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僕は19pXJ-1「大学物理での保存則」と28pSL-11「新文法版シュレディンガー方程式」を発表した。 XJ会場では、自分の発表をする前に見た他者の発表のうちで、物理オリンピックについての発表について、物理オリンピックに参加してメダルを獲得なさったという生徒さんの感想が、印象に残っている。 その感想は「物理オリンピックには虚しい面がある」という内容を含むものでした。 この感想の陳述の後、会場の皆は拍手し、僕も拍手したのですが、何か「オメデトウございました」みたいな感じで終わりそうに成ったので、僕は「あれ?その生徒さんの言いたい事が会場の皆に伝わっていないのかな?」と心配して挙手し「今の感想の中には物理オリンピックに対する非常に厳しい批判が含まれていると思うのですが、その点についてはいかがお考えですか?」と発表者に質問した。 すると、発表者は、アイコンタクトと小さな声で「○○君の言ってるのは、もっと物理そのものをやりたかった、という事でしょ?」という意味の事を言って、感想を述べた生徒さんと了解し合った。 僕は、この了解内容をこそ会場のみんなで共有すべきだったと思う。 この時感想を述べてくださった生徒さんへ(もしここを御覧になっていれば)。 僕の考えは次のごとくです。 まず、発達段階に応じた達成目標ついて。 僕は、才能→能力→業績、という風に日頃から言っています。 つまり、幼少の頃には能力が未熟であっても才能が有れば満足して良く、成人する頃には才能に甘んじるだけでは駄目で能力の優劣が問われ始め、その後人生を通しては能力を活かして如何に業績を残せたかが問われる、という風にです。 物理オリンピックで良い成績を収めた事は、その年齢相応の課題に対しての優れた能力の証明と言えます。 能力の達成と証明であって未だ業績に至ってはいない、という点が、虚しさの原因の1つではないでしょうか? スポーツの場合は、競技会で賞を受ける等の能力の達成と証明が業績(スポーツ文化への貢献)でもある、という色彩が強いのですが、学問の場合には、業績と言うと、自分以外の人は誰も知らない新しい事を考え出して自分以外の人に教える必要があります。 この他に、知っている人の知識を知っていない人に伝える伝達も業績ですが、自分以外の誰かが既にやっている事を、自分にも出来るよ、という風に、自分の能力を証明して見せる事は、業績には至りません。 業績であるかそれ未満であるかの違いは、社会に何か遺産を残せたか否かの違いです。 「後に何も残らない気がする」という感想は、そういう部分を感じ取った故ではないでしょうか? これ以外に、自分にとって何も残らなかった、という意味においての虚しさが考えられると思います。 「もっと物理そのものをやりたかった」というのが本当なら、こちらの方が当たっているのかもしれませんね。 それは、物理オリンピックが、競技として成立させるために、障害物競走に成ってしまっていて、物理学ではなくなってしまっている、という事かもしれません。 これは、元来殺し合いである武道の試合についてすら言われている事です。 安全な試合として成立させるためには殺し合うわけに行かず、その武道本来の持ち味が減殺されてしまう、という指摘です。 であるから、元来勝負事ではない物理学においては、なおさらの事です。 この点を改善するためには、昔の中国の科挙試験に倣うと良いかもしれません。 でも、能力の証明も捨てたものじゃあありませんよ。 もし将来、物理学の研究をやっていて、なかなか成果を上げられず「自分はいつまでもこんな事をやっていて良いんだろうか?」と思う事があったり、他者から「お前はいつまでそんな事をやっているんだ?いい加減にやめろ」と言われる事があったときに、研究を続行するか否かを決める判断材料と成ります。 競技内容がいかに物理の本質からかけ離れていたとしても、その種目の精鋭の集まる競技会で勝てた、という事実は、能力の優秀性に関する何らかの真実を含んでいるはずです。 そうでなかったら、物理オリンピックの主催者は、本当に深刻な反省を強いられるでしょう。 年齢的に、今はまだ能力追求の段階ですから、物理オリンピックは終点ではなく通過点だ、という事をわきまえて向上心を持ち続ける限りにおいては、現時点での能力達成を素直に喜んで良いのでは。 以上が、物理オリンピックについての僕の考えです。 さて、僕自身の発表について書きましょう。 19pXJ-1について。 