥美術館というのがあって、その館内に創設者の言葉が掲げられているのを見た事があるのですが、そこには、そういう思想(余暇は豊かさであるみたいな思想)が書かれていました。
もし仮に人生の中心は余暇であるとすると、社会が能力主義であろうとなかろうと、人生の出来高は各人の能力に比例します。
余暇においてどれだけの事が出来るかはその人の能力で決まるからです。
私が言いたいのは、社会が能力主義であるか否かよりも、個人が社会に組み込まれ過ぎている事の方が本質的な問題だ、という事です。
そして、個人が社会から独立していれば各人の人生はその人の能力相応に成るのだから、個人を社会に組み込み尽くしてその余地を与えないのは、人生が能力相応に成る事自体をメノカタキにする人がやっている事。
そういう批判を受けるので、いや、そんな事はないんですよ、という風に弁解する形で、社会を能力主義にしてある、というこういう構図で私は考えています。
当初の出発点において、社会が能力主義であるのは、社会が個人からその個人を奪い尽くすには、能力主義にしなければ言い訳が立たない、という理由でのことだと私は思う。
こうして出発した能力主義が、それから長い年月が経って誰もその事を答えられなくなった頃(=個人が社会に組み込まれ尽くしている状態は当然の大前提であってそもそもそこがおかしいんだとは誰も思い出せなく成った頃)に、社会が能力主義っておかしいと思いませんか、って言い出す、これも敵がやりそうな事なんですよ。
つまり、個人を社会に組み込み尽くす事と、社会を能力主義ではなくする事、これら2つによって能力の劣った人が能力の優れた人の持って生まれた生命の輝きを、その人が人生において享受する権利を自然権的に持っている自分の先天的な資質を、潰してしまう、という目論見がまず存在して、しかし、それら2つを一挙に同時に実行したのでは言い訳が立たないので、まず片方を、そして十分に時間が経ってみんなが忘れて何がどうだとは説明できなくなった頃に残りの片方を出して来る、こういう事なんじゃないのか。
「クソ」という言葉を私がどうして使うのか、どういう意味やニュアンスで使っているのか、分からない人や故意に曲解しさせるする人には、この例が役に立ちそうだ。
もし本当に、こういう考えでこういう事をしている人が居るなら、そういう考えや行いや人は「クソ」である、と言われるのが正しい、と思いませんか。
また私は、能力が低いから「クソ」と言ってるのではない、そういう事をするから「クソ」と言っいる、これも違った風に曲解させようと敵がしていませんか。
竹端寛さんの事なんかも私はものすごく疑っているけど、でも、この人がそうと決まったわけじゃあない。

チャップリンは1952年に米国から国外追放されました。
反戦・平和主義の姿勢が共産主義とみなされた事が理由だとインターネット検索の結果には書かれていた。
モダン・タイムスでチャップリンが言いたかった事が共産主義とみなされた、という事はないのだろうか。
モダン・タイムスで描かれている様な職場は、実質上は共産主義の人民公社だから、誰もがそういう職場で働くしかなくするのを資本主義化だと言う事は、大変な欺瞞だ、と言うのが私の言いたい事です。

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(4)
当たり前を疑う事には私は大賛成です。
能力主義も子供の自殺の増加の原因の1つではないか、という意味の事が書かれている。
しかし私は、能力主義に反対する人が能力主義に賛成する人を自殺させているんじゃないかと疑っている。
子供のイジメ自殺なんか見れば、むしろ優秀な子が狙われてるでしょ。
また、本件を執筆開始したのは2026年04月22日頃ですが、この行を加筆している2026年04月25日には屋外からの嫌がらせ騒音が高まっており、それは多分2026年04月23日頃の初回FTPを境に高まっているのではないか、と私は思っています。
これが子供の学校でのイジメの大人版なんですよ、集団ストーカーって言うんですけどね。
ハッキリと、私がここに書いている様な意見を不都合とする種類の人間が、そういう事をする、その反対ではない、というのが本当のところなんです。
竹端寛さんのところにそんな圧力は来ますか?来ないでしょう。
それは、世の中の自殺原因に成っている害が、竹端寛さんが思っているのとは正反対の事だからです。
能力主義が自明のルールとして社会を覆っている、というのは本当か。
それは、あくまで表向きの公式のルールなんであって、談合などの事件を見れば分かる様に実態は違うと思うんだけど。
能力主義は条件付きでしか人間の存在を認めない考えだ、という意味の事が書かれている。
どんな人も、自分がどういう人であるかを否定される事は、自分という人間の存在自体を否定される事であり、人権侵害に達しているかもしれないぐらい深刻な不当被害である、という意味の発言を私は過去に何度もした事が有ります。
多分、自分以外に誰も居ない部屋の中で独り言として言ったのだったと思う。
ウェブ・ページに書いたりYouTube動画でしゃべったりは、していないと思う。
この私の発言の説得力が非常に邪魔だと考えた敵が、逆さまな事を言う言論工作の一環として、能力主義は能力の低い人の人間としての存在を否定する、という言説を流布しにかかっているのではないか、と私は疑い始めた。
普通なら私が忘れているだろうと思われるようなタイミングで出て来た、しかも反対の意味で出て来た、というのは敵のやりそうな事なんですよ。
能力の低い人が人間として存在している事を認めない、能力が低いからという理由で存在しているとは認めない、というのは大変な事だと思うので、これはどの具体的な事例がそうなのか確認してからでないと、それに基づいて考える気が私はしません。
自殺の件が反対じゃないかと思ったので、これも違うんじゃないかと疑います。
能力が低いから存在する権利は無いんだ、というのは、2016年07月26日のやまゆり園の殺傷事件の犯人の言い分にそういう物が含まれていましたが、これは自明の善悪判断として社会を覆っているものではなく、社会常識では甚だしく間違った異端の考えだとされているはずです。
私も、そういう考えには断固反対です。
また、この殺傷事件の犯人も、本当にそう思って言ってるのではなくて、何か別の事が気に入らなくて、それを転嫁した形で思ってもいない事を言っているかもしれない。
犯人よりも被害者の方が大切にされている事が気に入らないのが本当の動機なら、これは全面的に犯人が悪い。
犯行前に被害者から不当な攻撃をされていたという事がもしあって、それが気に入らなかったのなら、そうとも言えない。
能力の低い人には価値が無いといった言葉は、私も似た(似ているけれど違う)ような事を言うけれど、憲法で保障されている様な生きる権利までないという意味で言ってるものではないと思うよ。
自分がどういう人であるかの中には、自分の能力は高いのか低いのかも含まれる。
これを否定しない事と能力主義は完全には一致しない。
能力主義は能力についての事実の認定だけでなく人材登用も含むからです。
しかし、能力についての事実を否定しないけれど人材登用を能力相応にはしない、という事は、実際問題としてなかなか公言され難いものです。
実際には、能力についての事実を否定しないけれど人材登用を能力相応にはしないのが社会の当たり前に成っても、人材登用を能力相応にやってますとウソはつかないまでも、それについては誰も何も言わなくなる、といった辺りがおちです。
これは、能力が高い人の能力を低いんだと書いた紙をガスライティング的に常時公衆の面前に貼り出している様な社会に成るだろう。
あなたの能力が低いなんて言ってませんよ、能力主義ではない制度を社会が採用しているのであなたが難しい仕事に登用されなかっただけで、あなたの能力が高い事を私は良く知っています、と言われても、それは「馬鹿だなあ、お前は、お世辞で言われた事も分からないのか」という揶揄とセットで存在しているかもしれない。
これは、能力の高い人の権利が不当に制限されている状態だろう。
それが嫌なら自分の力で証明してみせる、という選択肢を誰もが持っているのが当然であり、この選択肢を取り上げてしまって禁止するというのは、自分という人間の存在自体を否定される事の一形態だと思うのです。
能力が高い事は自分で証明しない限り出来るだけ否定されるんだ、という現実の傾向(正しい場合も間違っている場合も有るだろうけど)と、各人にとってそれはとても嫌な事なんだ、という事を忘れてはいけない。

