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安倍晋三首相の国会答弁などで、悪魔の証明という言葉が最近急に広く知れ渡る様に成った。 「それってパクリじゃないの」というタイトルだったか、テレビドラマの台詞にも悪魔の証明という言葉が使われていた。 どうせ既に私が知っている道理に付けられた名前に過ぎないだろうとは思っていたが、私も、それまでは、「悪魔の証明」という言葉の意味を知らなかった。 聞いてみると「存在しない事を証明せよ」というのが悪魔の証明なのだそうだ。 存在しない事を証明するのは難しいから、その証明責任を負わされれば圧倒的に不利、負わせれば圧倒的に有利、だから「証明しろ」という要求は悪魔が人を苦しめる様な無理な要求だ、といったニュアンスだろう。 そういう事なら私が説明しておきます。 存在しない事を証明するとは、任意の・・・に対して~が成り立たない事を証明するというタイプの証明です。 例えば、x + 1 = x を満たすxは存在しない、というのは、 任意のxに対して(x + 1 = x は成り立たない)、という事ですね。 この問題における「任意の」は「ANY」です。 つまり、悪魔の証明とはANYの証明であり、ANYの証明はSOMEの証明よりずっと難しいのが普通です、というのが悪魔の証明の教訓です。 それだけの事なのだから、ことさらに「悪魔の証明」なんて名前を付けるのは趣味が悪いと私は感じます。 ただ、「悪魔の証明」という言葉で宣伝された事によって、このページなどで私が説明している詭弁論駁というジャンルへの不特定多数人の意識が高まるのは、非常に良い事だと思う。 似たような例として、電気の導通試験を挙げる事が出来る。 電線などがつながっているかどうか、途中で切れてないかどうかの試験です。 両端に電圧を掛けて、電流が流れればつながっている、流れなければ途中で切れている、と判断できます。 しかし、両端に電圧をかけたときに端子が電線の両端にシッカリ接触していたかと問われれば、電線や端子の表面に風化で絶縁皮膜が出来ていてシッカリ接触していなかったかもしれない、と自信が無くなります。 一方、電流が流れたならば、接触していなかった事は絶対に無いわけだから、「(その時は)つながっていた」「(その時は)切れてなかった」と自信を持って答える事が出来ます。 つまり、「つながっている」「切れてない」という結果は確実ですが、「つながっていない」「切れている」という結果は不確実なわけです。 これが、「存在する」という結果は確実だが、「存在しない」という結果は不確実だ(見落としが有ったかもしれない)、という事情に似ています。 存在しない事を証明するのは一般に難しい、とは言っても「だから存在しない事を証明する義務は無いのだ」というのは、個別の問題に対しては間違っています。 「任意の・・・に対して~が成り立つ事を証明せよ」という形の問題を数学のテストで見た経験は誰にでも有るはずです。 Aが成り立たない事を証明せよ、というのは、notAが成り立つ事を証明せよ、という事ですから、数学的には両者に差は有りません。 「任意の・・・に対して~が成り立つ」 = 「~が成り立たない・・・は存在しない」。 また、Aに該当する人はこの中には居ない事を証明せよ、という問題は、確認しなければいけない人数が少なければ、必ずしも難しく有りません。 存在しない事を証明するのは難しい、というのは、あくまで一般的な傾向を述べた法則に過ぎず、存在しない事を証明せよという個別の問題なら簡単な物も幾らでも作れます。 また、存在しない事を証明するのは不可能だ、という法則は成り立ちません。 もし、存在しない事を証明するのは不可能だとすると、存在しない事を証明するのは不可能だという事を証明する事も出来ません。 存在しない事を証明するのは不可能だというのは、存在しない事を証明できる例は存在しないという事だからです。 ウソ吐きのパラドクスみたいですね。 マスコミから聞こえる「悪魔の証明」という言葉に毒されて、このような道理を見失わないようにして下さい。 したがって、安倍晋三首相の「それは悪魔の証明だから出来ないからしない」という国会答弁が正当だったか否かは、個別具体的な内容を確認しなければ判断できない事です。 野党の先生は、そういう風に反論するべきだったですね。 存在しない事を確認せざるを得ない個別の問題の代表例としては、数学などの具体的な証明問題への答案としての証明の中に間違いや論理の飛躍が無い事を確認せよ、という問題が挙げられます。 ポアンカレ予想のペレリマンによる証明など、数学の難問への回答が、多くの学者から「多分これで合ってるだろう」という評価までしか得られない、「これで間違いない」という評価は得られないのは、そういう確認が悪魔の証明だからです。 悪魔の証明は難しいけれど、だからやらなくてよい、というのではない事を表す例です。 |
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最終更新2023年05月24日 | ||||||||||||||
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