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2024年05月21日(火曜日)
どんな事があっても暴力は許されない、というのは本当か

このページは執筆中・未完成です。

いつまでも性懲りも無くうるさい発言が後を絶たないので、「どんな事が有っても暴力は許されない」という意見は間違っている、という私の意見を以下で説明します。
2024年05月26日放送分のNHK大河ドラマ「光る君へ」の中で、取り押さえられた登場人物が取り押さえられる直前に「うるさーい」と叫んだのは、当ページなどで私が行なっている発言への当て付け(誹謗中傷)だろう。

(1) 暴力であるか否かは罪の重さとは関係ない。
(2) どんな事が有っても、と言ってる人は、あらゆる事態なんて想定できてない。
(3) イエス・キリストなど例外は有り得るが、実際には誰しも暴力を頼みにして生きている。
(4) どんな事があっても暴力は許されないなら、暴力を暴力で罰する事も出来ない。
(5) 言論人が「どんな事が有っても暴力は許されない」と言う事は、「オレは無責任な発言をするぞ」と宣言するに等しい。
(6) 発言への罰として辞任させるのは暴力である。
(7) 軽い加害を止めるにも、暴力以外に手段が存在しない場合が有る。
(8) 暴力以外なら我慢できるものである=絶対に逆らえない様に出来る手段は暴力だけである。
(9) 悪者は、何が何でも暴力を、と考えている。
(10) 正当なら暴力ではない、という意見について。
(11) 「暴力は許されない」と言う者は大抵は「暴力は自分達だけが一方的に振るう物だ」という考えである。
  暴力に消極的な人は「暴力は許されない」なんて言わない。
(12) 暴力での対処は、それが必要だという判断がもし間違っていたら取り返しが付かない、という意見について。
(13) 最初は「どんな事が有っても殺人は許されない」だった。
(14) 「どんな事が有っても○×は許されない」なら、○×させれば殺せる事に成ってしまう。
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(1) スキューバー・ダイビング中に首を絞めて殺したら、それは暴力です。
では、スキューバー・ダイビング前に水中呼吸用装置に細工をして、細工された人が水中で窒息死したら、それは暴力ですか?
この辺りでハッキリとは分からなく成って来る。
でも、これぐらいなら「それは暴力だ」と言う人も居るだろう。
それでは、右に行くと熊が出る、左に行くと安全な里に入る、道のそういう分岐点で旅人に「左に行くと熊が出る、右に行くと安全な里に入る」とウソの情報を教えたら、それは暴力ですか?
これを暴力だと言う人は居ないだろう。
しかし、いずれも暴力の被害に相当する被害を生じるので、罪の重さは同じである。
裁判で死刑判決が出るか否かを左右する証言でウソをついたり、故意に間違った判決を出す行為も、同様です。
刑事罰を課す事を定める法律の立法過程での発言も同様です。
そこで私は、
暴力の被害に相当する被害が生じる様に狙っての選択は何であっても暴力だ、と考える事にしている。
暴力の被害に相当する被害とは肉体的な原因で生じる嫌いな感覚だ、と私は考えている。
死ぬ事、身体(脳も含む)が痛いとか苦しい事、眠気や疲れや空腹を感じる事、身体の可動範囲が減る事、目に入る光がまぶしいと感じる事、嫌いな音が聞こえる事、嫌いな臭いがする事、嫌いな味がする事、自分の意志で用途を選択できる時間が減る事、など。
かゆみやくすぐったさもですね。
これでも、まだ十分に明確に定義できたとは思っていない。
今後さらに言葉を練って行くつもりだ。
既存の概念の中では、「実害」という言葉が近いだろう。
注意したいのは、目に入る光や耳に聞こえる音が嫌いな場合でも、目に入る光や耳に聞こえる音の意味が嫌いな場合は暴力ではない、という風に定義したい、という点だ。
目に入る文字や耳に聞こえる声の意味が嫌いでも、それらは暴力の被害に相当しない、という事です。
「殺すぞ」という声が聞こえた事によって生じる害は、「殺すぞ」という声の意味が嫌いである事によって生じるので、これは暴力の被害に相当しない、と考えます。
「殺すぞ」という発言は、「暴力を振るうぞ」という意味を持っているけれど、暴力ではありません。
殺すのは暴力だけれど、「殺すぞ」という発言は暴力では無い。
(ついでの話ですが、同様に、差別発言は差別ではありません。禁止を掛けるのは差別までであり、差別発言にまで禁止を掛けるのは間違いだと私は考えます)
しかし、「殺すぞ」という発言には、脅迫罪か何かの罪が有りますよね。
この事は、暴力でなければ構わないのではない事を示す実例です。
言われたくない意味の言葉を執拗に繰り返し聞かされるのは、繰り返しに意味が追加されていない場合は、暴力の被害に相当します。
「死ね、死ね、死ね、・・・」はこれです。
繰り返し部分に意味が追加されて行く場合でも、パソコンへのDoS攻撃の被害に相当する被害は暴力の被害に相当する、と考えます。
2024年04月に衆院東京15区補選で「つばさの党」の人が他党の選挙演説を妨害して逮捕されました。
これについて、つばさの党の人は自分達がした妨害行為は言論だからそれを取り締まる事は日本国憲法が保障する言論の自由への侵犯だ、と主張しているそうです。
この問題も暴力という概念を精密化する際に試金石として使える好例です。
言論の自由というのは、言論の意味内容を理由にしてその言論を禁止したり妨害したりしてはいけない、という事であって、言論行為に伴う意味内容以外の部分を禁止や妨害の対象にしてはいけないというものではない、という事ではないでしょうか。
ましてや、つばさの党が行なった言論行為に伴う騒音が他者の言論行為の妨げに成っていたのだから、その騒音が意味を持つ発言音声であっても、言論の自由を侵害したのはつばさの党の人である、というのが本当のところです。
狙いが何かで判断しなければいけないという私の相対正義論の教理に照らすなら、なおさらの事です。
ただし、意味を理由にしさえしなければ言論の自由を侵犯した事に成らない、というルールは少し間違ってて、言論の自由を保障するという意味で、意味を広く知らせる為の何らかの言論手段が実際に存在していなくてはいけない、と解釈すべきでしょう。
そうだとしても、つばさの党の人は、他党の人の発言と被らない場所と時間で演説をする事が出来たわけだから、被る位置で演説した事を取り締まるのが言論の自由への侵犯の十分条件には成らない。
警察の高官が、他党の演説を妨害したら公職選挙法への違反だ、と言ってるようだが、それでは、意味の力で妨害する事まで禁止する事に成ってしまうので、いけない。
これは言語表現上の些細な不注意かもしれないが、そう決めてかかるのは無用心である。
ケーサツの行動方針が少しづつ不正に変更されて行っている印が、よく見れば既にここにも出ている、という事ではないか、という目で見る必要がある。
意味の力で妨害するとは、反論や落選運動などであり、これは言論の自由や選挙制度で保障されている事です。
また、ここまでの話は選挙に限った話ではなく、選挙だけが特別扱いされるのは間違っている。
つばさの党が演説を妨害する事件が起こる前にヘイト・スピーチが妨害される事例が多発していました。
選挙が妨害されたら警察が動くがヘイト・スピーチが妨害されても警察は動かない、というのは警察の不正ではないでしょうか。
一般の街頭演説よりも選挙活動としての演説の方がずっと重要だとしても、妨害行為自体はヘイト・スピーチへの妨害もつばさの党がやっていたぐらいひどかったですよ。
犯罪の害を被る危険への対処でも、政府の高官など要人を警護する事はするが一般市民を警護する事はしない、という警察の行動方針は不可解です。
医療におけるトリアージでもそう成っているのでしょうか。
テレビドラマでは、要人を優先的に診療する態度が悪いと表現されているんだけど。
この様に、この分野の相場はこうです、と言われて、おかしいと思っても尻尾をつかめない様な事でも、他分野の相場や相場がそう成っている理由と比較すれば、集団ストーカー性の不正なコードが入って来ているら感じをつかむ事が出来る場合が有ります。