講演概要に書かれている事以外に、OHPに描かれている様に、物理学の大学レベルでの保存則のイメージを、お金に喩えて、収入-支出=貯蓄の増加、および、自分の収入=他人の支出、という法則が、全ての人に渡って成り立っている状況、というものを示した。 その上で、それを物理学の学習事項の具体例に当てはめて、ρとして電荷密度を考え、Jとして電流密度を考えれば、電荷保存則になり、高校物理のキルヒホフの第1法則はその特別な場合と見なされる事、収入や支出として仕事や熱量を考えれば、エネルギー保存則になり、高校物理以来の熱力学の第1法則はその特別な場合と見なされる事、収入や支出として力積を考えれば、運動量保存則となり、自分の収入=他人の支出、という法則は、作用反作用の法則に該当する事、を指摘した。 ただし、電荷保存則以外の上に述べた保存則については、場の理論を学ぶよりも前の段階では、それらが大学物理での保存則の特別な場合と見なされる、という主張は、正確な意味で∂ρ/∂t+∇・J=0の具体例に成っている、という事ではなく、収入-支出=貯蓄の増加、および、自分の収入=他人の支出、という型にはめて認識される、という比喩的な意味での事だ、と断った。 ∂ρ/∂t+∇・J=0という式については、右辺がゼロである事は、お金に喩えると、お金の湧き出し口や吸い込み口が存在しない事、すなわち、造幣等が行われない事、を意味し、保存則が論理的な当然ではなく実験による反証が可能な物理法則である事を意味する、と解説した。 ここまでは良かったが、この辺りから少し時間的にきつく成って来て、厳密主義については、僕は舌足らずに成ってしまい、下手をすると聴き手がそれを逆の意味に取ってしまった嫌いがある。 大意としては「厳密主義的批判も良いが、それによって物理学の存在意義が否定される事はない」という意味の事を言いたかったのだが、どうも「以上に述べたように、保存則に対する初等的な理解は厳密ではないのでいけない。それに比べて大学物理で習得すべき保存則は厳密である。何事も厳密化が肝心だ」という風に僕が言っている、と思った人が居たらしい。 つまり、散逸があるので保存則なんて厳密には成り立たない、といった批判はハズレているが、当たっていたとしても、それは浅薄な厳密主義に属するし、もっと高級な厳密主義的批判についても、それによって物理学の存在意義が否定されるものではない、という風に僕は伝えたかった。 僕の話し方は、聴き様によればその様にも聞こえる話し方には達していたが、誤解を完全に防ぐ話し方には達していなかった。 そのため、質疑応答時間に「それで良いんじゃあないでしょうか?」という、僕の発表の価値に対して否定的なニュアンスのコメントを頂いた。 僕は「それ」の内容を特定しようとして聴き返し、どうも「それ」の内容が、保存則の発展的理解が初等的理解を超克する事らしい、と分かるに及び、言いたい事が伝わっていないらしい、と気付いたが、十分な補足説明をする時間は残っていなかった。 「僕も、良くない、とは言ってませんよ」とコメントした時点で、タイムアップと成った。 「それで良いんじゃあないでしょうか?」というコメントが、僕の発表の価値に対して否定的なニュアンスを持っていた、という事は、「それ」の内容を特定しようとして僕が聴き返したときに、「・・・そういう風にして物理は概念を精密化して来たわけですよね。・・・それで何も問題は無い」との返答を得た事からも分かる。 僕の発表は、保存則自体に関しては、全くの正論そのもので、保存則に対して、それに何か問題があるとか、何か新しい事実や理解を発見したとか、そういったものではない。 もし、その様なものであれば、僕はそれを、物理教育の会場でではなく、研究領域の会場で発表した事だろう。 僕の発表の意義を正しく理解するには、僕の発表を、学生相手の授業だと仮に見なすだけで良い。 そうすれば、保存則についての指導実態には欠けていて、僕の説明のやり方に見習うべき点があるはずだ。 その部分が僕の発表内容だ。 色々な所で散り散りバラバラに出て来る諸事項を、保存則の名の下に召集し、保存則の型に当てはめて見せた事(初等的な知識の発展的な段階での捉え直しの顕在化)は、良い手本だと思っている。 もちろん、その中に新発見が全く含まれていないからには、賢い生徒は先生に言われずとも自分で気付く事だが。質疑応答に入る前に、「教え過ぎるな」という意見に対する僕の考えを、問題提起の形で述べた。 短い発表時間に少し詰め込み過ぎたかもしれない。 僕の発表には、痒い所に手が届くよう心掛けた豆知識的なものが多く、今回の発表もそういうものだったので、それに対する「教え過ぎるな」という批判を先取りした形で、「教え過ぎるな?」