自分がどういう人であるかを否定されない事は当然の権利の中でもかなり優先度が高い権利である事示す例として、冤罪は著しく不当だから、それを甘んじて受ける義務は誰にも無い、という常識が挙げられる。
これは、自分がどういう人であるかを否定されない権利の必要条件に過ぎないので、自分がどういう人であるかを否定されない権利一般の正当性を証明する物ではないが、自分がどういう人であるかを否定される事がどんなに大きな損害なのかを想起させるだろう。
冤罪において、お前が犯人でないと皆がやる気を無くすとか傷付くとか社会秩序が崩壊するとか、そんな事は全く理由に成らない事が分かり易い。

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(5)
NHKスペシャル2025巻頭言を見て。

ここにもマイケル・サンデル先生が出て持論を言っていた。

エリートやエリートの仕事に比して自分たちや自分たちの仕事が見下されていて尊重されていないと労働者が感じている事が社会の分断だったかの原因だ、という意見だった。

これなら絶対に正しい、とまでは思わないが、実力主義がいけないんだという意見よりはずっと正しいと思う。

けれど、それでは、労働者の仕事が馬鹿にされている状況を変えるべきだと言えるのか、については、私は、変えるべきだとは言えないと思う。

まず、馬鹿にするしないというのは心の中の問題であるから、社会政策の対象としてはいけない、という事です。
人が心の中で何をどう思うかが問題だからなんとかしろ、というのは、これは大変な危険思想だと思うよ私は。
それをハーバード大学の教授が言うというのは、驚きである。

労働条件や仕事内容が不当に悪いせいで、これでは他の人から馬鹿にされてしまうではないか、という事なら、それは是正の必要が有るが、その場合には、労働条件や仕事内容を是正するのであって、馬鹿にする気持ちを是正するわけではない。

馬鹿にする気持ちを直接是正するのではないから、労働条件や仕事内容を適当化しても、なおそれらを馬鹿にする人は居るかもしれない。
それは、どうしようもない事です。

また、エリートの仕事に比べて労働者の仕事を見下している点では、エリートと労働者の間に意見の相違は基本的に無い、だろう。
したがって、労働者の仕事が見下されている事が分断の原因であるという分析は正しいかもしれないが、それは見下す人の見下す考えが間違っているからではない、と私は考えている。

私のこれまでの人生には次の様な事があった。
大学卒業直前期に、同じ大学の学生らしい男性から、何だったか、私の進路選択について質問され私が、労働者に尽きる人には成らない、と答えると、質問した男性は私に、馬鹿にしてはいけないという意味で、馬鹿にしているのか、と言った。
それに対して私が、労働を馬鹿にしているのは労働者も同じである、私のやろうとしている事の方が一般の労働よりも素晴らしいと労働者も思っているから労働者はそれを許せないのだ、と言い返した。
すると私に質問した男性は私に向かって、お前こわくないのか、と言った。
私の言う通りである事を認めた、したがって、最初に言っていた馬鹿にしてはいけないという意見は間違っているという事です。

また、次の様な状況は今でも続いている。
私はこれまでに知的所有権が発生する様な事を考え出して発表しています。
その過程で直接会って話をした色々な友人が、私が過去に他の誰も言ってない新しい事を言ってるんだという事実をなんとか認めずに済まそうと必死な様子であった、その様子が、私より年上の男一般の気持ちへの配慮の必要から何が何でもである風だった。
まるで、最低限のルールぐらいは守れよ、と言わんばかりのニュアンスだった。
これが何回も有る。
つまり、私より年上の男、大抵は労働者です、そしてその人数は膨大です、これらの人が、自分たちのやって来た仕事やっている仕事よりも、過去に誰も言ってない事を他に先がけて自分が言う事の方が立派な事である、と考えている、という事です。

