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まず最初に攻撃本能を置き、全てをそれに従えて行く。
ぶちのめしてやる、とか、たたきのめしてやる、という感情を自分が抱く事を想像した時に自分の体が生理的に連想する運動というものに矛盾した攻撃には、どこか不合理なところがあるはずだ。
大雑把に言って、こう来たらこうする型の想定と準備を、否定する。
実際にやってみて無ければ困った事が無かったのに念のためにこうする、という決め方を否定する。
まず本能のおもむくままに攻撃してみる。
するとそのやり方の欠点が分かる。
そこで、その欠点を解消する既存技を探す。
あった。
それを使ってみる。
上手く行った、または、別の欠点が判明する。
その欠点を解消する既存技を探す。
あった、または無かった。
無かったら自分で考える。
それを使ってみる。
上手く行った、または、別の欠点が判明する。
こうして、戦術の細部を決めて行くべき。
その際に、最初に選んだ本能のおもむくままの具体的な攻撃を通す事を、その戦術の極め部分に持って来ること。
その戦術の細部は、その極め部分を目的とする手段としてしか意味を持たない、という認識で考える。
たとえば、ちくしょうぶんなぐってやる、という攻撃衝動に指導されるとすると、自由組手でまずそのやりかたで殴りかかってみる。
すると、たとえば、相手が後ずさりしたために、空振りしたとする。
そこで次にやるときには、まずフェイントで相手に後ずさりを始めさせて、その後で相手に走り寄ってから殴りかかってみる。
すると、相手が顔を手で覆ったので殴れなかった、とする。
次にやるときには、フェイントで後ずさりを始めさせて走り寄ってボディ打ちをし、相手が手で腹を押さえた瞬間に顔をぶんなぐる。
上手く行った。
これで戦術が一つ出来た。
こういう風に、組み立てて行くべき。
その手で何度かやってると、結構上手く行くんだけど、あるとき、最初のフェイントの瞬間に相手に先に打ち込まれてしまった。
そこで、既存技を調べてみると、殴る前に手を耳まで大きく引いて溜めを作る素人式の殴り方では、モーションが大き過ぎて、相手に先に打ち込まれる事が分かった。
そこで、殴り方も、ボクシングの教科書に書いてある殴り方に変えた。
といった風に、考えて行く。
ただし、ここまでの私のたとえ話は、経験に基づいていません。
そういう自分の経験に基づかないやり方で準備するな、というのが、私の主張です。
最初から、このやり方が正しいやり方です、というセオリーに従って、そう動こうとすると、口喧嘩で言いたい事を英語で言いなさい、みたいな状態に成り、要領を得ない。
セオリー通りにやらねば回復不能な怪我を負ってしまう場合は別だが、そうでなければ、必要に迫られるまではセオリーを無視した方が良い。
もっとも、やろうとしたことを、セオリーに一致しているからやめる、と考えるのも、セオリーに固執する事以上に間違っているが。
実戦の経験がほとんど無い私が偉そうに言うのも変だが、ここ数年、私は身の回りの雑用をやっていて、その事に気付いた。
実際上のノウハウというのは、やってみると数学の答えのように問題点が極めてはっきりとしていて、やるまえに絶対に気付くはずがないものであると感じることが多かった。
はっきりとした問題点の解決は難問というほどのものではなく、その小さな解決の積み重ねで全体としては極めて良く出来た感じのものになる。
小さな解決は能力次第でもっと良い解決もありえ、工夫の才能の発揮の余地もある。
色々な雑用の全部を手際よく片付けるための、自分をコンピュータに見立てた時のプログラムの様なものを開発したのだが、その際に、やる前に最後まで頭で考えて完成させその後で実行しよう、とすると上手く行かない事が分かった。
やる前に前もって「想定と準備」方式で考えると、必要な事を考えず、必要ない事ばかりを考える。
つまり、的外れってわけだ。
それで、武道についての過去の私の姿勢はそういう欠点を多分に含んでいたな、という風に思い、ここに書いた様な方法でやれば私なら間違いなく効く戦術を作れるだろう、という風に、まだやってもいないのに、確信したのだった。
かといって、戦闘を避ける事が出来るのに避けなかったり、自分から仕掛ける事は、してはいけないことなのでしない。
そこで、将棋盤を180度回転させながら自分対自分で将棋を指す、みたいな方法として、自分を正面から動画に撮ってそれを見てしたいように反応してそれをまた動画に撮る、という事の繰り返しによって、上記のアルゴリズムを疑似的に再現する方法をしてみたい。