というタイトルのOHPに書かれている問題を「僕にも答えは分かりませんが」と言いながら提起した。 先生が完全無欠だと、生徒は勝ち目がないと感じて、やる気を無くすかもしれない。 でも、日本の武道の教育システムなんかでは、先生を絶対化する事によって、教育の効果を高めようとしているかに見える。 生徒の知識化よりも生徒の有能化が重視されればされるほど、教え過ぎず出来るだけ生徒に自分で考えさせるべきだ、という方針の妥当性が増加するが、生徒を知識化する事によって有能化する、というのが理科教育のスタンスだと思う。 生徒が自力で答えたのでは死ぬまで正しい答えに辿り着く事が出来ないものについてまで、答えを教えず生徒に自分で考えさせるべきだ、とまで言えるだろうか? このような話をした。 事実、僕は、ある正直な若者から「宇田の教材には自分が思い付くであろう事が先に全て書かれていて、自分の独創性の活躍する余地が無いと感じるから、読む気がしない」と言われた事がある。 武道の教育システムについては、僕は、それを全肯定しているわけではなく、教育において不条理は一切無い方が良く、教育効果を高めるために不条理を取り入れると、その副作用で結局は総合的な教育効果が低下するだろう、と僕は考えている。 少なくとも、生徒の道徳性が不条理を是とするようなものに歪められる危険性が非常に大きい。 質疑応答時間に入ってから、まず、質問が出ないので、講演概要の末尾に書かれている「理尊工卑的価値観への強い反発」の具体的内容を分かってもらうために、僕が批判の対象にしている大先生は「アメリカでノーベル物理学賞受賞者が増えだした頃からアメリカの工業は衰退した。そういう価値観(ノーベル物理学賞的な価値観)は間違っている」と苦々しそうに言っていた事を、引き合いに出した。 これは、僕が嫌う「チキショー、馬鹿にしやがって」といった類の意見、の一例だ。 「それで良いんじゃないでしょうか」というコメントを頂いたのはその後だ。 僕は、学会会場でもここでも、学生と呼ぶべき人を生徒と呼んで(書いて)しまった。 ゴメンなさいネ。 この発表の保存則の考え方の他の応用例は、価値保存の法則@宇田経済学@持論に書かれています。
SL会場にも早めに着いたので午前中のセッションを最初から全部見た。 僕は不勉強でそれらを良く理解できなかったので黙っておこうかと思ったが、ついつい28aSL-9と28aSL-11に対して質問をしてしまった。 28aSL-9については、セッションが終わった後にも、休憩時間に発表者に話し掛け、発表内容に含まれていた「弦理論の統計がブラックホールの熱力学的な量についての既に知られている関係式を再現する」という部分について「それは弦理論の正しさを立証するものとして、どの程度の証拠能力を持つのか?」という質問をした。 つまり「弦理論が要素レベルで弦以前の理論の精密化に成っていれば、統計の結果が既存の結果と一致するのは当然なのではないか?」という質問だ。 これに対して発表者は「でも、初等的な統計力学が初等的な熱力学の結果を再現した事は、統計力学の正しさの裏付けと考えられた、ではないですか」などと返答してくださった。 僕は、漠然と、点場の理論の統計によって既に同じ答えが得られている、のかと思ったが、それは誤解で、そういうものはまだ無く、ブラックホールについては、弦理論の統計以外には、ブラックホールの熱力学しか無いのかもしれない。 そうだとすると、その人の言う事にも一理ある。 しかし、統計結果がどの基礎理論を使うかに鋭敏に依存する、という前提が無ければ、初等的なレベルでの統計力学と熱力学の一致は、逆に、統計結果と熱力学の一致は用いた基礎理論の検証には使えない、という考えに味方する。 しかし、その発表者は「弦理論の統計がブラックホールの熱力学を再現する事を弦理論の正しさの重要な証拠の1つと見なすのが通説です」とも言っていたので、事情に通じた人々の通説はそれなりに尊重に値すると思う。 何せ、僕は弦理論を正式には全く勉強してないので。 その上、僕は、無知なりに情勢判断して、日頃から弦理論には否定的な考えを持っているので、宇田の言う事はそういう偏った意見かもしれない、という認識を前提に、ここを読んで欲しい。 僕は、量子統計で計算したのか古典統計で計算したのか、とも尋ねたが、これは愚問だった。 一般に、古典統計による計算は量子統計による計算よりも難しいので、古典統計で計算する利点はどこにも無い。 セッション中の時間感覚で話したので、ついセカセカしてしまったが、もっとゆっくり話せば良かった。 休憩時間には皆そうしていた。 