政府の高官が殺し屋に狙われているならば警護するが一般市民が殺し屋に狙われていても警護しない、という警察の態度は不可解です。
それに加えて、狙われている一般市民が「何が有っても暴力は許されない」から殺し屋に暴力を振るったら警察に逮捕される、というのでは全く筋が通りません。
発言に声を被せて妨害する行為は、私の学生時代に鈴木公という先生が声を被せて妨害したのもそれです。
逆に、宿題の答えを私が発表している時に長坂という先生が口を挟もうとしたのを私が自分の発表音声で遮ったのは、私の方に非が有る。
これは、どっちが悪いかは本人が白状しなければ分からない事を示す好例だと思う。
相手の方が悪いんだと本人が言い張れば、第三者は誤解してしまうだろう。
裁判というものには、そこまで出来るんかい、という不信が最初からつきまとっていて当然である。
一概にこうだと言ってはいけないが、選挙やプロの業務を妨害された場合に比べて、これらの事例はケーサツ沙汰にするほどの事ではないが、しかし、単なる失礼よりは罪が重い。
したがって、そういう事をする人が失礼には厳しい、という事が有れば(そういう人は多いけれど)、それは自分が負けない様にするために道徳のルールを恣意的に取捨選択する不正である。
また、そういう事をされたからした人には失礼な口の利き方をする、という態度は道徳的に何ら間違っていないのである。
発言の意味内容を取り締まりや妨害の対象としてはいけないというのが言論の自由の教えである事から、「左に行けば熊、右に行けば里」というウソは実質上の暴力である事までを考え合わせれば、「言葉の暴力」という言葉が最近ローンチされている事は防犯目的よりはむしろ犯罪目的である事が見えて来るだろう。
発言なら何でも良いというわけではない事を示す例として私が真っ先に思い浮かべるのは左熊右里の様な発言だが、「言葉の暴力」という言葉の普及を推進している人々は、そういうのをすっ飛ばして一気に「聞いた人が残念過ぎる気持ちに成る発言」の様な物を「心が傷付く」として問題にしている。
これは、悪意の印だと思う。
誹謗中傷、侮辱罪の扱いが徐々に重く成って行っているのは、その見当が当たっている証拠だろう。
ホントの事なら何でも言ってよい、というわけではないが、ホントの事であるか否かは罪の重さとは関係ないのでもない。
それなのに、ホントの事なら何でも言ってよい、というわけではない事が認められると直ぐに、ホントの事でも聞いた人が残念すぎる気持ちに成るなら言っては駄目、という所まで不正に論理を飛躍させる、そういう連中が「言葉の暴力」という言葉をローンチしているに違いない。
ホントの事なら何でも言ってよい、というわけではない事の例として私が真っ先に思い浮かべるのは、顧客のクレジットカード番号の様な事だ。
これも、左熊右里と同様にやはり、発言の意味内容が実害を生む。
だから「ホントの事なら何でも言ってよい、というわけではない」と言ったのに、それで「ホントの事でも聞いた人が残念すぎる気持ちに成るなら言っては駄目」という意見が賛成された事にする、そういう種類の手口があると私は痛感する。
言われた人が残念すぎる気持ちに成るという理由だけでは発言の意味内容を取り締まってはいけない、という規則も絶対ではない。
その事を示す例としては、名誉毀損が挙げられる。
しかしこれは、発言内容が事実とは異なっている場合だけとされるべきだろう。
実際には発言内容が事実と一致していても名誉毀損だと認定される場合があるようだが、これには私は反対である。
罪のない私秘事柄(夫婦の良好な性生活など)を公開される、というのは、言われた人が残念すぎる気持ちに成るという理由だけで禁止されるべきだろうけど、これは名誉毀損ではなくプライバシー権の侵害ではなかろうか。
たとえ本人が知られたくなくて多額のおカネを使って隠していたとしても、発言内容が事実と一致していれば、その人の名誉は元からそれだけの物だったのであり、それ以上だと思っていた大勢の人が本当の事を知らされて幻滅しても、それは名誉についての誤解が正されたに過ぎない、毀損されたか否かが検討されている名誉は元から存在しなかった、私はこの様な厳しい意見を持っている。
厳しいか優しいかという事も普通は誤解されているようだが、ある人に優しいという事は、その人と対立する人に厳しいという事である。
そんなのは本当の優しさではない。
名誉毀損の被害候補者に優しいという事は、名誉毀損の容疑者に厳しいという事である。
その意味で、誰に対してかを指定せずに厳しさを増したり優しさを増したりする事は出来ず、出来るのは公平さを高める事だけである。
それが本当の優しさだろう。
話が横道に逸れたが、言われた人が残念すぎる気持ちに成るという理由だけでも、言ってはいけない事が有ると言えば有る。
しかし、これもまた、差別用語は駄目とかいうのとは私の意見は全然違うのが分かろう。
暴力という既存の言葉の定義を正すよりも、新語を作ってそれを正確に定義する方が徹底しているので、そうするかもしれない。
新語を作ってそれを正確に定義しておけば、暴力という言葉を含む他者の発言の一々に、ここでは暴力という言葉がこういう意味で使われている、という注釈を与える事が出来る。
被害者が嫌いだと感じない義務を負わない嫌いな感覚の原因と成る被害者の身体上の客観的な事実が生じる様に狙っての選択を○×と呼ぶ事にする。・・・ 新語の定義案。
好き嫌いに罪は無いという私の持論からすると、嫌いだと感じない義務は常に存在しないわけだから、嫌いだと感じない義務を負わない場合は、という条件は不出来です。
もう少し推敲が必要なようです。
脳も含めて身体の怪我や病気、および、身体の怪我や病気を無視・放置させない目的や未然に防ぐ目的で身体が自動的に意識させる我慢困難な嫌いな感覚、という概念を軸に組み直すとよいのではないか。
かゆみやくすぐったさが無視不可能なのは、人を殺せる猛毒を持った虫が人体の表面に滞在しているなどの無視・放置してはいけない事態を無視・放置させない目的で身体が意識させる感覚だからだろう。
集団ストーカーの手口の中に、被害者が習慣的に毎日繰り返して行なう行為に長期間毎回タイミングを合わせて音を聞かせたりする事によって被害者の心身に条件反射を形成したり感受性を変容させる物が有ります。
条件反射を形成するのよりもっと手っ取り早い、生理反射を利用する犯罪も有ります。
これを○×だと言える様に○×の定義を調整する必要がある。
○×は英語だとphysical chargeぐらいが良いんじゃないか。
「人身事故」という言葉を参考にして、日本語では「人身・・・」みたいな言葉に成ろう。
「人身に実害を与える行為」ではどうか。
私の相対正義論に合う様に改良するなら「人身に実害が生じる様に狙ってする選択」。
怪我や病気は実害だが、それらを防ぐ為に心身が自動的に意識させる我慢困難な嫌いな感覚も実害だろうか?
ハッキリとは分からない。
「人身圧迫」ではどうだろうか。
もっと考えてみたい。
「拷問」という言葉の意味も近いし、暴力という言葉がピッタリでないので拷問という言葉を使う人も見た事があるけれど、拷問というのは自白させるなどの狙いを伴っている。
暴力という言葉の改訂版には、そういう狙いは含まれていないのがよい、と私は思っている。
ITの場合で考えると、本質が分かり易くなる。
パソコンの故障で最も深刻なのはハードウェアの故障です。
では、ソフトウェアの故障は全て深刻ではないのかと言うと、データも含めて不可逆的にソフトウェアを喪失するのは深刻な損害です。
ハードウェアとソフトウェアを区別せず、ソフトウェアの一部+ハードウェアの全部で構成されている「システム」という言葉で呼ばれる物にダメージを与えるのが、暴力に相当するのではないか。
そうでない例としては、被害者の着信メール件数や着信メールのデータサイズを増加させる事なく、メールの意味内容を悪化・劣化させる行為が挙げられるだろう。
茨城県つくば市の会社役員である長嶺嗣義という人が逮捕された福島・西郷村の国道289号線近くでの不正盛り土事件のニュースを数日前にテレビで見た。