マイケル・サンデル先生、あなた学者なんだから、学説として御世辞を言っちゃあ駄目ですよ。

マイケル・サンデルさんは、これまでの人生がエリート・コース一辺倒だったために、エリートでない人との軋轢の経験が乏しく、そのせいでエリートでない人への善意の解釈を誇大に膨らませているのではないだろうか。
共産主義の話を聞いているとシンパという言葉が出て来るが、このシンパというのがそういう概念らしい。

私は自分の宇田経済学で、機械化によって製品の値段が下がるというのは不当ではないか、という問題を考えています。
これは、技術の進歩によって労働の値段がどんどん低下して来た事を不当だとする結論につながるかもしれない。
したがって私も、労働の報酬についてはホントはもっと高いんじゃないのか、逆に正味の仕事をしてないのに所得と社会的地位ばかりが高いエリートも多いんじゃあないのか、と疑っています。
それでも、私が発表して来たような新しい考えの方が労働よりも立派である、自分よりも宇田雄一の方が立派な行ないをするなんて許せないと労働者も考えている、という点は変わらないんですよ。
これは、勝った負けたの話であって、そこに礼儀への違反とか権利の侵害という要素は含まれていないんですよ。

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(6) 多動物描像。
異種と比較した場合よりもヒト同士を比べた場合の方が、差異がずっと小さい。
宇宙人やクマとかイヌの目には、人間には個人差が全く無いと見える、全部同じに見えるかもしれないぐらいだ。
やつらは、「ちくしょう、見分けがつかねえ」と言ってるかもしれない。
そんな小さな差異だけれども、違うものを同じだと言われない事は自明の権利であり、違うものを同じだと言わない事は自明の義務だろう。
その事は、冤罪という物が如何に不条理であるかを思い出せば明白です。
もともと差異が小さい為に色々な事を誤解してしまうのを防ぐ為に、多動物描像という物を私はここで提案します。
これは、人間社会を異なる種の動物が共存している状態だとみなす思考技法です。
これは、ある人はクマだけど、ある人はイヌで、別のある人は鳥だとすると、どうなるか、という問題設定です。
これでどうなるか考えて色々な事を発見して行きたいわけだけど、まず最初に、結果の平等ってあるわけないだろ、結果の平等は耐える事が不可能な不条理である、という事が明白に分かると思う。
結果の平等=「そんな、無体な」。
差別してはいけない、という思想には私も賛成ですが、差別してはいけないとはどういう事なのかについては、この多動物描像を使って考えると、既存の考え方の中に含まれる色々な間違いを発見する事が出来るでしょう。
全ての個体の全人生を社会に組み込み尽くして、お前はクマなんだからクマの役をこなせ、お前はイヌなんだからイヌの役をやってもらう、という風にすると、それが如何に能力主義に叶っていても、これは一種の差別だろう。


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(100)
2026年04月29日に私は部屋の片付け中に、日本物理学会誌2021年12月号809ページに「CERNでの実験に大学院生が単独出張滞在できるようになるまで」というタイトルの記事が有るのを見て、本件を連想した。
タイトルのみ見て本文は読んでいないが、CERNでの実験に大学院生が単独出張滞在できるようになるって、誰でもは出来る様に成らないんだろうなあ、と思う。
大学院の教育の成果という意味で書かれているんだろうけど、その教育を受ける人自体がある程度しっかりしていないと無理なんだろうと思う。
物理学以外の分野を専門とする人や学問以外の世界の人から見れば、私も同じ世界の人に見えるかもしれないが、細かく言うと私の知らない世界の話です。
だから、良くはわからないんだけど、まあ、大学院の教育もさることながら、その大学院生も選りすぐりの人なんだろうなあ、と思う。
能力主義で選抜しなければ必要な部署に必要な人が配属されない事に成るのは日を見るよりも明らかだ。
それが狙いなのか、と言いたくなるよ。
これは、「仕事をなめとるんか」の説明になるのかなあ。