考えてみれば、学会大会は実際に顔を合わせる貴重な機会なのだから、出来るだけ人と関わらねば損だ。 28aSL-11については、まず「古典論のレベルでの場の理論の文法に代わる新文法ですか?」と質問して、発表者にその意図が伝わらなかった。 発表者は「へ?文法?」という風に訊き返して来たので、僕の使う意味での「文法」という語が分からなかったらしい。 分からなくて当然。 発表者に非は無い。 そこで僕は「古典場の理論の文法と言うのは、場を時空座標の関数として表す事です。古典場の理論の文法に代わる新文法と言うのは、同じ古典場を、それとは異なる数学概念で表す事です。あなたの提案はそういう新文法の提案ですか?」という意味の事を言って補足した。 この補足説明の冒頭部分で会場内に少しだけ笑い声の合唱が生じた。 僕の発言がトンチンカンに成ると直感した人々によるものだろう。 しかし、僕によるその補足説明が終わる頃には誰も笑い声を出してはいなかった。 発表者は「そのうちの時空座標部分についてです」と返答した。 それを受けて僕は「分かりました。それは新文法の提案と見なされます」と評価した。 時空座標として新しいものを考える、という事は、場を表す関数の定義域として新しいものを考える、という事だから、場を表す関数として新しいものを考える事の特別な場合と見なされる。 それに加えて、ついつい、もう一言「ローレンツ計量によって定まる時空の位相が不満足なものである、との認識が、ご提案の動機の1つに成っていますか?」と質問してしまった。 それに対して発表者は「ローレンツ計量には全く問題はありません」と返答した。 それを聞いて直ぐに、僕は「有難うございました」と言って質問を終了させた。 相対性理論や量子力学によってニュートン力学が否定された、とは言わず、ニュートン力学はニュートン力学で問題無い、と言うのに似た発言傾向(僕はこれを認めない)を僕は瞬間的に敏感に感じ取ったので、これ以上言うと押し問答に成って質問したい他の人に迷惑が掛かる、と判断したからだ。 僕には、ローレンツ計量によって定まる平坦な時空を極限として持ち、しかし、極限を取らなければそれとは違う時空が、提案されたのでは、と思った。 しかし、僕の勘違いかもしれない。 この発表で提案されたのは、スーパースペースと呼ばれる物理概念の特別な場合らしかった。 「スーパースペース」という語は以前から何度も耳にしていたが、これを機会に僕は、僕の文法主義サイトの文法採集にスーパースペースを加える事にした。 28aSL-11の発表者は、発表終了後自分の席に戻る途中で、僕の席の直ぐ後ろを通過し、その際に僕に挨拶してくれたので、僕も挨拶で応じた。 28aSL-11の主旨は、スーパースペース一般の概念を打ち出す事ではなく、スーパースペースの巧妙な具体例を提案する事らしかったので、スーパースペース一般を知らない僕は質問すべきではなかったかもしれないが、予備知識の不十分な人は、僕以外にも参加していたので、そういう無知な人の代表者として、僕の質問にも意味があった気がする。 学会での発表資格と違って学会への参加資格は、物理学を専門としない人にも与えられるからだ。 通同士の質疑応答の妨げに成ってはいけないが、誰も挙手しない様であれば、僕のような無知な質問もして良い、と思う。 誰かから「いけない」と言われたわけではない。 SL会場でのその他の発表については、所属がプリンストン高等研究所らしき人が発表していた事と、それとは別の発表の、良く通るきれいな声で「・・・言い換えると・・・また別の言い方をすると・・・」という風に1つの事項について非常にたくさんの言い換え(この事が原因と成って僕がその人を理知的と感じたかどうかは定かではない)を行っていた発表者の理知的な感じが、印象に残っている。 プリンストン高等研究所の研究職というのは、僕が憧れる唯一の職位だ。 逆に言うと、僕は、職位というものに対しては、それが如何に世間的に高いステイタスを持っていても、ことごとく憧れを持たない(業績が肝心なのであって職位はどうでも良いと考える)価値観の持ち主で、職位が憧れの対象と成る事は、僕においては例外的な出来事なのだ。 さらに、僕が憧れ(という言い方も正確ではないかもしれないが)を持つのは、プリンストン高等研究所の終身所員というアインシュタインが就いていた職位だけで、それ以外の職位については、他の一流の研究機関と特に違うとも思わない。 また、近年のインターネットの爆発的な普及に伴い、地理アドレスによって特徴付けられる機関というもののステイタスは、インターネット上のウェブアドレスによって特徴付けられる機関に比べて、相対的に低下し、時代遅れなもの、と感じられようになった。 