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2022年10月19日(水曜日)
巨悪がかぶる仮面の実例

08日@2022年02月@日記の冒頭や30日@2022年03月@日記04日@2022年07月@日記の後半で私が報告した証拠によって裏付けられる商業施設内での集団ストーカー犯材を揉み消そうとする悪質な広告が最近テレビや新聞でしつこく見られる様に成ったので、それを今日は指摘します。

「たたくよりたたえあおう」というキャッチフレーズでAC JAPANが打っている広告です。
23日@2022年07月@日記の末尾で言及されている広告です。

動画資料
テレビ画面をデジカメで撮影したので、天井の室内照明の光がテレビ画面に反射して写り込んでいます。

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2022 0711 2355

最近写真の種類のACジャパンの広告がうるさい。
ACジャパンの他の広告もうるさかったと思う。
また、テレビで放送される頻度に異常が感じられる。
繰り返し放送されてしつこいと感じた。
テレビの商業広告が減ると、こういう広告で埋めるという話を聞いた事がある。
悪気なく考えるとそれだろうけど、実際にはこれも私への誹謗中傷だろう。


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2022 0725 1349

 

 

 



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2022 0908 0031

たたくよりたたえあおうACジャパンのテレビコマーシャルが新聞にこんなに大きく。
こんなものでコンビニ外壁の静かにしてください看板やフジグランの歩行衝突注意貼り紙の意味を誤魔化そうとは許せない。


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テレビコマーシャルを何ヶ月にも渡って、新聞も1ページ丸ごと買い取って、というのは大変な力の入れようです。
テレビコマーシャルは女性歌手の声が良いし器楽も最新の風味で手話まで入ってメジャー仕立てだ。
そんじょそこらの自発的なコソ泥が単独でなくても少しぐらい人数を集めて協力し合っても、ここまでは出来ないでしょう。
大きな財力を持っている犯人が尋常ではない熱心さでやっている事が分かります。
集団ストーカーの意向に逆らうと、たとえ法律に「これはあなたの自由です」と書かれている事をやっただけでも、この様な大きな力を持った犯罪者集団が熱心につぶしに掛かって来ます。
そして、そのやり方は、自分達はお前より大きな力を持っているのでお前の方が正しくても自分達の方が間違っていてもお前は自分達に従がわなければいけないんだ、という体裁で潰しに掛かって来る、というものではなく、お前の態度がそういう態度なんだ、という風に表現して人を騙し、被害者を悪者に仕立て上げる事によって被害者が正当な制裁を受けるという形に持って行こうとします。
そういう態度とは、自分の方が力が強いから自分の方が間違っていてもお前は自分に従がえ、という態度です。
悪者に仕立て上げる理由は、自分達は間違ってるけど強く、したがって、その力に物を言わせて間違った事を押し通している、と認識する事に自尊心が耐えられない事と、問題をそこで終わらせたい事です。
悪者が正当な制裁を受けた、という形ではなく、誰かが不当な被害を受けた、と広く認識されてしまうと、問題が未解決だと認識され、それを解決しようとする運動が続いてしまいます。
犯人達は、これを避けようとしているのです。

「たたくよりたたえあおう」を見たら分かる様に、この表現に反対すると、反対した人の方が悪く見えてしまう事でしょう。
一見すると、「たたくよりたたえあおう」と言ってる人は非暴力的な人で、それに反対する人は暴力的な人だ、という風に見えてしまう事でしょう。
しかし本当は、たたくよりたたえあう方が常に正しい、なんて事はありません。
悪い事や人はたたく、良い事や人はたたえる、のが正しいのであって、悪い事や人も良い事や人と同様にたたえるのは間違っています。
たたくのは常に悪い事でたたえるのは常に良い事だと言うと、一見正しく聞こえますが、悪い人や事をたたえるのはその被害者をたたくのと同じです。
この様に散文で書くとボコボコに反論されてしまうから、歌の歌詞という体裁を言い訳にしているのでしょう。

映画やテレビドラマも、このテイストの作品には集団ストーカー工作が仕込まれている、と考えた方が良かろう。
黒澤明監督の映画「あかひげ」には、精神病に対する他害性の偏見をこじつける様なシーンが有ったよ。
今なら「わざとらしい」と感じる事が出来る人も多いんじゃないかなあ。
オリンピックにパラリンピックがついたりとか、LGBTの権利促進とか、男女平等促進とか、こういった変化は、全部この流れに属しているだろう。
今では批判されるようになったが、昔のアメリカ映画で襲って来たインデアンをやっつける、といった表現が見られたのも、おそらくこれだろう。