相撲は、昔は身長が幾ら以上でないと入門できない、とされていて、その事が話題に成っていた時期が有った。
今ではその制限は撤廃されているのだろうか。

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必需品生産労働者の納得という観点。
必需品生産労働者の納得、というのは、例えば芸能などの業種を考えるとき、そもそもの出発点は、必需品生産労働者が、いわゆる自分達が汗水たらして稼いだおカネを払ってまでそれを買う事に納得するだけのレベルに達しているか否か、という観点だった事だろう。
これは、事前に予想するなら、そこまで素晴らしい物を作るのは無理だろう、と思われる様な事ではないですか。
よほどの物でなければ、大変な苦労をして稼いだおカネを払ってまで買おうとは思わない。
これは、そういう業種の生産者に厳しい能力主義を課す事と等価です。
公共事業の競争入札というのは、そういう考えに基づいているだろう。
納税者の権利を尊重する事と、受注業者を能力主義的に評価する事は同じですよね。
ついでの話ですが、テレビ朝日で放送されていた「朝まで生テレビ」という討論番組で大木隆生という医者が、医業は公務員ではなく民間がやるのが正しいと説いていた事(2021年01月30日放送分開始から約45分経過した頃)について私は、そう言うんなら医業も公金獲得部分は競争入札にすべきだ、と言いたい。
大木隆生さんは、大学医学部の教育費は税金でまかなわれていないので土木建築業と同じだ、という意味の事を言っていた。
なら、土木建築業は競争入札なんだから、医業も競争入札って事に成るわな。
あ、そうだ、思い出した、医局の支配が無くなった何かで都市部で医師が過多に成り地方では不足する様に成ったという医師偏在の問題も、競争入札で一発解決じゃん。
公共事業、競争入札というのは、そういう事の為に有るんでしょ。
無理だろうと思っていたら他の人がやってのけたのを見て、俺にもやらせろよ、というのは、そういう出発点になる考え方を忘れている態度だと思う。
なあんだ出来るんだったら俺もやるよ、という考えの是非は、あくまで所定のレベルの生産を達成できるか否かで決まる事であり、平等の観点から権利として他の人がやってる仕事は俺にもやる権利があるんだ、という事には成らない。
だから、元々は、芸能の仕事というのは、見るまでは大抵の人がそんな人が居るわけがないと思っていたぐらいの絶世の美女とか天才と呼ばれるぐらいに演奏が上手い音楽演奏家以外には勤まらない、というのが元々の相場だったはずなんだよ。
現実は違ったかもしれないけど、考え方としてはそうでしょう。
でね、この話の続きなんだけど、必需品生産労働者が自分達が労して稼いだおカネを払ってまでそれを買う事に納得する、という基準で必需でない製品の価格と品質の妥当性を計る、という本来的な路線は、かなり早い時期に挫折したのではないか。
私の父ウダオサムがよく使う言葉に「やっちもにゃー」というのが有ります。
これは、ウダオサムが属している(た)文化圏の方言で、くだらないとか、つまらないという意味です。
私がまだ幼かった頃、ウダオサムは戦車のプラモデルを買って完成させて操縦していた事が有ります。
ウダオサムは、それを上手く組み立てられないなどの失敗をしたわけでもないのに、その後そういうプラモデルを1つも買いませんでした。
ウダオサムがそのプラモデルで遊ぶのを私が見たのは、記憶している限りでは、1日だけです。
「やっちもにゃー」と思ったのではないか。
そう言っていた事も有ったかもしれない。
私が質問するとウダオサムがそういう意味の答えをした事は間違い無く有る。
必需品生産労働者を納得させる事が出来ないので、その代わりに主流となった路線が多分、必需品生産労働者の子供に売る、という形だと思う。
必需品生産労働者が、子供に買い与えるという形で納得する、という事です。
私は小学生時代の前半は毎月千円か2千円のお小遣いをもらうと直ぐ、その全額をプラモデル購入に費やして、それで何年間も満足でした。
必需品生産労働者が、子供に買い与えるという形で納得する、という方式は、ああ、よかったわあ、これでなんとかつながったわあ、という風に、かなり長い間通用して来たが、必需品生産労働者が製品に納得するという本来の原理から逸脱しているために、次の様な問題が長い年月をかけて醸成されてしまった。
それは、必需でない製品を買い与えられた子供が、買い与えられた製品と代金の釣り合いを誤って習得してしまう事です。
必需品生産労働者は、その値段でその製品は売れない、という感覚なんだけど、買い与えられた子供は「売れる」と感じる様に成る。
子供は実際よりも売れ易いと錯覚するわけです。
それで、自分も作って売ろう、という考えになるんじゃないか。
子供はお小遣いを労せずしてもらうので、買い渋る心理が本来値よりも小さく成る。
この事が、古い世代の人よりも若い世代の人になればなるほど、エリート的な役職に、どうして俺じゃ駄目なんだ、という不満を持つ原因なのではないか。
これは私の仮説に過ぎませんが、マイケル・サンデルさんや、竹端寛さんの論考と比較して、どうでしょう。
マイケル・サンデルさんや竹端寛さんの論考には、大切な何かが欠けている、と感じさせませんか。
専門家の人には、もっとしっかり考えて欲しい。
話を続けます。
もっと実情に即して考えるならば、もう随分前から、消費を控えれば控えた分だけ働かなければいけない量が減るなんて事は無い社会に成っている。
これを私は「何でも常時定額制」と呼びたい。
だから、労して稼いだおカネでも、ある程度までは無駄使いしてもしなくても何も変わらない。
これを買わなければアレが買えたのに、という計算ならあるだろうけど。
この「何でも常時定額制」が、おカネというものの意味を変えてしまっている。
どんな仕事でも誰にでもやらせればよい、という変な考えが出て来る背景には、この事が有るだろう。
この事は、外国人に仕事をさせる、という形で、外国人に付けが回っているのだろうと私は見ている。

必需品生産労働者の納得、というのは、例えば芸能などの業種を考えるとき、そもそもの出発点は、必需品生産労働者が、いわゆる自分達が汗水たらして稼いだおカネを払ってまでそれを買う事に納得するだけのレベルに達しているか否か、という観点だった事だろう。
これは、事前に予想するなら、そこまで素晴らしい物を作るのは無理だろう、と思われる様な事ではないですか。
よほどの物でなければ、大変な苦労をして稼いだおカネを払ってまで買おうとは思わない。
これは、そういう業種の生産者に厳しい能力主義を課す事と等価です。
公共事業の競争入札というのは、そういう考えに基づいているだろう。
納税者の権利を尊重する事と、受注業者を能力主義的に評価する事は同じですよね。
無理だろうと思っていたら他の人がやってのけたのを見て、俺にもやらせろよ、というのは、そういう出発点になる考え方を忘れている態度だと思う。
なあんだ出来るんだったら俺もやるよ、という考えの是非は、あくまで所定のレベルの生産を達成できるか否かで決まる事であり、平等の観点から権利として他の人がやってる仕事は俺にもやる権利があるんだ、という事には成らない。
だから、元々は、芸能の仕事というのは、見るまでは大抵の人がそんな人が居るわけがないと思っていたぐらいの絶世の美女とか天才と呼ばれるぐらいに演奏が上手い音楽演奏家以外には勤まらない、というのが元々の相場だったはずなんだよ。
現実は違ったかもしれないけど、考え方としてはそうでしょう。
ついでの話ですが、私の宇田経済学では、必需であるか否かではなく、下働きであるか否かが本質的だ、と考えます。
これは、まだ、宇田経済学のページには書いていません。

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差別の定義というものを考えるとき、差別をするなと言われれば、確かに論理的には、完全にランダムに抽選方式で人選を行なう、という事も考えられ、実際に近年ではアファーマティヴ・アクションと呼ばれる人選方式も試されるように成ったが、従来は、能力主義の否定と差別は実質上同義であったはずだ。
つまり、定義とまでは言わないが、差別という言葉を説明するには、例として、能力は有るのに人種がどうだから採用されない、などの事だ、という風に説明して来たはずだ。
能力(容姿とか声の特徴まで含める)という言葉を使わずに、差別という言葉をどうやって説明するんだろうか、という疑問を私は持つ。
能力主義を否定する、というのは、そのぐらい当たり前の正義を否定する事であるが故に、ほとんど語義矛盾に近い論理的な行き詰まりを迎えるだろうと思うと同時に、差別主義者が差別主義を実現したり維持したりするために、上手い事を言って人を騙しにかかっている言説なのではないか、と用心してかかる必要がある。

