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2025年06月30日(月曜日)
1993年か1994年に千葉の下宿の自室で独り言の内容

このページは2025年07月30日に設置されました。

千葉県の新検見川駅の近くにあった長谷川荘という下宿の自室で宇田雄一が、独り言形式で自分のこれまでの人生や世の中の根本的な色々な事を広範に渡って、独自の意見を口述した。
盗聴を前提にしていただろう。
その内容への反発だと思われる事が、失われた30年と呼ばれる事に成った期間を通してずっと多岐に渡って執拗に見られ続けている。
思い出した物を以下に書き出す。

基本的に、自分の人生の進路選択、これから自分はどういう道を進んで行くつもりかを判断する前提と成る色々な事を、あれはああだし、これはこうだ、という風に述べ上げた物だったと思う。
1993年や1994年には私は大変な逆境にあったので、自分のメンタルをコントロールするなどの目的で、自分以外の人が如何に不幸で不名誉であるかを言葉を極めて扱き下ろし尽くした、という部分も有った。
面と向かって他人に言ったり発表したりするのではないから、この事に罪がない事は、例えば、舞台俳優が自分のメンタルをコントロールするために観客をカボチャだと思う事に罪が無いと言われるのを見ても分かる。


分類
成功哲学 自分は能力も優秀だし性質も善良なので、相応の結果が得られるだろう。
「自分はもう世界で上位1%以内には入っているだろう」
これは、金銭的な豊かさがという意味ではなく、宇田雄一が持っている価値観で測ってプラスの業績で人類の歴史に為す所が有る有望さの程度がという意味です。
後に、1%のエリートが陰謀を行っているという決まり文句が陰謀論で使われたり、精神病院初診時に高田という医師から統合失調症に成る人は全人口の1%だと言われたり、金銭的な豊かさの不当な偏在の話で1%の富裕層が全体の富の大半を握っているという話が度々聞こえて来たり、大金持ちをセレブという言葉でもてはやしたり、といった事は、この時の宇田雄一の発言に由来するだろう。
保護者の金銭的な豊かさや相続財産の多さは、ゴルフの競技順位決定スコア算出におけるハンディキャップ値の様な物であり、不名誉因子である、というのが宇田雄一の価値観です。
成功哲学 「自分は格が違うんだ」
これも、宇田雄一が持っている価値観で測ってプラスの業績で人類の歴史に為す所が有る有望さの程度がという意味です。
「格差」という言葉がしつこくうるさく聞こえて来る様に成り、まだ続いている事は、宇田雄一のこの発言に由来するだろう。
犯罪や限度を超えた貧困などの負の問題は過去に既に出尽くして、それらへの免疫が既に完成しているので、今後は、特別に優れた人の特別に優れた行ないだけが関心事である。
負の問題に対処する職種の人は、在職期間中は全部訓練だけだった、という風に成る。
不幸が発生しないという意味での無事が続くのも、資源問題や環境問題の方面からの限界があり、それらの限界は突破が非常に困難であるが、しかし猶予期間も非常に長いので、気長に研究を続ければよい。
私の研究も、そっちに役立つ時が来るかもしれない。
社会的地位は追求に値しない。
私は業績を追求するのであって、社会的地位は追求しない。
また、仕事上の出世と男女関係は独立である。
以下は2025年に書いた補足説明で、1994年に言ったかどうか分かりませんが、1994年にも同じように考えていました。
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歴史の年表を見てごらんなさい。
誰がどの地位にあったかは誰が何をしたかよりも史実としては格下です。
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男のあなたにとって、この女と性交するのは嫌だなと思う女が、もし仕事で出世したら、その考えは変わりますか。
変わらないんだよ。
女が男を見る目も同じです。