ある住民は一戸建て自宅の背後至近距離に自宅よりずっと高い盛り土をされて、土砂崩れの危険に脅かされ続けている、という内容が含まれていた。
こういう被害は暴力の被害に相当するのか否かも考える必要がある。
住民は「心配で夜も眠れない」と証言していたので、暴力の被害に相当する被害が有ったと考えられる。
心配し過ぎると心臓が悪く成る、という法則性は有る様だ。
心臓が悪く成るのは暴力の被害に相当する。
けれど、「殺すぞ」と言われて心配し過ぎても心臓は悪く成るが、「殺すぞ」という発言は暴力ではないのだった。
「殺すぞ」という発言でも、言われた人の心臓が悪く成るように狙って「殺すぞ」と発言した場合には暴力である、という事だろうか。
私の現在の居室・寝室の真下のあるウダオサムの仕事室にはプロパンガスの業務用小型ボンベが置かれている。
これは間違いなく私への集団ストーカー工作だ、と私は判断している。
この状態で私は何十年間も暮らしているので、その事によって私の心臓が悪く成っているのではないかと心配している。
また、私の母ウダマチコの姉の一人である下宮道枝(既他界)とその夫下宮竹四郎(既他界)の生前の住宅の背後至近距離が山で、隣が墓地というのも、同種の犯罪の被害であるに違いない事から、住宅背後至近距離への盛り土も、同じ犯罪ネットワーク(ケーサツにつながってるのか?)が持っている手口のレパートリーのひとつであるようだ、と分かった。
   
撮影:2015年06月。私が出生時から既に集団ストーカーに狙われていた事の状況証拠のひとつです。

(2) どんな事が有っても暴力は許されないのかどうかは、あらゆる事態を想定できる人にしか分からないはずである。
自分に想像できる事態を幾つか思い浮かべて、それらの事態が有っても暴力はいけない、という事を確認しただけでは、どんな事が有っても暴力は許されない事を確認した事には成らない。
あらゆる事態を想定できる人なんて居るだろうか。
居ないだろう。
それなのに「どんな事が有っても暴力は許されない事だけは確かだ」と言ってる人々が「発言においてはエヴィデンス(証拠)に基づかなければいけない」と主張する人々とも、アクション映画で主人公が悪役を虐殺するシーンで胸がスカッとする人々とも重なっている事は、これらの人々が発言において如何に不誠実であるかを如実に表している。
「どんな事が有っても暴力は許されない」なんて言ってる人は、「お前のどんな事はその程度のものなのか」という言葉でけなされるべき想定しかしていないものである。
何せ、こいつらの頭の中では、集団ストーカーも巨大陰謀も存在し得ない事に成ってるんだから。
数学の証明問題なら、xがどんな数であっても x + 1 = 1 + x である事を証明できる。
だから、暴力が許されるか否かという問題についても、そういう証明方法が有るかもしれない。
しかし、私の観察では、身近な人からテレビ出演者までホントの事に驚き易い。
驚いたという事は、想定していたレベルを超えていた、という事である。
多分集団ストーカー性の犯罪だったと思うが、今あったばかりの犯罪の内容を遅れて来た友人に説明すると、それを聞いた友人は驚いてその犯罪を憎む顔表情を見せた。
鼻をひん曲げるといった言葉で表現されるべきような顔表情だった。
私がした話を信じてない、という風ではなかった。
悪い事が有ってもせいぜいここまでだろう、というその友人の想定を超える内容だった、という顔表情だった。
言われるまで想像した事もなかった、というのだったかもしれない。
そういう事がこれまでの私の人生には複数回あった。
「どんな事が有っても」なんて言ってる人も、ホントは「どんな事が有っても」と思ってるわけではないだろう。
「どんな事が有っても」ではないけれど、実際にはそんな事は無いだろうからここは「どんな事が有っても」と言っておけばいいんだよ、程度に考えているに違いない。
しかし、そういう所を狙われるんだよ。
中には、それは分かってるけど「どんな事が有っても」と言ってしまったら聞いた人が「この人は出来るだけ暴力を使わないようにするつもりが無い人なんだ」と誤解する、誤解させる工作をするぞと脅して来る人も居る、だから言えない、という人も居るだろう。