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差別とは別に、親の金銭的な豊かさによって子の立身出世が決まる、という種類の不公平の問題が有ります。
従来は、能力主義よりもそちらの方が悪い、とされて来たはずなんだけど。
例えば、買位買官という言葉が有ります、
インターネットで調べてみると、日本の平安時代以降頻繁に行なわれた制度で、金銭や財産を任料として朝廷や政府に納める見返りとして位階(位)や官職(官)を授与する制度だ、という意味の事がスマホに表示されました。
これを見ると、特に悪徳を表す言葉というわけではない様ですが、現行の日本の制度では贈収賄と呼ばれる犯罪に当たるだろうし、昔の日本の買位買官制度についても、欠点として「汚職の温床:能力や家柄よりも金銭が重視されるため、後の時代には政治の腐敗につながった」とスマホに表示されました。
能力主義への批判というのは、やっぱり差別で行きましょうよ、とか、買位買官でも良いじゃないですか、という事を、あからさまに言えない人が遠回しに言ってるのかなあ、いやそうに決まってる、といった感想も持つんですよ。




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2026年05月01日の、掲載位置移動直前の内容は、以下でした。
能力主義に反対する意見が複数の論者から発せられ始めた。
最初わたしはこういう意見をハーバード大学教授のマイケル・サンデルさんが言うのをテレビで視聴した。
しかし、マイケル・サンデルさんだけでなく他の人も同じ事を言っていると成ると、これは1つの動きだと見なければいけないだろう。
私が言いたいのは、まず「能力主義」という言葉の意味を曖昧にしたまま論じるな、という事です。
1つまたは幾つかの特殊な能力主義の欠点を挙げて、それを根拠に能力主義一般や他の特殊な能力主義を否定する、というタイプの詭弁を注意深く排除する必要がある。
何を素晴らしいと考え何をくだらないと考えるかは各人の自由に属する事であり、能力主義という言葉も何らかの価値観を表す言葉として使われ得るから、特定の価値観が公的に押し付けられる事はあってはいけない、という意味では、私も能力主義には反対です。
各人が能力が高い事を素晴らしいと思うかくだらないと思うかを変えようとする働きかけとしては勧誘程度の介入しか許されないはずですよね、というのが私の認識です。
しかし、各人が自分の価値観に基づいて自由に選択する権利を平等に持っており、この権利はその平等さに反しない限り無制限である(他人の同権利と両立しない事だけが譲歩義務の正当理由であり譲歩義務も平等である)、という正義観と等価である内容も、能力主義という言葉で表され得る。
自由な選択の結果というのは、ほとんど能力に比例するからです。
こちらには私は強固に賛成している。
分かり易く言うと、自営業の人がどれだけ高い競争力を持つ商品を作って広く知らせるかは、その人の能力と意欲で決まる。
したがって、経済の方式が自由市場方式である限りは、そういう生産者が受ける名誉や金銭的収入は、その人の能力と意欲で決まる。
故に、能力主義がいけないという意見は、どういう意味で言ってるのか分からないけど、これによって反駁されたと考えられる内容の意見であるか、または、だから自由市場方式がいけないと言ってるんだよ、という内容の意見であるか、どちらかだと思われる。
しかし、自由市場方式でないという事は、俺の方が競争力の高い商品を供給できるんだという自信を持っている人に、「ダメだ、お前は作るな売るな」と要求したり、そういう人が供給する商品は欲しくても買うなと消費者に要求したりする、という事です。
まあ、確かにそうするのが正しいという意見も有って、それは社会主義経済と呼ばれているのではなかったですか。
私は、これには大反対なんですよ。

多分以下の動画のコメント欄にだったと思うが、私は、能力主義は自明の正義である、という私の意見を含むコメントを投稿した事がある。
2026_0420_1033にメモした竹端寛(たけばた・ひろし)さんの意見の中に「・・・とする能力主義が、自明のルールとして社会を覆っている」という部分があるのは、その事を受けての事ではないか、と私は疑っている。
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種類=YouTube動画
チャンネル名=ANNnewsCH
動画のタイトル=マイケル・サンデル教授インタビュー完全版「エリートは謙虚になるべき」「分断は能力主義によって起きている」【報ステ×未来を人から 完全版】【未来をここから】【Michael Sandel】
2026_0420_1033にメモした。
竹端寛(たけばた・ひろし)さんによる能力主義批判。
「能力や努力に応じて地位や報酬を配分すべきだ」とする能力主義は、条件付きでしか人間の存在を認めない考えであり、格差の正当化に使われ、自殺者を増加させている、という意味の事が書かれているようだ。