これは僕一人だけの感じ方ではなかろう。 28aSL後半セッションの座長を務めておられた東京大学所属の発表者さんの発表(28pSL前半)も非常に理知的な感じだった。 SL会場では、明示的に論駁された発表は無かったが、質疑応答を聞いていて、この発表はあまり高く評価されていないな、と感じるものもあった。 セッションが始まる前に講演概要集をパラパラめくっていて、27pSL-1の講演概要が目に入り「うん、その点が知りたい」と思った。 と言っても、僕に理解できたのは、そこに書かれていた事のほんの一部分だけだったが。 さて、ここから、僕の発表28pSL-11について書く。 まず、1枚目のOHPを見せて、このテーマについての僕自身による先行する発表をポイントした。 「日本物理学会2005年秋季大会15aSD-12」「日本物理学会2006年春季大会27pXA-6」「日米物理学会合同2006年秋季大会:International Outreach > Grammatical Physics (General)」以上3件だ。 次に、既に発表済みの新文法について、それが如何なるものなのかを、掻い摘んで説明した。 その際に、αの次元が1/(時間)である事と、講演概要に書かれている次元吸収因子βは不要である事を、コメントした。 βについては「気休めに付けても良いが、状態ベクトルはスカラー倍しても同じ状態を表すからβは必要ない。その代わりに波動関数ψに規格化を要求しない事にする。ψとしては任意の単位系での波動関数から単位を取り除いた無次元量(純数学関数)を考える。ψからΦを決めるときには一意的に決まるが、Φからψを決めるときにはスカラー倍の任意性が残るので、ψに規格化を要求すべきではない。このように考える事により、次元解析の観点からの新文法の破綻の心配は無い、と分かる」と述べた。 しかし、後で考えてみると、Φからψを決めるときに残るスカラー倍の任意性というものは、付加条件で殺す事も出来そうだ。 いずれにしろ、状態ベクトルはスカラー倍しても同じ状態を表す、という規約に依拠すれば、それらはどうでも良い事だ。 掻い摘んだ説明としては、僕の新文法のエッセンスが、時刻を自由度の番号のごとく見なして量子歴史を量子状態のごとく扱うものである事も、コメントした。 新文法の掻い摘んだ説明の後に、新文法版の方程式を作るための方法を提示した。 「立式の方針」というタイトルのOHPの下段に書かれているものだ。 ここからが今回の発表の内容だ。 補足として「通常のシュレディンガー方程式への帰着は、完全にでなくても良い。通常のシュレディンガー方程式とニュートンの運動方程式がエーレンフェストの定理で結ばれている程度に、新方程式と通常のシュレディンガー方程式が対応していさえすれば良い」という意味の事を述べた。 その後、今回の発表のメインのコンテンツである「これなんですけど・・・」というタイトルのOHPを映した。 その時に、会場に笑い声が少し生じた。 それが嘲笑だったのか、僕の「これなんですけど・・・」という型破りで洒落の利いた表現の粋を理解してのものだったのかは、分からない。 そこに提示されている方程式の意味(深い意味ではなく直接的な意味)を伝えるために僕の□記号の説明をした。 数 t に対する値が数χ(t-ε)であるような関数をχ(□-ε)と書く、という風に。 その様子を「χ'=χ(□-ε)」というタイトルのOHPで図示した。 さらに、大雑把に確認してみて、僕が今回提示した新方程式が次元解析に違反してもいないらしいと分かった事を、コメントとして付け加えた。 その際に、Φの値が無次元量である事への注意を、喚起した。 ここまでは、今回の発表分についても、次元の話以外はハワイで既に喋っている。 今回初めて学会発表したのは、その方程式の試作に対する評価と、代替案の候補だ。 1次元調和振動子について解を求めると講演概要に書いてあるような結果に成った事について、それが、方程式の試作の失敗を意味するのか成功を意味するのか判断に窮している事、もし失敗だとしても、χ'として、「その他の候補」というタイトルのOHPに書かれているものを使用し、それに合わせて方程式の右辺を書き換えると上手く行く可能性が残されている、という意味の事をしゃべった。 つまり、方程式が1つ失敗したぐらいでは新文法が否定された事にはならない、というわけだ。 