29日@2024年01月@日記
自分は経済の法則には従わない人である。
1人には1つの人生しかない、1人に複数の人生はない。
こういう人生もああいう人生も歩んでくれ、と言われても、出来ない相談である。
経済学 小学生時代の自分の発言を否定する形で、2012年に書き始めた宇田経済学の主旨を否定する発言をした。
小学生時代に宇田雄一は、質問されて宇田経済学みたいな事を答えた。
そうではあるがその効果は無視できるぐらい小さいだろう、という意味の事を1993年か1994年に言った。
その後、2012年から改めて再考し、1993年か1994年に言った事は間違いだったと分かった。
カネの計算だけなら、故障修理経済でも、損害賠償経済でも、経済は回る。
病気治療経済は故障修理経済の一例です。
しかし、病人と病院を中心とする経済は間違っていて、健康な人の健康を活かした活動が経済の中心であるのが正しい事は当然である。
その事はカネの計算だけからでは示せない。
朝まで生テレビで小川純也さんが同じ事を言ってた。
後で探しときます。
テレビ番組などについて、コンテンツの視聴料だけで運営すべきであり、広告料収入で経営を成り立たせるのは本当は間違っている。
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1993年か1994年に私は確かに下宿の自室で独り言としてそういう意味の事を言ったが、間違いなくそうだと分かって言ったのではない。
直感的にそう思ったが、よく調べてみると広告料収入だって全然間違ってないという事が分かるかもしれない。
その後、スカイパーフェクトテレビにまとまる形で広告料収入を使わない衛星放送を設立する動きが始まったのは、私のこの発言が原因ではないかと思う。
電通などの広告代理店の存立にも影響を与えたかもしれない。
1994年当時の私は、広告代理店という業種が経済においていかに大きな存在かを全く知らなかった。
政治学 世の中に正義を通用させる手段は究極的には武力・暴力である。
以下は2025年以降に書いた補足説明です。
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正義を通用させる=犯罪をなくす最も望ましい方法は全ての人が犯罪の害を嫌う様にする事です。
罰を恐れるから犯罪しないというのは、罰の内容の如何に関わらず、最も望ましい方法とは言えない。
中でも武力や暴力で威嚇したり報復したりする事によって犯罪をなくすのは、望ましさの順位が下位である。
しかし、実際には、武力や暴力=心身の基本システムについて辛いとか苦しいとか痛い暑い熱い寒い冷たい空腹怖い、うるさい臭い、かゆいなどの嫌いな感覚・感情を我慢困難なレベルまで味わわせる事で威嚇したり報復したりする、という方法で妥協する所までレベルを下げないと目標を達成できない物である。
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しかし、1993年か1994年に千葉の自室で口述した時には、正義論・正義哲学の様な事を講釈したのではなく、病気には医者、雨風をしのぐには家屋、食べるには経済活動、といったような、生きて行く上での色々な問題に対して、あれにはあれ、これにはこれ、といった形で対処法を挙げていった文脈の中で、犯罪・不正には暴力や武力と言ったに過ぎません。
究極的にはどうのなんて難しい事を言ったのではなく、防犯を担当するのは誰ですかという問題に対して、暴力や武力ですと述べた形です。
自分の身に降りかかる犯罪や不正は、まず出来るだけ自分の暴力や武力で討ち払い、それを超えた物については警察などに討ち払ってもらう、という方針です。
これから学問で世界一の結果を出す単独登頂の旅に出発するに当たって、飛行機の離陸前にパイロットがチェック・リストを読み上げる事に喩えられる独り言でした。

21日@2024年05月@日記
犯罪の本丸は集団が協力し合って行なう犯罪であり、個人が行なう犯罪はそれに比べれば取るに足りないので、独立独歩の私の人生計画は防犯上の制約を受けにくく、その事は間違ってもいない=私は危険ではない。
私がこれからもやって行くのは理論物理学であるから、騒音を発する事もなく、したがって、その事で周囲から苦情が出て学問を続行できなくなる心配もない。
警察は向こう側(犯罪側)の人である。
この言葉が誤解されたり故意に曲解されたりしているから警察が犯罪に味方する様に成ったのではないか。
私が言う「向こう側(犯罪側)の人」とは、犯罪に味方するという意味ではない。
外から犯罪の害が入って来ない様に被害候補者を入れた容器ではなく、外に犯罪の害が出ない様に犯罪を入れた容器である、という構図です。
年齢倫理 子供は補助輪付きの自転車に乗り、大人は補助輪なしの自転車に乗る事を見れば分かる様に、経済活動なども大人は真剣勝負で行ない、子供は大人に成るまでにそう出来る様に準備する。
ホントの事でも他人を傷付ける事を言ってはいけないのが大人なのではなく、ホントの事なら何を言われても傷付かないのが大人である。
(これは宇田雄一が一貫して持っている大人韓であるが、千葉の自室で言ったかはハッキリしない)
ホントの事が自分にとって好都合である人と不都合である人の2種類が居る。
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「不都合な真実」という映画の登場は、私のこの発言への反応だろう。
何か私の発言を、曲解させようとしている感じがして嫌だった。
私が言ってる不都合な真実というのは、地球温暖化よりも除去不可能なものです。
地球温暖化は、真実とまでは言えない。
人間のある特徴が理由で、人間はどうあがいても地球温暖化を止めれないという法則がもしあれば、そのある特徴は真実と言えるだろうけど。





参考:
31日@2025年05月@日記


最終編集2025年09月02日