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例えば、
「何故あなたが大学に行かなければいけないのか?」とか、
「なぜ私がそんな事を言われなければいけないのか?」
「あなたは明日からは、もう来なくていい
「もういい
という言い方を状況に反して敵は使う。

大学に行く事については「大学に行ってもよい」という条件が成り立っていれば、行くか行かないかは本人の自由である。
「大学に行ってもよい」という条件が成り立っているので、じゃあ行こうかな、行きたいな、と思っている人に、敵が言う言葉が 「何故あなたが大学に行かなければいけないのか?」という言葉です。

MUST(なければいけない)とMAY(てもよい)を比較すると、何かをしなければいけないという条件が成立する事は、同じ事をしてもよいという条件が成立するよりもずっと難しい。
つまり、不等式で書くと MUST > MAY です。
あるいは、MUST = MAY + α と言ってもよい。
だから、MUST条件が成立する事を証明するのは、MAY条件が成立する事を証明するよりも、一般には難しい。
そこで敵は、証明せよと要求する際に、MUST条件が成立する事を証明せよ、と言って来るのである、そんな義務は無いのに。
「わたしは何も行かなければいけないから行くのではないよ、行ってもよいから行くだけであって」と言い返す事が考えられます。


「なぜ私がそんな事を言われなければいけないのか?」について。
これは、同じ内容を能動態で書く変わりに受動態で書く事によって、MAYをMUSTにすり替える手口です。
話者が言う = 言われ者が言われる、
故に、話者が言ってもよい(MAY) = 言われ者が言われなければいけない(MUST)。
個人の自由を尊重する考えに反対するタイプの人が、個人の自由を尊重する考えに賛成の人に向かって言うので、「言われなければいけない」という考えの一見すると自由を制限する主張に見える体裁上、個人の自由を尊重する考えに賛成の人は、言い返す言葉に詰まってしまう。
しかし、「話者が言ってもよい」という事と、「言われ者が言われなければいけない」という事とは、内容は同じですから、「なぜ私がそんな事を言われなければいけないのか?」と言われたら、「そんな事ぐらい言ってもかまわないからです」と言い返す事が考えられます。

言葉狩りをする人は、人の心を傷つける言葉を禁止しなければいけない、としますが、ここに私が挙げたような詭弁フレーズを言われると、私の実感では脳に怪我を負います。
この怪我は、失語症になったり目が見えなくなったりする種類の怪我と程度が違うだけで種類が同じだと感じています。
そして、そういう怪我を負わせにかかってくるのは、言葉狩りをするような人です。
一方、ホントのことを言われて心が傷付く、という場合は、そのような悪性の怪我を負う事は有りません。
だから、言葉狩りというのは偽善だと分かるのです。


「あなたは明日からは、もう来なくていい」について。
これは、MAYとMUSTをすり替える事によって言われた人の自由をより多く奪う、というのではないから、悪質度は低いが、でもいやらしい言い方です。
解雇宣告として使われるフレーズですね。
「来なくていい」と言ってるだけで「来てはいけない」とは言ってないから、明日からも来ても「来なくてもいい」という言いつけに背いた事には成りません。
では、明日からも今まで通り来たら何と言われるでしょうか?
「来なくていい」と言ったのが聞こえなかったのか、と言われるでしょう。
つまり、敵は「来なくていい」とは「来てはいけない」という意味だ、という理屈を認めなさい、という不条理な態度を取っているのであり、これはMAYとMUSTをすり替える詭弁です。
どうしてそんな詭弁を使うのか、その動機としては次の様な事が考えられます。
・ 責任逃れ
・ 実際よりも自分に有利、言われた人に不利な前提条件が成立していないのに成立しているかのように言う事によって、言われた人を侮辱する。

誰に対してであれ、義務を課す事には責任が伴います。
義務を課すからには、義務の内容が間違っていてはいけないし、間違ってなくても、他人にああしろこうしろと言うのは発言として重い。
「来てはいけない」と言ってしまったら、そういう問題を考えなくてはいけなくなるが、「来なくてもいい」と言っただけなら、言われた人の義務を減らす発言なので、そういう問題から開放される。
「来てはいけない」と言う自由は無いがが、「来なくてもいい」という事なら誰でも自由に言っていい。
これが責任逃れです。

前提条件云々については、こうです。
上司と部下という人間関係は、雇用契約が及ぶ範囲内でしか存在しません。
また、上司と部下という人間関係も、法の下の平等に基づいた解釈で貫かれた関係(殿様家来ごっこ)でなけれないけません。
したがって、雇用契約自体を問題にする時には、対等な人対人の関係で論じるのが正しく、言葉使いも、それに従がうのが本来です。
雇用契約締結前の就職活動で雇用者が被雇用者に宛てて書いた手紙の文面を見れば、そうなっているはずです。
解雇を言い渡すときには、本当は、このモードに戻るのが正しい、と私は考えます。
殿様が家来に言い渡す文体で解雇を言い渡すのでは、「いつまで殿様やってんねん」とのそしりを免れないだろう。

また、上司と部下という人間関係を法の下の平等に基づいた解釈で正当化したしたところで、それは、自衛隊を憲法9条に違反していないと言ってる様なものにすぎない、というのが本当のところだろう。

「もういい」について。
例えば推理小説で、名探偵の推理を聞いていた犯人が「もういい」といって名探偵の話を制止するパターンが有る。
これも、犯人が言いたい事は本当は「これ以上はいけない」という事であるはずです。
「もういい」=「もう十分です」=「これ以上は言わなくてもよい
これもMAYとMUSTのすり替えです。
何十年か前までは、この言い方を聞いた事は有りませんが、いつごろからか、このいやらしい言い方を多くの人がする様に成りました。
「もう来なくていい」についても言える事ですが、「もういい」も、実際には成立していない前提用件がまるで成立してでもいるかの様に言う種類の言い回しです。
「もう十分です」というのは、貸しを返させている者が、借りを返している者に向かって言う上から目線の言い方です。
実際には、その様な貸し借りが前提として存在しないのに、存在するかのように言って、言われた人をカッコ悪くし、自分がカッコ悪く成らない様に偽装しているわけです。



最終更新2023年04月18日