画像をクリックすると、拡大画像が表示されます。

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当たり前を疑う事には私は大賛成です。
能力主義も子供の自殺の増加の原因の1つではないか、という意味の事が書かれている。
しかし私は、能力主義に反対する人が能力主義に賛成する人を自殺させているんじゃないかと疑っている。
子供のイジメ自殺なんか見れば、むしろ優秀な子が狙われてるでしょ。
また、本件を執筆開始したのは2026年04月22日頃ですが、この行を加筆している2026年04月25日には屋外からの嫌がらせ騒音が高まっており、それは多分2026年04月23日頃の初回FTPを境に高まっているのではないか、と私は思っています。
これが子供の学校でのイジメの大人版なんですよ、集団ストーカーって言うんですけどね。
ハッキリと、私がここに書いている様な意見を不都合とする種類の人間が、そういう事をする、その反対ではない、というのが本当のところなんです。
竹端寛さんのところにそんな圧力は来ますか?来ないでしょう。
それは、世の中の自殺原因に成っている害が、竹端寛さんが思っているのとは正反対の事だからです。
能力主義が自明のルールとして社会を覆っている、というのは本当か。
それは、あくまで表向きの公式のルールなんであって、談合などの事件を見れば分かる様に実態は違うと思うんだけど。
能力主義は条件付きでしか人間の存在を認めない考えだ、という意味の事が書かれている。
どんな人も、自分がどういう人であるかを否定される事は、自分という人間の存在自体を否定される事であり、人権侵害に達しているかもしれないぐらい深刻な不当被害である、という意味の発言を私は過去に何度もした事が有ります。
多分、自分以外に誰も居ない部屋の中で独り言として言ったのだったと思う。
ウェブ・ページに書いたりYouTube動画でしゃべったりは、していないと思う。
この私の発言の説得力が非常に邪魔だと考えた敵が、逆さまな事を言う言論工作の一環として、能力主義は能力の低い人の人間としての存在を否定する、という言説を流布しにかかっているのではないか、と私は疑い始めた。
普通なら私が忘れているだろうと思われるようなタイミングで出て来た、しかも反対の意味で出て来た、というのは敵のやりそうな事なんですよ。
能力の低い人が人間として存在している事を認めない、能力が低いからという理由で存在しているとは認めない、というのは大変な事だと思うので、これはどの具体的な事例がそうなのか確認してからでないと、それに基づいて考える気が私はしません。
自殺の件が反対じゃないかと思ったので、これも違うんじゃないかと疑います。
能力が低いから存在する権利は無いんだ、というのは、2016年07月26日のやまゆり園の殺傷事件の犯人の言い分にそういう物が含まれていましたが、これは自明の善悪判断として社会を覆っているものではなく、社会常識では甚だしく間違った異端の考えだとされているはずです。
私も、そういう考えには断固反対です。
また、この殺傷事件の犯人も、本当にそう思って言ってるのではなくて、何か別の事が気に入らなくて、それを転嫁した形で思ってもいない事を言っているかもしれない。
犯人よりも被害者の方が大切にされている事が気に入らないのが本当の動機なら、これは全面的に犯人が悪い。
犯行前に被害者から不当な攻撃をされていたという事がもしあって、それが気に入らなかったのなら、そうとも言えない。
能力の低い人には価値が無いといった言葉は、私も似た(似ているけれど違う)ような事を言うけれど、憲法で保障されている様な生きる権利までないという意味で言ってるものではないと思うよ。
自分がどういう人であるかの中には、自分の能力は高いのか低いのかも含まれる。
これを否定しない事と能力主義は完全には一致しない。
能力主義は能力についての事実の認定だけでなく人材登用も含むからです。
しかし、能力についての事実を否定しないけれど人材登用を能力相応にはしない、という事は、実際問題としてなかなか公言され難いものです。
実際には、能力についての事実を否定しないけれど人材登用を能力相応にはしないのが社会の当たり前に成っても、人材登用を能力相応にやってますとウソはつかないまでも、それについては誰も何も言わなくなる、といった辺りがおちです。
これは、能力が高い人の能力を低いんだと書いた紙をガスライティング的に常時公衆の面前に貼り出している様な社会に成るだろう。
あなたの能力が低いなんて言ってませんよ、能力主義ではない制度を社会が採用しているのであなたが難しい仕事に登用されなかっただけで、あなたの能力が高い事を私は良く知っています、と言われても、それは「馬鹿だなあ、お前は、お世辞で言われた事も分からないのか」という揶揄とセットで存在しているかもしれない。
これは、能力の高い人の権利が不当に制限されている状態だろう。
それが嫌なら自分の力で証明してみせる、という選択肢を誰もが持っているのが当然であり、この選択肢を取り上げてしまって禁止するというのは、自分という人間の存在自体を否定される事の一形態だと思うのです。
能力が高い事は自分で証明しない限り出来るだけ否定されるんだ、という現実の傾向(正しい場合も間違っている場合も有るだろうけど)と、各人にとってそれはとても嫌な事なんだ、という事を忘れてはいけない。
常識を疑う、という点では、能力主義を疑うという疑い方はまだ疑い方が不徹底だ、と私は感じる。
私が前々から思ってる事は、各人が人生において経験する事は全て社会との授受だけでなければいけない、という間違った考えが日を追うごとにますます支配的に成って来ている、という点です。
分かりやすい例を出すと、日本でも高度成長期の途中のいつ頃かには、余暇の増大という事がもてはやされました。
私の住所の近所に華鳥美術館というのがあって、その館内に創設者の言葉が掲げられているのを見た事があるのですが、そこには、そういう思想(余暇は豊かさであるみたいな思想)が書かれていました。
もし仮に人生の中心は余暇であるとすると、社会が能力主義であろうとなかろうと、人生の出来高は各人の能力に比例します。
余暇においてどれだけの事が出来るかはその人の能力で決まるからです。
私が言いたいのは、社会が能力主義であるか否かよりも、個人が社会に組み込まれ過ぎている事の方が本質的な問題だ、という事です。
そして、個人が社会から独立していれば各人の人生はその人の能力相応に成るのだから、個人を社会に組み込み尽くしてその余地を与えないのは、人生が能力相応に成る事自体をメノカタキにする人がやっている事。
そういう批判を受けるので、いや、そんな事はないんですよ、という風に弁解する形で、社会を能力主義にしてある、というこういう構図で私は考えています。
当初の出発点において、社会が能力主義であるのは、社会が個人からその個人を奪い尽くすには、能力主義にしなければ言い訳が立たない、という理由でのことだと私は思う。
こうして出発した能力主義が、それから長い年月が経って誰もその事を答えられなくなった頃(=個人が社会に組み込まれ尽くしている状態は当然の大前提であってそもそもそこがおかしいんだとは誰も思い出せなく成った頃)に、社会が能力主義っておかしいと思いませんか、って言い出す、これも敵がやりそうな事なんですよ。
つまり、個人を社会に組み込み尽くす事と、社会を能力主義ではなくする事、これら2つによって能力の劣った人が能力の優れた人の持って生まれた生命の輝きを、その人が人生において享受する権利を自然権的に持っている自分の先天的な資質を、潰してしまう、という目論見がまず存在して、しかし、それら2つを一挙に同時に実行したのでは言い訳が立たないので、まず片方を、そして十分に時間が経ってみんなが忘れて何がどうだとは説明できなくなった頃に残りの片方を出して来る、こういう事なんじゃないのか。
「クソ」という言葉を私がどうして使うのか、どういう意味やニュアンスで使っているのか、分からない人や故意に曲解しさせるする人には、この例が役に立ちそうだ。
もし本当に、こういう考えでこういう事をしている人が居るなら、そういう考えや行いや人は「クソ」である、と言われるのが正しい、と思いませんか。
また私は、能力が低いから「クソ」と言ってるのではない、そういう事をするから「クソ」と言っいる、これも違った風に曲解させようと敵がしていませんか。
竹端寛さんの事なんかも私はものすごく疑っているけど、でも、この人がそうと決まったわけじゃあない。