さらに、その他の候補のうちの最初のものについては f はεに依存している事、第2の候補については新しいタイプの汎関数微分の提案と見なせる事、第3第4の候補はεを動かす事によってχ'を動かすときに、χ'がジワッと動くようにする(試作が失敗だったとしたらχ'がガツンと動くからいけなかったのかも知れない)もので、この候補を採用したときにはシュレディンガー方程式ではなくニュートンの運動方程式を念頭に置くのが適切かもしれない事、をコメントした。 δ(0)が t による積分の後現れるのではなく、被積分関数に現れるところを見ると、 f を用いる候補では駄目な気がする、とも言った。 ここまでの口述の中に、χ'を「カイダッシュ」と読まねばならないのに「エックスダッシュ」と読んでしまった部分が、ある。 最後に「迷惑でなく、むしろ、僕の問題提起によってネタ切れ状態から救われる人が居られれば、是非取り組んでみてください」という意味の事を言って、協力を呼び掛けた。 質疑応答に入って、素粒子論の発表会場で毎回顔を合わせる馴染みの参加者から「結局(あなたのは)数学の理論じゃないかと思う。素粒子論としての具体的な問題をどう解決できるか聞かせて頂きたい」とのコメントを頂いた。 こういうコメントは非常に助かる。 なぜなら、僕の新文法の提案に対する否定的な見解の理由はどれも苦しい言い訳であり、であるから、その言い訳を論駁するための口にするのもアホらしいぐらい至極当然な正論というものは常に存在しているからだ。 その正論の1つを述べるキッカケを与えてくれたから有り難い。 「良くぞ訊いてくれました」って所だ。 まず、理論的な新しい提案を行なうためには、それに先立って実験物理学上の未解決の問題が必要なのか?について。 物理学の未発達な段階ではそういう時代もあったし、今でも実験物理学の方が先な事もあるが、20世紀も後半になると、理論物理学が先に仮説を出して実験物理学が後でそれを検証する、という実験後追い型の研究スタイル(文法主義もこの延長線上にある)が確立された事、アインシュタイン以来物理学に審美的判断基準が導入されるようになった事(つまり、既存理論に対して、実験事実を上手く説明出来ないからではなく、その理論が十分に美しくないからという理由で、その理論は将来的に実験事実との食い違いを見せるはずだ、との見通しを立て、その見通しに立脚した研究を行なう事の価値が、学界で広く是認されるようになった事)、今でこそ理論家は、統一理論を目指すと称して既存の理論よりも大きな対称性を持つ仮説理論の提唱をする際に、エネルギースケールと関連付けてそれを正当化する点で、全くの審美的判断基準一辺倒ではないが、元々のアインシュタインの統一構想は審美的判断基準一辺倒だった、それなのに、アインシュタインの統一構想は、僕の提案に対してなされるような「何の必要があって?」という批判によって却下はされなかった事、その文脈で言うときに僕の新文法提案は如何なる審美的判断に依るかと言うと、量子論において時間が特別扱いされている事は美しくない、という審美的判断による事、大体こういう事を言った。 「全然そうは思わないけど」という風にスットボケル事が出来ないように、量子力学において時刻も演算子にしようと試みる先行する研究(失敗)があるらしいと聞いた(という事は当然その研究の価値は否定されていない)事(と、自分も昔それをやってみて上手く行かなかった事)、を付け加えた。 さらに、僕の新文法が如何なる実験物理学上の問題に関係すると予想されるか、について、高速現象、つまり、既存用語における量子状態が急速に変化する現象の観測結果に関係するかもしれない事、具体例として、既存の衝突実験では、(ディテクターを)遠くに構えて漸近状態しか観測しないのに対して、衝突領域をダイレクトに観測(技術的には不可能に近いぐらい難しいだろう)すると、既存の理論が間違っていて僕の新文法に立脚する何らかの新理論の方が正しい事が、立証される可能性がある事、を述べた。 僕の新文法による時間の扱いの改善について、少し口述を誤まった。 僕の新文法によって時間と空間が対等に扱われるようになるのは、量子力学のレベルにおいてではなく、場の量子論のレベルにおいてだけだった。 量子力学のレベルでも場の量子論のレベルでも、どちらでもそうなるかのような言い方を、してしまった。 ハイゼンベルグ描像では、僕の新文法を採用しなくても、既存の場の量子論において既に、時間と空間は対等に成っている、という意味の事も述べた。 発表会場でしゃべったのは、ここまで。