(3) 日本以外の国では、自国の軍事力を頼みにしている事を否定する者は居ないだろう。
その点、日本では、憲法九条を背景として、軍事力にお頼るのは間違っている、と主張するタイプの人が少なからず居る。
しかし、そういう人でも、国内の治安の維持で暴力が用いられる事を間違っていると言う人は居ないはずだ。
ただし、ここに言う暴力とは、手錠をかけたり、牢屋に監禁したりする事である。
「どんな事が有っても暴力は許されない」と言ってる人のおそらく全員が、それを必要だと考えているはずだ。
自分が暴力を行使ししないだけで、有資格者が暴力の行使を代行している。
暴力は一切ダメ、という人には、そういう暴力を使ったサービスを停止してはどうか。
手錠をかけたり牢屋に入れたり、という対処が報復したり抑止したりする不正は暴力だけではない。
詐欺でも手錠を掛けられ牢屋に入れられる。
暴力を使ったサービスを停止するとは、暴力は一切ダメという人が不正の害を被った場合には、犯人に音楽を聞かせたり説教を聞かせたりするだけに留める、物質的な手段で苦痛を与えたり不正を出来ないように縛る事はしない、という意味です。
手錠も掛けないし、牢屋にも入れない、音楽や説教を聞かせるのも犯人が肉体的にしんどくない範囲内で行なう、という事です。
そういう方法では犯罪に十分な対処が出来ない事が証明されているわけではないが、今のところ誰も出来ないわけです。
多分当ページで今私が論じている問題が話題に成ったからだと思うが、私の学生時代の最晩期(この時期に不審事を見た経験や不審発言を聞いた経験が集中している)に立ち話の様な形式で私は「警察が犯罪者に手錠をかけたり犯罪者を牢屋に入れるのも暴力だ」と発言した事が有る。
その時の私の話し相手(私と同じぐらいの年齢の男性、多分学生、私は名前を知らない人だったかも)が私に向かって「理由に関わらず暴力は一切許されない」と言ったからだろう。
「警察・・・のも暴力だ」という私の発言を聞いて、その話し相手は「そんな事を言うんだったら話に成らない」みたいな事を私に言い返した。
これも、その時期に経験した不審事・不審発言のひとつです。
その時の私の話し相手さん、ここを見てますか?
あの時の私の発言は、当ページに書かれている私の思想を表現した物です。
当ページに書かれている私の思想は間違ってますか?
その時期に親しい友人が「宇田君それ間違ってるよ」を連発し始めた、という事も有りました。
間違ってるんでしょうか?
間違ってないなら、間違ってるという事が何故あなたにはあの時即座に分かったのでしょうか。
「宇田君それ間違ってるよ」と言わた時に私は言い返すべき適当な言葉を見付ける事が出来なかったが、言い返すべき言葉を今考えて見ました。
それは以下です。
「間違ってると言われても私の意見は変わらない。あなたの意見が私の意見と違うのなら、意見を求められた際には、あなたはあなたが正しいと思う事を答えて下さい。しかし、あなたに間違ってると言われたからと言って、私も自分が正しいと思う事を言い続けます。私に向かっては同じ事をもう言うな、というのではないから、あなたが正しいと思う事を今後言うのは私に向かってでも構わないよ」
これでも言いあぐねているかと思う。
私が言いたいのは「宇田君それ間違ってるよ」という言い方が、言い返せない様に巧妙に工夫された集団ストーカー定型句みたいな物だ、という事です。
上島君だったと思うけど、僕はあなたに「間違ってるよ」と言われて、本当に自分の方が間違ってる事に気付いた事も有った。
でも、あれは危なかったんだよ。
複素数の虚部じゃなかったっけ。
例えば3+5iの虚部は5で、これは実数です。
しかし虚部だから虚数だと誤解しやすい。
いつだったか私が間違って虚部は虚数だと言ってしまって、多分上島君に「宇田君それ間違ってるよ」と言われてしまった。
幸い私は、言われて考えると間違いに気付いたが、もし気付かなかったら、私は間違った事を強硬に主張した可能性が高い。
これは、被害妄想に基づいて他人を責める、といった種類の行為として、私の人物評価にカウントされて行くんだよ。
宇田は何でも自分の方が上島より良く知ってると思っているせいで、上島から間違ってると言われても間違ってないと誤解しやすい。
これはその通りです。
そういう性質・傾向が私には有りました。
その分、私が間違いに気付かない事が事前に見込めた、と思う。
そこを狙われた、と私は思ってます。
参考:
「その話、詳しく聞かせてもらえませんか?」@敵の手口を暴露@空手以外@理論@武道 ・・・ 今後アドレスが変わるかもしれません。
2013年11月に自宅の近所を自転車で走っていた時に私を付け狙って来た人の顔が何故か上島君に似ていた。

本人ではないと思うけど、偶然でもないと私は思っている。
写真を良く見ると、そんなに似てない様にも見える。
しかし、第一印象ではソックリだと思った。

(5) 自分の言ってる事が間違っていたなら私を殺してもらって結構です、しかし、私の言ってる事が正しい限りにおいては、それを暴力で停止させようとする事は一切認められません、と言うなら分かる。
どんな事があっても暴力はいけません、と言ったのでは、自分の言ってる事が正しかろうが間違っていようが、それは言論であって暴力ではないのだから、暴力で対抗してはいけないんだよ、お前わかってるだろうな、という内容が含まれてしまう。
因みに私の考えは、間違っていても構わないが間違っていると思っている事を正しいと思ってます、という風に言ってはいけない、というものです。
命がけで職務を遂行するつもりです、と宣言するタイプの人が多い。
自衛官以外はそんな事はしないでほしい、と私は前々から事ある毎にコメントしているのですが、テレビの言論人は「命がけで職務を遂行する」って言った事は無いのかなあ。

(6) 解雇や解任など職業の変更を余儀なくする事は、電気製品に喩えると電源プラグを抜く事に相当する。
電源プラグを抜かれても電池残量が非ゼロの間はそれまで通りだ、とか、電源プラグを抜かれてもまた別の電源にプラグを刺せば電源は不足しないとしても、基本的に電源プラグを抜く行為は生命維持の必要条件の1つを外す行為であるから、人身圧迫であると言える。
効果の面から言っても、解雇するという罰で取り締まられたルール違反は、そのルールが不当なルールであろうが無かろうが、する人がほとんど居なくなる、誰も出来なく成る、という結果に成っている。
この事は、解雇の害は非常に大きい事の証拠です。
害の大きさが問題なのであって、暴力であるか否かが問題なのではない事を思い出せば、解雇を罰とする行為が暴力禁止というルールを骨抜きにしている、というのが実態であり、放置できない。