後で別のページに移動して、追加の文章を書きたいが、とりあえず、以下に追加の論点をメモしておきます。
・ 仕事をなめとるんか、
・ 必需品生産労働者の納得、競争入札
・ 私が卒業した東京理科大学はアメリカ的な実力主義の校風だと言われていた。この言い方は日本国内が実力主義ではない証拠。
・ 私は平均的な人と自分の出した結果の間に雲泥の差が生じる事を目指して頑張って来た。格差がいけないなんて、正反対だ。
・ 個人が社会に組み込まれ過ぎるというのはチャップリンのモダン・タイムスという映画で指摘されており、その頃に始まったのだろう。
・ 能力主義に反対する人は、プロスポーツの選手の起用も能力主義的に行なわないのが正しい、と考えるだろうか。
・ 人材登用が能力主義でなくなっても、人材登用が能力主義だった時代にエリートが分担していた役割(役職)は無くならない。
・ 人材において希少な資質を持つ人が重要である事は、物質資源において希少なレアアースが重要である事を見れば分かる。
・ 能力主義を否定する言説は、長年に渡って発覚しなかった大学入試の大規模な不正が発覚したのと同じぐらいの時期に始まった。

必需品生産労働者の納得、というのは、例えば芸能などの業種を考えるとき、そもそもの出発点は、必需品生産労働者が、いわゆる自分達が汗水たらして稼いだおカネを払ってまでそれを買う事に納得するだけのレベルに達しているか否か、という観点だった事だろう。
これは、事前に予想するなら、そこまで素晴らしい物を作るのは無理だろう、と思われる様な事ではないですか。
よほどの物でなければ、大変な苦労をして稼いだおカネを払ってまで買おうとは思わない。
これは、そういう業種の生産者に厳しい能力主義を課す事と等価です。
公共事業の競争入札というのは、そういう考えに基づいているだろう。
納税者の権利を尊重する事と、受注業者を能力主義的に評価する事は同じですよね。
無理だろうと思っていたら他の人がやってのけたのを見て、俺にもやらせろよ、というのは、そういう出発点になる考え方を忘れている態度だと思う。
なあんだ出来るんだったら俺もやるよ、という考えの是非は、あくまで所定のレベルの生産を達成できるか否かで決まる事であり、平等の観点から権利として他の人がやってる仕事は俺にもやる権利があるんだ、という事には成らない。
だから、元々は、芸能の仕事というのは、見るまでは大抵の人がそんな人が居るわけがないと思っていたぐらいの絶世の美女とか天才と呼ばれるぐらいに演奏が上手い音楽演奏家以外には勤まらない、というのが元々の相場だったはずなんだよ。
現実は違ったかもしれないけど、考え方としてはそうでしょう。
ついでの話ですが、私の宇田経済学では、必需であるか否かではなく、下働きであるか否かが本質的だ、と考えます。
これは、まだ、宇田経済学のページには書いていません。

自分がどういう人であるかを否定されない事は当然の権利の中でもかなり優先度が高い権利である事示す例として、冤罪は著しく不当だから、それを甘んじて受ける義務は誰にも無い、という常識が挙げられる。
これは、自分がどういう人であるかを否定されない権利の必要条件に過ぎないので、自分がどういう人であるかを否定されない権利一般の正当性を証明する物ではないが、自分がどういう人であるかを否定される事がどんなに大きな損害なのかを想起させるだろう。
冤罪において、お前が犯人でないと皆がやる気を無くすとか傷付くとか社会秩序が崩壊するとか、そんな事は全く理由に成らない事が分かり易い。

チャップリンは1952年に米国から国外追放されました。
反戦・平和主義の姿勢が共産主義とみなされた事が理由だとインターネット検索の結果には書かれていた。
モダン・タイムスでチャップリンが言いたかった事が共産主義とみなされた、という事はないのだろうか。
モダン・タイムスで描かれている様な職場は、実質上は共産主義の人民公社だから、誰もがそういう職場で働くしかなくするのを資本主義化だと言う事は、大変な欺瞞だ、と言うのが私の言いたい事です。

2026年04月29日に私は部屋の片付け中に、日本物理学会誌2021年12月号809ページに「CERNでの実験に大学院生が単独出張滞在できるようになるまで」というタイトルの記事が有るのを見て、本件を連想した。
タイトルのみ見て本文は読んでいないが、CERNでの実験に大学院生が単独出張滞在できるようになるって、誰でもは出来る様に成らないんだろうなあ、と思う。
大学院の教育の成果という意味で書かれているんだろうけど、その教育を受ける人自体がある程度しっかりしていないと無理なんだろうと思う。
物理学以外の分野を専門とする人や学問以外の世界の人から見れば、私も同じ世界の人に見えるかもしれないが、細かく言うと私の知らない世界の話です。
だから、良くはわからないんだけど、まあ、大学院の教育もさることながら、その大学院生も選りすぐりの人なんだろうなあ、と思う。
能力主義で選抜しなければ必要な部署に必要な人が配属されない事に成るのは日を見るよりも明らかだ。
それが狙いなのか、と言いたくなるよ。
これは、「仕事をなめとるんか」の説明になるのかなあ。

