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このページは、執筆中・未完成です。

「~が・・・する(なる)ように狙って選択する」という言い回しは、私の相対正義論の真骨頂の1つです。
この言い回しの発明はノーベル平和賞に相当する、と私は考えています。

この言い回しで、英語文法の用語で言うと、他動詞表現の不正確さの弊害を回避できます。

例えば「矢で的を射た」という他動詞表現を考えてみましょう。
「矢で的を射た」というのは、「矢が的に当たる様に狙って矢を放ったら、矢が的に当たった」という内容を短く簡単化して表現した短縮形です。
これは私が独自に発見した学理ですが、その内容に反対する人は誰も居ないでしょう。
実は、私は中学1年生の英語を習い始めて直ぐの時に、この事を1回考えています。
その後ずっと忘れていました。

「矢が的に当たる様に狙って矢を放ったら、矢が的に当たった」という文には主語が2つ含まれています。
前半部分の主語は「私が」だと考えられます。
「矢が的に当たる様に狙って私が矢を放ったら、矢が的に当たった」
したがって、2つの主語は「私が」と「矢が」の2つです。
それなのに、「矢で的を射た」という言い方では、主語は「私は」だけに成っています。
私は矢で的を射た」
この様に主語を1つ省略している事が、他動詞表現の不正確なところです。
際どい問題を表現するのでなければ、この様な雑な他動詞表現で十分ですが、誰の責任かを問う正義論では、他動詞表現では必要な事を表現できません。
結論を言うと、人の責任が関係するのは「狙って放った」の部分だけでり、「的に当たった」の部分は人の責任とは無関係である、というのが私の相対正義論の学理です。

「人を包丁で刺し殺す」についても同様です。
この他動詞表現は、「人が死ぬ様に狙って包丁を刺したら、刺された人が死んだ」の短縮形だと考えられます。
私の相対正義論では、刺された人が死のうが死ぬまいが、人が死ぬ様に狙って包丁を刺したら殺人罪だ、と考えます。

「人が死ぬように狙って包丁刺す」では、まだ他動詞表現を使っています。
「包丁を刺す」を「包丁が刺さるように狙って手動かす」に言い換えても、まだ他動詞表現を使っています。
「手を動かす」を「手が動くように狙って筋肉に信号送る」に言い換えても、まだ他動詞表現を使っています。
「筋肉に信号を送る」を「筋肉に信号が届くように狙って選択する」に言い換えたときに、やっと自動詞表現だけの文に成ります。
英和辞典で調べると「選択する」という意味の英単語「select」にも「choose」にも自動詞用法が有る事が分かりました。
ただし、「choose」は選択肢の中から選ぶ場合らしいです。
まとめると、「人を包丁で刺し殺す」は、
「 [ { [ (人が死ぬ)ように包丁が刺さる ] ように手が動く } ような信号が筋肉に届く ]ように狙って選択する 」
という風に噛み砕けます。
はい天才です。

皮肉欄

(1) 矢が的に当たるように狙って選択する事なら出来るが、矢を的に当てる事なんて出来ないよ、私は矢じゃないんだから。

(2) あのなあ、結果というものはなあ、出すものじゃないんだよ、出るものなんだよ。




私は、これまで数十年の間に、助力の必要な他者に助力しなかったり、多くの職業を「自分にはてんで役不足だ」と言って蔑んだりして来ましたが、もし私がそれらのうちのどれかに足を取られてこけてしまったり、埋没してしまっていたら、ノーベル平和賞級の、いや、ノーベル平和賞はどんな仕事に与えるべきかを教える級の上記の学理は多分永遠に誰も言い出さず、その結果、人類は不条理の輪廻から永遠に解脱する事が出来なく成った事でしょう。
ピューリッツァー賞どころじゃないんだよ。
これが天才の責任感であり、天才の謙虚さである。
今まで私を無責任だと言ったり謙虚でないといってけなしてきた人々は思い知るがよい。
自分を安売りする事が謙虚で奉仕的な態度だと思ったら大間違いだ。
それは平和主義者でもない。
だから、本当の悪というものは、このページで私が解説しているような学理を発見されないようにする事をかなり最終目的に近い目的にしている。
「お前は為すべき事をしていない、しなさい」と呵責する事は、その目的を達成するための手段である。
全部ウソなんだよ、こいつらの言う事は。
私は、この事を何十年も前から意識し、ああ、また来たなあ、と思って来ました。
私に手伝って欲しいんじゃないんだよ、こいつらのは、私に正義を発見されては困るというのが本音なんだよ。

(人が死ぬ)という最終目的が同じなら、[包丁が刺さる]や{手が動く}や[信号が筋肉に届く]の部分が他のどんな途中目的(手段)に置き換えられても、一律殺人罪です。
一方、最終目的が禁止されていない事でも、途中目的のどれか1つでも禁止されていれば、全体としては、その禁止への違反に成ります。
つまり、最終目的と途中目的のどれも禁止されていない事が、その選択が正義にかなうための必要条件です。
最終目的が禁止されている事は、その選択が正義に反する為の十分条件です。
何年も前に、「正しい事をする為なら何をやっても許されるのか?」という反語表現がスレッドタイトルに成っているのを2ちゃんねる(インターネット掲示板)で見ました。
最終目的が正しくても、途中目的が間違っていれば、許されませんよ、もちろん。
しかし、例えば、防犯という物を考えるとき、手段が間違っているせいでその防犯が許されなくても、その防犯の対象と成っている犯罪だって許されないんですよ。
許されないからどうしたって言うんだ、という事も考えなくちゃいけない。
おそらく、何が許されて何が許されないかを根本から考え直さなきゃいけなくなるだろう。
それをやってるんだよ、私の相対正義論は。
「許されない」という言葉だけじゃ何を言ってるのか分からん、とかね。

最終目的が間違っていれば、手段をどう変えても無駄である、という当然の正義観を、例えば2022年に始まったウクライナ戦争に適用してみると、西側の理屈にもてんで話に成らない屁理屈が見られます。
武器を供与しているだけだから自分は戦争に参加していない、こんなのは屁理屈です。
ロシア兵が死ぬように狙って武器を供与しているのと、ロシア兵が死ぬように狙って鉄砲を撃ってるのとは、同程度の参戦です。
武力行使はいけないが経済制裁なら許される、というのも屁理屈です。
武力行使は人的損害を生じさせるからいけない、と言うなら、人的損害が生じるように狙っての経済制裁もいけない事に成ります。
同じ目的の達成が、やり方を変えれば、許されたり許されなかったり変わる、なんてのは屁理屈です。


敵は、例えば、「お前はどうなる」という形で犯行予告を行ないます。
例えば「お前みたいなやつは犯罪を犯す」というのが典型例です。
これは「我々の命令に従がわなければ我々はお前を~するぞ」という脅迫の文脈での事です。
他動詞で言わずに自動詞で言う事によって、脅迫罪を免れようと工夫しているわけです。




最終更新2023年05月19日