(7) このページに書いてある様な私の発言を受けてか、暴力でしか止める事が出来ない暴力ではない不正行為を見付けました、これがそうです、といって、大人数が押し蔵饅頭の要領で被害者を強制的に移動させている様子の動画を放送するのをテレビで見たが、大人数が押し蔵饅頭の要領で被害者を強制的に移動させるのは暴力だと言って良いと思う。
力学的な力を使って、被害者の身体の位置や形や向きや運動の内容を被害者が狙っている結果とは違う内容に強制的に変更する行為、これは暴力という言葉の意味として私が考えている範囲内に余裕で入る。
これは被害者と加害者のどちらが動いていたかとは関係が無い事です。
軽犯罪法に業務上往来妨害という罪が定めてあったはずだ。
障害物で被害者の進路をふさいだり、障害物で被害者の身体の可動範囲や移動範囲を制限しても、暴力です。
障害物は止まっている被害者は動いているから暴力ではない、とは言えない。
2022年10月28日からテレビ朝日で放送された「最初はパー」というドラマだったと思うが、反社会的勢力出身の男(多分四代目市川猿之助が演じていた)が、別の登場人物の胸倉を掴んで台詞を言う、胸倉を掴まれた登場人物も負けじと言い返す、というシーンが有った。
それを見て私は全て(と言うと言い過ぎだが)分かってしまった。
ははあ、胸倉をつかむだけなら暴力ではない、という定義を隠れてコソコソ通用させている者が居るのだな、という風にだ。
ケーサツの犯人に手錠をかける行為や刑務所などに監禁する行為を暴力ではない事にしたい、また近年問題に成っている老人ホーム等での身体拘束を暴力ではない事にしたい、精神病院に強制入院させるためなどの拉致一般も暴力ではない事にした、それらが暴力であるか否かという問題が話題に上る事すら無い様にしたい、そういう悪意が動機だろう。
しかし、刃物で身体を切る所までなら暴力ではない、と定めなくても、医者が外科手術するのを犯罪だと言われる心配は無い事を見れば分かる様に、つかんだり押さえ込んだりするだけなら暴力ではないと定めなくても、ケーサツが行なう逮捕や監禁が犯罪だと言われる心配は無い筈である。
ケーサツが行なう逮捕や監禁は犯罪ではないから、つかんだり押さえ込んだりするだけなら全て暴力ではない、という事には成らないのである。
そして、「どんな事があっても暴力は許されない」という決まり文句は、こんな所までつながっているのである。
この悪どさ(=大変な危険)に気付いて欲しい。
別の機会には、「手を出す」という言葉を文字通り「手の位置を前進させる事」と解釈する不正な屁理屈を敵は使う。
これを、先に手を出した方が悪い、という正義と組み合わせて、真の被害者の方が悪い、と言い掛かって来るのである。
つまり、敵がまだ手の位置を前進させていない手をポケットから出してもいない時に、こっちが手の位置を前進させて敵に触れた、したがってこちらが先に手を出したのだ、という詭弁を言って来るのである。
その例を以下に挙げておく。
2022年01月23日(日曜日)の昼頃、JT宇都宮線の列車内で、高校2年の男子高校生が、同じ車両の優先席で加熱式タバコを吸っていた宮本一馬(ホストクラブ従業員、当時28才)にタバコを吸うのをやめるように頼んだら、高校生が押し返す様に狙って宮本一馬が高校生に顔を近づけ、高校生が「離れて下さい」と言いながら押し返すと、宮本一馬は「高校生の押し返した行為が先に手を出す行為に該当する」という意味の事を言って、それを理由として高校生に10分間を超える長さに渡って暴行を加え、その結果高校生が被った害には頬骨骨折が含まれていた。
宮本一馬は、高校生が先に手を出したのだから自分がした暴行は正当防衛だ、と主張した。
暴行された高校生にはゼンソクの持病が有ったという。
暴行には、高校生を土下座させ足で頭を踏みつけた、という内容が含まれていた。
しかし、胸倉を掴んだ者は手も位置を前進させて相手に接触させてるよな。
「株に手を出す」「先物取引に手を出す」という表現だって有るし、デートに誘ったら「女に手を出した」事に成るのだから、「手を出す」=「手の位置を前進させる」ではない事を、ここで言い足しておきたい。
上記枠内実例においては、顔を近付ける行為が手を出す事に当たり、加熱式タバコを吸う事も手を出す事に当たり得る。
つまり、「先に手を出した方が悪い」という正義における「手を出す」は「仕掛ける」という意味である。
警察官が言う様な「犯罪を構成する」「犯罪を構成しない」という判断では間違いが起きるのです。
共謀罪についての法規では「着手」の時点で共謀罪が成立すると聞きました。
分かってるじゃん。
「仕掛ける」というのは「着手する」という事です。
共謀罪以外では違うなんて事は無いはずだ。
つまり、これも「ほんとはそうなんだけどね」って事だ。
私は、自分の人生におけるこれまでの経験で、言葉における不正でも、声や物音を出して私を罠にはめようとする行為でも、その他の嫌がらせ程度の事でも、それらが外見上幾ら些細な事であっても、その最初の一手から「はい、手を出した」と判定していますよ。
それらの犯罪に私が反応しなかったのは、これではまだ手を出した事には成らない、と判断したからではありません。
「今回は大目に見てやる」とか「今手が離せない」とか「一々は処理できないので後で一括して処理しよう」と判断したからです。
「先に手を出した方が悪い」というのは「先に仕掛けた方が悪い」という意味です。
「ほんとはそうなんだけどね」という誰かさんの声が聞こえて来そうだ。
立法も司法も行政も「ほんとはそうなんだけどね」と言われる様な事を「ほんと」とは違う風にやっていてはいけないのは当然の事であろう。
「ほんとはそうなんだけどね」と言われるという事は、当たり前だという事だからです。
当たり前という事は、そこまで思い至りませんでした、と言えばウソに成る、分かっているくせに何らかの悪意によって公務を曲げて来た、という事だからです。
その罪をどうやって償うつもりなのだろうか。
いつ頃かまでは、当たり前の事は当たり前の様にやってくれているものとばかり私は思っていました。
それは国民一般の公務員への信頼だと思うんです。
信頼しているから一々自分の目で確認したりはしない、その盲点に付け込んで公務の内容を曲げる、というのは贈収賄よりも大きな汚職でしょうが。
昔の空手の教本には、巻末付録みたいな位置に、護身術というタイトルで、空手技のちょっとした応用例が幾つか書かれていた、そういう本が多かった。
その中に大抵は必ず入っていたのが胸倉を掴まれた場合の対処法で、その内容は、膝で金的を蹴ったり掌底でアゴを突き上げたりする様な技だった。
これをいけないと誰が言えますか。
胸倉を掴まれた事に対処する方法が暴力以外に無いからという理由を持ち出すまでもなく、胸倉を掴む行為は十分に暴力です。