相撲は、昔は身長が幾ら以上でないと入門できない、とされていて、その事が話題に成っていた時期が有った。
今ではその制限は撤廃されているのだろうか。

以上の内容が、2026年05月01日までは「言葉とルールへの猛烈な破壊キャンペーンが仕掛けられている @現状の注意点@敵の手口を暴露」に掲載されてました。

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31日@2025年05月@日記に関連記事があったので、以下に再掲しておきます。
件名 2025 0102 2200
本文 NHKスペシャル2025巻頭言
を私は今見終わった。

ここにもマイケル・サンデル先生が出て持論を言っていた。

エリートやエリートの仕事に比して自分たちや自分たちの仕事が見下されていて尊重されていないと労働者が感じている事が社会の分断だったかの原因だ、という意見だった。

これなら絶対に正しい、とまでは思わないが、実力主義がいけないんだという意見よりはずっと正しいと思う。

けれど、それでは、労働者の仕事が馬鹿にされている状況を変えるべきだと言えるのか、については、私は、変えるべきだとは言えないと思う。

まず、馬鹿にするしないというのは心の中の問題であるから、社会政策の対象としてはいけない、という事です。
人が心の中で何をどう思うかが問題だからなんとかしろ、というのは、これは大変な危険思想だと思うよ私は。
それをハーバード大学の教授が言うというのは、驚きである。

労働条件や仕事内容が不当に悪いせいで、これでは他の人から馬鹿にされてしまうではないか、という事なら、それは是正の必要が有るが、その場合には、労働条件や仕事内容を是正するのであって、馬鹿にする気持ちを是正するわけではない。

馬鹿にする気持ちを直接是正するのではないから、労働条件や仕事内容を適当化しても、なおそれらを馬鹿にする人は居るかもしれない。
それは、どうしようもない事です。

また、エリートの仕事に比べて労働者の仕事を見下している点では、エリートと労働者の間に意見の相違は基本的に無い、だろう。
したがって、労働者の仕事が見下されている事が分断の原因であるという分析は正しいかもしれないが、それは見下す人の見下す考えが間違っているからではない、と私は考えている。

私のこれまでの人生には次の様な事があった。
大学卒業直前期に、同じ大学の学生らしい男性から、何だったか、私の進路選択について質問され私が、労働者に尽きる人には成らない、と答えると、質問した男性は私に、馬鹿にしてはいけないという意味で、馬鹿にしているのか、と言った。
それに対して私が、労働を馬鹿にしているのは労働者も同じである、私のやろうとしている事の方が一般の労働よりも素晴らしいと労働者も思っているから労働者はそれを許せないのだ、と言い返した。
すると私に質問した男性は私に向かって、お前こわくないのか、と言った。
私の言う通りである事を認めた、したがって、最初に言っていた馬鹿にしてはいけないという意見は間違っているという事です。

また、次の様な状況は今でも続いている。
私はこれまでに知的所有権が発生する様な事を考え出して発表しています。
その過程で直接会って話をした色々な友人が、私が過去に他の誰も言ってない新しい事を言ってるんだという事実をなんとか認めずに済まそうと必死な様子であった、その様子が、私より年上の男一般の気持ちへの配慮の必要から何が何でもである風だった。
まるで、最低限のルールぐらいは守れよ、と言わんばかりのニュアンスだった。
これが何回も有る。
つまり、私より年上の男、大抵は労働者です、そしてその人数は膨大です、これらの人が、自分たちのやって来た仕事やっている仕事よりも、過去に誰も言ってない事を他に先がけて自分が言う事の方が立派な事である、と考えている、という事です。

マイケル・サンデル先生、あなた学者なんだから、学説として御世辞を言っちゃあ駄目ですよ。

マイケル・サンデルさんは、これまでの人生がエリート・コース一辺倒だったために、エリートでない人との軋轢の経験が乏しく、そのせいでエリートでない人への善意の解釈を誇大に膨らませているのではないだろうか。
共産主義の話を聞いているとシンパという言葉が出て来るが、このシンパというのがそういう概念らしい。

私は自分の宇田経済学で、機械化によって製品の値段が下がるというのは不当ではないか、という問題を考えています。
これは、技術の進歩によって労働の値段がどんどん低下して来た事を不当だとする結論につながるかもしれない。
したがって私も、労働の報酬についてはホントはもっと高いんじゃないのか、逆に正味の仕事をしてないのに所得と社会的地位ばかりが高いエリートも多いんじゃあないのか、と疑っています。
それでも、私が発表して来たような新しい考えの方が労働よりも立派である、自分よりも宇田雄一の方が立派な行ないをするなんて許せないと労働者も考えている、という点は変わらないんですよ。
これは、勝った負けたの話であって、そこに礼儀への違反とか権利の侵害という要素は含まれていないんですよ。

 

2026_0525_0939にメモした。
財政社会学者の井手英策さんの論説。
生産はAIに任せ人は分配だけすればよい、というのは、中東の産油国のこれまでのやり方だと思う。
AIが仕事を奪うと言われる一方で、人手不足を外国人技能実習生に頼るのが実態である事は、どこかに大きなウソが有ると思う。
 


以下のページに私の意見が書かれています。
日本物理学会2013年春季大会@学会発表@活動報告@学問
書こうとしたけれど書き切れなかった、途中で考えの整理がつかなくなった、書きくさしで放置してある、といった状況です。
マイケル・サンデルさんや竹端寛さんが能力主義批判を発表しているのも、この文脈での事だと思います。
したがって、十数年前には既にこの話が始まっている。
私の目標達成の進捗状況に反応しての事だと私は疑っています。



最終編集2026年05月27日