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2014年02月27日(木曜日) | ||||||||||
第1種のペテンの現代版 | ||||||||||
2012年01月18日の記事で指摘されている第1種のペテンの影響は減衰せずに現代社会においても残存している事が、通貨の総量の意味についての2014年01月30日の記事の考察から、分かる。 この事は、2012年01月15日の記事に書かれている「減衰して行ったのか?・・・保持されているのか?」という問いに対する答えが、保持されている、である事を意味する。 さて、どうしてそう言えるか。 2014年01月30日の記事の図を見ると、義務の合計は必要な消費量の合計よりも通貨の総量の分だけ少ない事が分かる。 したがって、全ての人が、生産は義務の分だけ行ないそれ以上には行わず残りの必要な消費財はお金で購入する、という態度を取れば、取引が不成立と成り貨幣経済は破綻する。 経済を擬人化して言うと、経済にとっては、そう成らないために、必要のない物を各人にお金で買ってもらう事、が論理的に絶対に必要である。 この事が、みんなに隠され続けて来たのではないか、と私は思う。 つまり、お金には公称されているだけの信用力は論理的に有り得ない、のである。 ひょっとすると、社会主義が行き詰まったのは、良く言われる様な生産意欲等の心理的要因によるのではなく、それが必需品経済だったからだ、という間抜けな理由によるのではないか。 どうしてそんな事に成るのか、と言うと、それは、貨幣経済という物が、正規の、ではあるけれど、無限連鎖講だからです。 貨幣経済が無限連鎖講である様子は、2012年01月15日の記事に、書かれています。 経済にとって必要だから買え、と言ったのでは納得が得られず、誰も従ってくれないので、それを隠した上で、経済に参加している各人が知らず知らずのうちに自分でそうする様に、こそこそと色々な工作が行なわれている可能性がある。 個々の人については必ずしも成り立たないが、当然の事ながら、全体としては、どうしても必要な分だけは必ず生産しているのである。 したがって、通貨は、実際には元のまま全然減ってない実質上の義務を減ったかの様に錯覚させる道具だ、と言える。 実質上の義務は、個々人が義務感によって果たす義務と、知らず知らずのうちに自分から進んでする消費(購買)の、和によって構成される。 そして、本人は自由意思でやってると思っている消費(購買)も、経済にとっては、何が何でもしてもらわねばならない行為だ、という意味で、実質上の義務に成っている。 その意味で、通貨の導入は実質上の義務の上乗せだ、と言える。 何が何でも、を見抜いたという意味で、本稿における私の洞察は高岡英夫の武道についての洞察に匹敵する物だ、と言える。 個々人がその義務を受け入れるのは、与益に対して通貨で支払いを受ける時だ。 この時に、その通貨で無条件に必需品を買えるわけではない、という条件を呑まされており、全体としては、無条件には買えない、どころか、通貨では必需品は全く買えないのである。 おっと、こいつぁー、いけねえ。 これが、何世紀もの間衆生を煙に巻き尻尾をつかまれずに苦しめ続けたお金という悪魔の正体、である。 宇田経済学@持論@学問 |
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