胸倉を掴まれた事に膝蹴りや掌底打ちで対処しなくても柔道の技で対処できるじゃないか、という意見については、柔道を習ってない人にはその選択肢は無いし、柔道を習っていれば膝蹴りなどは使ってはいけないというのもおかしい、そこまで何でもかんでも胸倉を掴まれた人ばかりが義務を負うのは不公平である、という事が言えるだろう。
いけないというだけなら、胸倉を掴むのもいけないだろうが。
胸倉を掴むだけなら暴力ではない、なんて変な判別方法は、これを無効化する為に来ているのが分かるでしょう。
「胸倉を掴むだけなら暴力ではないのだから、胸倉を掴まれた事に暴力で対処したら、それは暴力未満の事に暴力で対処した事に当たり、一線を越えたのはお前だ」と被害者が言われる仕組に成っている。
こんなクソのような屁理屈に誰が一々つきあわねばならぬと言うのか!
この屁理屈が不当である事は、それを適用した結果を見れば分かる。
胸倉を掴まれた人は、いつまでも掴まれたままで居なさい、って事に成るではないか。
そんな義務は無いでしょ。
何年か前に終了してしまった「水戸黄門」というテレビ・ドラマには、主役の水戸光圀が「しかたありませんな」と言って、お供のスケさんとカクさんに悪役を暴行するように命じるシーンが、毎回決まって入っていました。
しかたない、暴力を使うしかない、という段階に成るまで暴力を使わずに済ませた、それで十分に義務は果たした事に成る、という思想を、この台詞は表現しています。
この台詞が耳に入らなかったのか、と言いたい。(この印籠が目に入らぬか、のパロディー)
昔は、逃げる犯人に向かって警察官が「止まれ、止まらないと撃つぞ」と言葉を掛け、それでも犯人が止まらなければ空に向かって一発撃つ、それでも犯人が止まらなければ犯人の足元の地面に向かってもう一発撃つ、それでも犯人が止まらなければ犯人の身体に銃弾を命中させるのだ、という話を何回も聞いた事が有ります。
この話をもう何年も全く聞かないのも、忘れさせて言えなくする工作の結果でしょう。
逃げるというのは暴力じゃないけれど、これは当然間違ってないわけです。
警告射撃を2発も入れたら、その間に犯人が逃げてしまうじゃないか、と思うぐらいです。
米国の西部劇の早撃ちガンマンは、敵が拳銃をホルダーから抜いた後であればその敵を銃撃しても正当防衛が成立する、というルールに従がっていたと聞く。
それがルールだったからそれが正しいんだ、という論法は不完全だが、自分で考えてみても、敵に撃たれた後で撃ち返しても手遅れである。
だから、暴力で対処してもよいのは暴力に対処する場合だけである、というルールには、よく考えてみるとおかしな点が有る。
拳銃をホルダーから抜いただけでは暴力ではないからだ。
暴力を振るわれた後でないと暴力で対処してはいけないとすると、撃たれる前に撃ち返してはいけない事に成る。
また、拳銃をホルダーから抜いたら撃つしか無いのか、拳銃をホルダーから抜いたけれど撃たないという事は不可能なのか、という事を考えてみると、そんな事はない、拳銃をホルダーから抜いたからと言って撃つとは限らない事もハッキリと分かる。
2024年春までに問題に成っている現代日本が抱える問題で言うと、いわゆる敵基地攻撃は許されるのか否か、という問題に似ている。
敵機地でミサイルへの燃料注入が始まった後であれば攻撃してもよいだろう、などという事が言われている。
正当防衛を成立させる為には、敵が拳銃をホルダーから抜いた後で自分が拳銃をホルダーから抜き、敵が撃つ前に自分が撃って敵が2発目を撃てなく成る敵の身体部位に自弾を命中させる必要が有る、だから早撃ちなんだ。
この話は非常に分かり易いけれど、空手をやっている私にとっては、そこまで分かり易い話を出されなければ分からないヤツが多い、という現状は非常に危険だ、と何十年も前から感じられている。
格闘技の試合においては、裁判で立証する事は不可能に近いぐらい難しい事を瞬間瞬間に「今こうだ」という風に判断して的中させなければ負けてしまう。
特に、敵が何を狙っている、とか、こちらのどの攻撃技を怖がって敵がどの攻撃技を実行できなく成ってる、といったような敵の心の中、頭の中が重要である。
自分にはそれが分かる、のではないけれど、それが分かる事が必要である事なら分かる。
また、格闘技の試合の実況解説を聞いていると、そういう事項がほとんど客観的な事実であるかの様に語られていて、聞いていて納得するものも多い。
それらは決して映像や音声に証拠が出ているわけではない。
それはあなたの感想ですよね、とか、過失でそう成った、と言われれば、そういう意見を完全に論駁するのは困難である。
経済活動でも、道路交通でも、それらを格闘技の試合や戦争だと見なして考えれば、脅威が第三者の目にも明白かつ確実だと分かる場合でなければそれへの対処に非常手段を用いてはいけない、としたのでは、格闘技の試合や戦争のつもりでやってる犯罪者が有利に、そんなつもりはなく単に幸福追求などをしている人が不利に成ってしまうのである。
早撃ちの話に戻ると、本当に撃つのでなければ人前で拳銃をホルダーから抜く事はしない、という行動方針をルールが生みます。
その意味で、ルールを教えない、というのは左熊右里に該当します。
従がって、胸倉を掴む所までなら暴力ではないと仲間うちだけで勝手に決めて、それを隠すのも左熊右里です。
「知らなかったでは済まされない」という発言を私は過去に何度も聞いた事が有りますが、おそらくこれは、不正なルールを通用するように根回しした上で隠した敵が被害者を批判する意味で言った言葉だと思われます。
軽い犯罪を止めるのでも暴力以外に止める手段が存在しない場合が有る。
したがって、暴力は一切禁止ですと定める事は、そういう軽い犯罪の害を被らない権利は存在しないと定める事と同じです。
しかし、それは不合理だから、背理法によって、暴力は一切禁止ですというのは間違いだと証明された事に成る。
暴力以外に手段が存在する場合でも、暴力を使った方が安全確実な場合は、暴力以外の方法を使わなければいけないと誰が言えるでしょうか。
どうして、先に手を出した人ではなくてそれを防ぐ人ばかりが何でもかんでも負担しなければいけないのでしょうか。
そんな馬鹿な話は無いのです。
暴力を使う場合でも、一般論としては早く使えば使うほど安全確実です。
拳銃の早撃ちの問題を思い出せば分かる様に、敵が拳銃をホルダーから抜く前に敵を撃ち殺せば、早撃ちで勝つよりももっと安全確実なわけです。
それを駄目だと言われれば、その分だけ自分が敵に撃ち殺される危険は増大するわけです。
裁判で正当防衛の成立を妨げる向きに作用する主張では、この点が良く言って考え落されている悪く言うとしらばくれられている。
悪いのが相手なら、全部相手が被れよ、自分が危険を冒す義務は微塵も無いはずである。
実は、この様な当たり前の事を挙げて並べると、社会を曲げている本当の動機が徐々に見えて来る気がする。