過去に似た様な表現を見た事が有ります。
「犯人探しはやめようよ」という発言をテレビのバラエティー番組で聞きました。
犯人探しは必要な事です。
同じ犯罪が繰り返されないようにするためには犯人を見付けてどうかする必要が有るからです。
誰が何のためにそういう犯罪をしたのか知る必要が有ります。
そうしないと、同じ犯罪の被害が今後も出続けます。
だから「犯人探しはやめようよ」というのは単に間違っているどころか真っ逆さまなのです。
そんな真っ逆さまの事でもまことしやかな語調で言うと受け入れられてしまう場合が有る、という法則が存在しているようです。
「空気読め」でおなじみの空気の作用でそういう風に成ってしまう。
「たたくよりたたえあおう」もその一例だし、「犯人探しはやめようよ」を聞いた回数は結構多い。
分断はいけない、という意見も、言い方が違うだけで、同じ事を言ってる。
分断はいけないなんて、イクオール同和じゃないか。
同和の意見は、そんなに多くの賛同を得られていないし、大反対する人も多いはずだ。
それなのに、分断はいけない、と言うと、さも正しい事を言ってるように聞こえる。
そこがクセモノなのである。

似た表現に「なめてはいけない」「なめるなよ」「馬鹿にするなよ」というのが有る。
こちらのポイントは、なめてはいけないか否かは「なめる」の意味と「いけない」の意味によって変わる点だ。
聞き手が善意に解釈して、なめてはいけない、が成り立つ様な「なめる」の意味と「いけない」の意味を選び、それで「なめてはいけない」を承認させておいて、犯人達は承認されたのとは別の「なめる」の意味と「いけない」の意味で、なめてはいけない、が承認された、という風に持って行くのである。
「いけない」について言うと、ゴルフのスイングで「そのやり方ではいけない」というのもいけないだし、いけないから殺しても構わない、という種類の「いけない」だってあるわけよ。
「いけない」のこの様な多義性を悪用するんだよ、集団ストーカーは。

広島県内での交通衝突についてだったと思うが、被害者の大きく歪んだ自転車の写真入りで、飲酒運転撲滅キャンペーンの広告が新聞の丸ごと1ページを使って表現されていた日が何年も前にあった。
犯人が衝突時に酒気帯び状態だったという事で。
広島県知事の湯崎英彦さんも、全くの飲酒運転の問題だという前提の発言しかしなかった。
当時は、まだ「あおり運転」という視点が表面化していなかった。
間違いなくあおり運転故意殺人のケースだと私は思っている。
これまでにも私は何回も言って来た事だが、「あおり運転」という言葉が不当に犯人をかばっている。
本当は「暴運転」と言うべきだ。
殺しても「あおり」なのか。
ハッキリおかしいんだよ。

あおり運転が長期潜伏できたのも、統一教会が長期潜伏できたのも、「たたくよりたたえあおう」を見て分かるような巨大な揉み消し力が働いているからだ。

千葉県に住んでいた1993年か1994年に私は、海岸に近い方の鉄道の駅で切符を買う時に、券売機に先着して私の前で釣銭名目でまごついているふりをしているらしい人を見た。
そのせいで私は電車に乗り遅れたのではなかったか。
私を狙った故意の犯罪である事がその当時の私にも分かった。
コンビにだと分かり難いけれど、鉄道の券売機だと乗り遅れさそうとしている事が分かり易い。
それをコンビニで表現されると、何でそんな事ぐらいで、と思われてしまうわけだ。
また、2022年10月13日にコンビニに行った時もそうだったけど、私がコンビニ店内のATMを使っていると、真後ろに次の客の体裁で集団ストーカー犯人が来る事が多い。
決まって来る、と言っても過言ではない。
これは何を狙ってるかと言うと、私の様な善人は、後ろに待ってる人が居るとつい急いで貴重品を置き忘れたまま去ってしまう傾向が有る。
それと後ろから暗証番号を盗み見る事を狙ってるんだよ。
この種の集団ストーカー犯人を有りそうだと感じるには、ハゲタカというテレビドラマだったか映画だったかに似た犯人が出てるよ。
よく覚えてないけど、鉄道のホームに来てるのを主人公が鉄道の車内から見るのだったか。
ああいうニュアンスの集団ストーカー犯人が来る。

いつ頃からか「リスペクト」ないし「レスペクト」という言葉がよく聞かれる様に成っているが、これは以下のエピソードに由来すると思われる。
1994年に私は幕張メッセでイヴェント警備のアルバイトをした。
その時に通行禁止のある出入り口に来た外国人に「別の出入り口を使って下さい」という意味を伝えるために「with respect to」という英熟語を使った。
その外国人の言い分を考慮してもあっちの出入り口を使って下さい、と言いたかった。
しばらくしてから、その外国人が口で私に「ぶー」と言いながら歩行通過した。
あなたの言い分だとあっちの出入り口の方が便利ですよ、という風に伝わってしまったようだ。
「even with respect to」と言うべきだった、と私はその時思った。
今にして思えば、「with respect to」ではなく「taking into account」の方が適切だろう。
尊敬というものはされないのが当然であり、尊敬される事は人生の目標にする人が居るぐらいの事なのに、それを「尊敬しろ」「お前は尊敬してないから失礼だ」といった法外な事を言う人が増えたのは、そのエピソードがキッカケではないか。
馬鹿げている。