ここからは自室で書く。 僕の新文法を採用した場合は、シュレディンガー描像で時間と空間が対等に成る。 ここで、僕の新文法に対する評価の、ハイゼンベルグ描像とシュレディンガー描像とどちらの方がプライオリティが高いか?という問題への依存性が、生じるのだが。 こういう風に、少なくとも百年のスケールの文脈で自分の研究を語れないヤツは、高々N賞止まりよ。 念のために言っておくが、僕の新文法の提案論文が却下された際の却下理由としては、専ら「動機が不明だから。必要性が無いから」という理由が挙げられていただけで「既出だから」とは一言も書かれていなかった。 それ以前に僕の論文が却下された際には、却下理由として、既出である事がチャンと指摘されていた。 だから、既出だから却下したのだけれどそれを書かなかっただけ、という事でもない。 査読者は、これを見て、尻尾をつかまれないように、という事で、却下理由を書かない問答無用主義に成るなよ。 評価の誤りというものは、間違えたヤツを地獄に落とす事によってではなく、評価の誤りを正す事によってしか償われないよ。 以前、学会以外の場所で僕が「事実はお金で買う事は出来ない。事実は役務の負担と交換する事も出来ない」と言ったら、表立ってそれに反応した人の誰も、その言葉の意味を正しく理解する事が出来なかった。 この言葉の意味は「損害の負担や実益の提供によって、事実の真偽を左右する事は出来ないし、逆に、他者から何かしてもらったからといって、自分に関する事実は何ら減るものではない」という意味だ。 お金を払う事によって事実の真偽に関する人間の判定結果の発表内容を変えさせる不祥事が存在する事は、言うまでもないが。 僕が誰からどういう実益を与えられたかは、僕の言葉の正しさ、特に僕の自分に関する事実への言及内容、には関係ない、という意味だった。 損害を負う事によって事実の真偽を左右する事は出来ない、という事は、つまり、キリストの受難のごときものは、それで人間に関する何らかの(不都合な)客観的事実が変わるものではない、という意味において、全く何の足しにもならないのだ。 ここまでは自室で書いた。 ここから、また、僕以外の人による発表についての、会場での僕の発言について、書く。 28pSL-9と28pSL-10に対して僕は発言した。 28pSL-9については、全体としての本質的根本的な欠点というものが感じられ、そのため、非常にお粗末な印象を受けたのだが、僕にも即席でその欠点を言い当てる事は出来なかった。 そのため、僕はピンポイントでの欠点指摘をするにとどめた。 その指摘とは「あなたはスピンの向きが確定であると考えているが、スピンの向きが確定であると考える事は、量子力学の(スピン)角運動量の成分の非可換性に反する」というものであった。 しかし、これについては、後で、スピンの複数の成分を同時に測定できたとするニュースを耳にした。 全体を通しての本質的根本的な欠点というのは、たとえば、普通の意味での空間についての主張をアイソスピン空間についての主張にすり替えたり、良く言っても複数の仮説を並列的に提示しているに過ぎないのに、1つの仮説から他の全ての仮説が論理的に導き出されるかのような言い方をしていた事かな。 この発表者は湯川秀樹の素領域構想をベタ褒めしていたが、これには呆れた。 聞き手の中にも、その部分に「うんうん」と頷いている人が居るのを見て「気は確かか?」と僕は思った。 湯川秀樹の素領域構想ほど下手クソな考え方は無い、と僕は思うよ。 今の通が見れば100パーセント誰でもそう思うはずだ。 物質についての理論が素粒子論だから時空については素領域だ、って考えるわけだろ? カッコ悪過ぎ。 僕が査読者なら、そんな論文は即却下だな。 こういう所に良く出てるんだよ、ノーベル賞学者が書いたからテンで駄目な論文でも掲載する、という査読体質が。 28pSL-9の発表者は、湯川秀樹が場の量子論に反対していて素粒子を空間の状態と考えていた、と言ってたが、素粒子を空間の状態と考えるのは場の量子論の考え方なんだけどなあ。 これにも頷いてた人が居たなあ。 全然分かってない人にもドンドン参加して欲しいんだけどね。 28pSL-10は凄かったよ、黒板に模造紙を貼ったもんねえ。 禁止されては居ないのかもしれないけど、OHPか液晶プロジェクター、というのが一応学会標準だ。 黒板に貼った模造紙が皆に見えるように、プロジェクター用のスクリーンは巻き上げられ収納された。 これを見て僕は、自分の発表時間は大丈夫か?と心配した。 28pSL-10の発表内容は、相対性理論と中間子論に対する反論だった。 当然、相対性理論も中間子論も間違っていないから、それらに対する反証は必ず間違いを含んでおり、僕はそれを見付けて指摘すれば良いだけの話だった。 