(8)と(11)が、暴力に代わる新語の定義をガイドする。
言葉の定義は便利であるか不便であるかを左右するのみであり、言葉の定義で正義(真理)を左右する事は出来ない。
暴力という言葉で正義を誤魔化そうとする種類の人は、言葉の定義の問題に逃げ込もうとするが、それは延命にしか成らない事が、最初から運命付けられているのである。
また、悪用された力は暴力だが善用された力は暴力ではない、という内容を暴力という言葉の定義に含ませるのは、暴力という言葉の便利さを著しく損なう。
その程度は、新語を定義して使う必要を生じさせるほどである。

(10) 小島一志・塚本佳子著「大山倍達正伝」第二部序章(317ページから)のタイトルは『原点「力なき正義は無能なり」』と成っている。
そこに、パスカルの「パンセ」断章298よりから「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制的である・・・」という文章が引用されている。
大山倍達正伝105ページにも、永宜(大山倍達)が「正義なき力は圧制なり、力なき正義は無能なり」というブレーズ・パスカルの著書『パンセ』にちなんだ言葉を紙に書いて部屋の壁に貼っていたと三須初江は証言している、という記述が見られる。
圧制であろうが圧制的であろうが、どちらにしても、正しいか否かや圧制的という概念が力の属性だと考えられている。
「正義なき力は暴力なり」と書かれていた様に記憶していたので私はこの話を持ち出したが、少し違っていたようです。
正しければ武力だが間違っていれば暴力だ、といった言い方もよく耳にする。
私は、これらの考えに反対です。
正しいか間違いかという事と力とを別概念としてハッキリ区別するのが正しい。
大雑把に言って、力には大小しか無く正誤は無い、正義に力が有ったり無かったりはしない、というのが私の見解です。
例えば、拳銃という物を考えた時、それは悪用されても善用されても、同じ大きさの力を発揮するわけです。
強盗で犯人が使用する時には弾が出ないとか、弾は出るけど撃たれても平気だ、なんて事はないわけです。
日本国憲法に「人権を尊重しなければいけない」という正義が書かれていますが、この正義は強いですか?弱いですか?
正義に力が有ったり無かったりするなら、答えれるはずです。
強いか弱いかなんて、ナンセンスですよね。
つまり、正義に力が有ったり無かったりはしないって事です。
それはその通りだけど、そんな事まで言葉使いをキチンと正さなくても読めば何が言いたいか分かるし、そこまでキチンとした言葉使いで書くと文章が不味く成る、と言われるかもしれない。
しかし、そう思って心を許した途端に、その隙に全力で不正を捻じ込んで来る、そういう犯人が居ます。
少しでも間違ってる事を、完全に正しいと言ってしまうと、そういう犯人は、無制限の犯罪にお墨付きを与えられた事にしてしまうのです。
そこで、正しい表現に書き直しておきます。
誤:「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制である」
正:「正義を通用させるには力が必要であり、力の正義に反する行使は圧制である」
正しければ暴力ではない、間違っていれば暴力と言うなら、どんな事が有っても暴力はいけない、という言い方はおかしい。
どんな事が有っても暴力はいけない、という言い方が正しいのは、暴力という概念が正しいか間違いかとは独立に定義されている場合です。
暴力という言葉の中に既に間違っている(いけない)という意味が入っているならば、どんな事が有ってもいけない・・・はいけない、という変な文章に成ってしまいます。
誰が何と言おうといけないものはいけないんだ、という表現も有り、これはこれで間違ってませんが、それとは違うはずです。
どんな事が有っても暴力はいけない、という言葉は、単にいけないという事を強調しているのではなく、何がいけなくて何なら構わないかを聞く人に教える表現です。
いけないものはいけないんだ、という言葉には、何がいけなくて何なら構わないかを聞く人に教える機能が有りません。
暴力の中にいけないという意味が入っているなら、「暴力はいけない」とは言わず「・・・は暴力です」「・・・は暴力という種類の犯罪です」と言うのが正しい。
拳銃と違って空手の場合は、正しい考えを持っている時と間違った考えを持っている時で格闘能力が違うかもしれない。
正しければ力が出るが間違っていれば力が出ない、という意味です。
それは有るだろうと思う。
その点は拳銃よりも空手の方が善い、と言える。
けれど、そういう法則性は個人差が有るだろうし、不確実だし、効果(力が何割増に成るか何割減に成るか)が大きくないかもしれないし、希望的観測な面も有る。
空手の場合は、善悪に関わらず体重が大きい方が強い、という法則性が有り、この点は、空手よりも拳銃の方が善い。
拳銃が等化器と呼ばれるゆえんである。
正義に力は無い、と私は言ったが、政治種の力について言えば、正しい意見は大勢の人に賛成されるので大きな力を持つ、と見込めます。
そういう力なら、正義に力は有ります。
これは「人気が有る」と言うのとほとんど同じ意味です。
その意味では「人権を尊重しなければいけない」という正義は、力が非常に強そうだ、と感じられます。
しかし、本当にそうなのか現実を見て判断しようとすると、ハッキリとは分からなく成ります。
中には、人権を尊重しなければいけないからこうするぞ、という言い分で人権を侵害する犯罪も有る。
こう成って来ると、世の中一体、善と悪とどっちの方が強いのか、どっちが勝つのか、という古来からの根本問題に帰着してしまい、その事によって、これは簡単には答えが出ない問題なんだ、という事に気付くわけです。
ともかく正義の力」という言葉も「人を内面から突き動かす力」「人を、正義を通用させようとする気に、させる力」という意味に解するならば、そういう力は有り、その力の強い弱いを論じる事も出来る。
しかし、「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制である」という標語における「正義の力」がそういう意味だと解釈するのは善意に解釈し過ぎで間違っていると私は思う。
そういう解釈が当たっているか外れているかは「力」という言葉の意味を特定しないと決まらない。
「力」という言葉の意味を明示していない事も、「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制である」という標語の至らない点だ。
2022年にロシアがウクライナを侵攻し始めた時によく聞かれた「力による現状変更」という表現も、同じ欠点を持っており、こちらには私は誤魔化そうとする意思を感じる。
力と言うだけでは魅力だって力だし説得力だって力なんだよ。
魅力で屈服させるのは全て正当だ、とは言えないかもしれないが、説得力で屈服させる事には文句の付けようが無いはずだ。
やはり、「力のない正義は無力であり、正義のない力は圧制である」という標語で使われている「力」という言葉は武力や暴力を意味しているだろう。
その事はパスカルの著書の他の部分を読めば裏付けられるだろうし、この標語を自室の壁に掲げていた大山倍達という人が武道家であった事を見ても分かるだろう。
人を内面から突き動かす力 ≒ 説得力 ≠ 武力。

(11) 私が感じるのは、「暴力は一切禁止です」というメッセージは実質上は、例えば「口の利き方に気を付けないとお前を暴力で打ちのめすぞ」という内容を表現している、という事だ。
本当は口の利き方が気に入らないので暴力を振るうくせに、間に暴力を振るわせるという工作を置いて、それを理由に暴力を振るう。
これでは、どちらが暴力を振るう者でどちらが暴力を振るわれる者かの認定が逆さまである。
左に行けば熊、右に行けば里の話を思い出して欲しい。
このような手段を暴力ではないと判断して、それを幾つも使える者が、そういう手段を持たない者に、「お前、暴力は許されないって事は分かってるだろうなあ」と行って来るのである。
「如何なる場合も暴力は許されない」という言葉は、それを発した者がそういう輩である事を知らせているのは明白である。
左に行けば熊、右に行けば里というウソの害を防ぐ為に暴力を振るう事はないだろうけれど、宇田は暴力だと言ってくれるが犯人達は暴力ではないと言って来るような加害の中には、暴力によってしか防げない種類の物がある。
被害者が口の利き方に気を付けなければ、犯人達はそういう種類の加害を被害者に向かってする。
その加害は暴力だし、それを被害者が暴力で防いだ事を暴力という種類の犯罪だとして犯人達が暴力で罰しても、どちらにしても、口の利き方という暴力ではない事に対して暴力で報復した、という事に他ならないのである。
これが、この問題の骨子です。
左に行けば熊、右に行けば里というウソを暴力だと言う私でも、そういう犯人達が罪だとする口の利き方は暴力じゃないんですよ。
小多仁伯・小川頼宣共著「PART II 池田大作の品格」228~230ページに、おそらく犯人は「これは暴力ではない」と言い訳するであろう犯罪の手口の具体例が報告されています。
その内容を私が以下に要約します。
大げさにも右翼団体・暴力団・土建組合等の左右の思想団体が登場する、素人家族が経営するレストランの厄介な乗っ取り事件の相談を、藤井冨男氏(公明党の実力者)と八尋頼雄氏(創価学会顧問弁護士)から、小多仁伯が受けた。
事情を知った野崎勲(創価学会組織本部長)は学会系の麹町弁護士事務所から3名の弁護士を担当に付け、民事事件として、その解決に当たらせてくれた。
しかし、残念ながら3名の弁護士の力不足で、執拗な右翼団体・暴力団の脅迫を止める事が出来ませんでした。
小多仁伯は、已む無く、その後ひとりでこの狂犬たちと渡り合い、一応の解決を見出した。
そこへ藤井冨男・八尋頼雄が、相談が有ると言って来た。
話を聞くと、藤井氏は、複雑な顛末の流れについて何も分かってはいなかった。
聞いてみると、藤井氏の言い分は、ある右翼団体が私(小多仁)が「本部職員」でいる事にクレームを付けて来ている、「小多仁を本部から放逐せよ」と言って来た、これに従がわなければ身近に迫った「都議会選挙」の妨害をし街宣車を出すからとの脅迫を受けているから「責任を取れ」、という理不尽な言い掛かりでした。
この事がキッカケで、この後結局、小多仁伯は退職した。
私(宇田雄一)も、これまでに2回職場を解雇されましたが、私の雇用者にこういう犯罪が来たからだろう、と推測しています。
この様な手口という物は、周知ではないにしても知ってる人の間では常識に成っている様な手口だろうと思う。
子供の頃わたしは大人に「暴力団はどういう暴力を振るうのか?」と質問し、「暴力は振るわずに済ませるのが基本なんだ」という返答を聞いた事が有る。
暴力ではないそういう犯罪をする人々が暴力団と呼ばれていて、その事は間違ってませんよね。
つまり、暴力ではないそういう犯罪も実質上は暴力なんですよ。

西遊記というテレビ・ドラマで三蔵法師が孫悟空をキンコキョウでこらしめる話は、三蔵法師が暴力を懲らしめるという理由で暴力を振るっている実例である。

(12) もし間違っていたらいけないので念のためにこうする、という対処法が妥当なのは、もし間違ってなかったら大変だという事が無い場合だけである。
もし間違ってなかったら大変だという事が有れば、同時に、もし間違っていたら大変だという場合でも、間違っている場合の行動を念の為に選択するというやり方は正しくないのである。

(13) 今「どんな事が有っても暴力はいけない」と言っている勢力は、最初は「どんな事が有っても殺人はいけない」と言っていた。
長い年月が経過し「どんな事が有っても殺人はいけない」という考えが途中から出て来た事をみんなが忘れたのを見計らって今度は「どんな事が有っても暴力はいけない」と言い始めている。
これを黙認すれば、次は「どんな事が有っても・・・と言ってはいけない」と言い始めるに違いない。
犯人は最初からそのつもりである。
広い意味では、これもサラミ・スライスのやり方と言えるだろう。

(14) 「どんな事が有っても○×は許されない」なら、○×させれば殺せる事に成ってしまう。
そんな事は無いのだけれど、「どんな事が有っても暴力は許されない」という間違ったルールを通用させようとしている勢力は、そう考えている。
本当は、どんな事が有っても殺人は許されないのなら殺人犯を死刑にする事も許されない事に成る。
これは(4)の理屈です。
本当はそうなのに、「殺したり暴行したりする理由として何なら正当だと認められるのですか?」という風に質問して来る(9)の人、そういう人が「殺人や暴行への処罰という理由なら正当ですよね?」という風にねだる、それが「どんな事が有っても暴力は許されない」という言葉の正体です。



言論職の人が、間違っていると分かっていて「どんな事が有っても暴力は許されない」と職務で発言するのは汚職である。

時間が無いので、続きは後で書きます。

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多分2024年08月06日に、寝床で「インターネットで暴力を扇動する行為も刑事罰の対象とする事に成った」というテレビの音声を聞いた。
当ページに「裁判で死刑判決が出るか否かを左右する証言でウソをついたり、故意に間違った判決を出す行為も、実質上は暴力です」という意味の文を加筆してから24時間以内の事だった。
「暴力を扇動する」という言い方はおかしいよな。
「暴力行為を扇動する」なら正しいけど。
当ページの様な一般理論を取り締まるぞ、と言いたいからではないだろうか。
しかし、言論を取り締まるのは暴力ですよ、その言論が暴力を肯定する内容の言論であっても、言い返すだけなら別だけど。


最終編集2024年08月07日