発表者の主張の中には「縦質量と横質量はどちらも質量だから両者は等しくなくてはいけない」という主張と「(核子と中間子を野球のボールのように描いた漫画を用いての)中間子論では核子間の引力が説明できない」という主張が含まれており、それらが、相対性理論と中間子論に対する反証の論拠として用いられていた。 僕が指摘したのは「縦質量と横質量がどちらも質量だからといって、それらが等しくないといけない、という事にはならない」という点と「(中間子論について)必ずしも漫画的に記述できるものではないのだが、漫画的に言うならば、引力の場合には、中間子は運動の向きと反対の向きの運動量を持つ、と考えれば良い」という点だ。 これに対して発表者は、古典力学の運動量の式を黒板に書いて「運動量ベクトルと速度ベクトルの向きは一致する」と訴えたが、それに対して僕は「量子論においても運動量と速度の向きが一致する、という事を証明しましたか」と訊き返し、返答が無いのを見て「証明してなければ中間子論の反証は完了してない事になりますね」と締めくくった。 漫画的には粒子交換によってでは引力が説明できない、という点については、僕は「目の付け所は良いと思う。偉い先生でもブーメランを使って説明するぐらいですから」とも言った。 ブーメランを使った説明の欠点は、ブーメランが空気と運動量のやり取りをする点だ。 今回の発表で僕は少なくとも2つの名セリフを残した。 1つは「言い様によっては、文法主義の審美的判断基準は、語呂の良さである。語呂の良い理論は本当らしいだろう、という感じなのだ」という発言。 もう1つは「漫画的に言うならば、引力の場合には、中間子は運動の向きと反対の向きの運動量を持つ」という発言だ。 あ、そうそう、そう言えば、28pSL-8に対しても僕はコメントしたのだった。 これは世代の統一についてだと昨日は思ったが、それは間違いで、今自室で昔自分が書いたノートを見てみると、28pSL-8は電弱統一についてらしい。 しかし、電弱統一はGlashow-Salam-Weinberg理論として既に達成されている。 昨日までは、有限次元行列をゲージボソンに対応させる点が、28pSL-8の最も本質的ないけないところかと思っていた。 フェルミオンを場としておきながら、ボソンが行列では釣り合いが取れないから。 アイソスピン空間での話なら、フェルミオンも有限次元空間内の点で表されるはず、などと思った。 そしてここにそのように書いた。 しかし、それは間違いだった。僕のノートのGlashow-Salam-Weinberg理論についての部分でも、ゲージボソンが有限次元行列と対応付けられていた。 それを書くときには、僕は一応その事に納得して書いたはずだ。 発表会場では僕は、ディラックのガンマ行列の表現の多様性について、コメントした。 ガンマ行列の定義だけからでは表現は無限個あるはずなのに、発表者は何かの条件を付けて、その条件を満たす表現は4通りだけだとしていた。 その条件を僕は問いただしたのだ。 その条件は実表現である事と直交性だった。 僕は、どちらの条件にも今一納得しなかったが、発表会場では、それ以上は言わなかった。 直交性の方に問題がある、と昨日まではズッと思っていた。 なぜなら、直交性と言うなら、それは何らかの添字のコントラクションによって定義されいていなくてはいけないはずなのに、発表者は、怪しげな碁盤目を用いて直交性を図示しただけで、コントラクションの式を全く提示しなかったから。 しかし、僕のノートにも、Zボソンは光子に直交する、と書かれているので、僕が分かっていないだけなのかもしれない。 むしろ、実条件の方が問題かもしれない。 行列においてはエルミート性が実の意味を担うから、エルミート性よりも厳しい条件を課す理由が見当たらない。 しかし、これ(実条件を課す事の不当性)についても僕は確信を持てない。 と考えると、既にGlashow-Salam-Weinberg理論によって電弱統一は達成されているのに、というところが、28pSL-8の一番おかしな点だったのかもしれない。 確かな事は詳しい人の判断に委ねたい。 28pSL-8の人は、27pSL-1の人に指導を受けると良いが、27pSL-1の人の都合もあるだろうから、それが実現すると期待してもいけなかろう。 |
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最終更新2016年01月07日 | ||||||||||||||||||||||||||
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