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「AならばB」と「BならばA」は違います。
例えば、「日本人ならば人間である」は正しいけれど、「人間ならば日本人である」は間違っています。

「新宿区民ならば東京都民である」は正しいけれど、「東京都民ならば新宿区民である」は間違っています。
それなのに、「AならばB」だから「BならばA」だとか、「BならばA」だから「AならばB」だと主張するのが、必要条件と十分条件を混同する詭弁です。

「AならばB」が成立する事を、AはBの十分条件だ、BはAの必要条件だ、と言い、これは高校数学で習います。
この様な、常識で考えるだけで分かる、中学生でも分かる事なのに、義務教育の中学数学で習わず義務教育外の高校数学で習う様にしてあるのは、集団ストーカー工作ではないか。

精神病患者ならば病識(自分は病気だという自覚)が無い、お前は自分を「病気ではない」と言った、従がってお前は精神病に掛かっている、という屁理屈が、この詭弁の実例です。
精神病に掛かってない健康な普通の人に「あなたは精神病ですか?」と質問しても「いいえ」と答える場合がほとんどでしょう。
つまり、精神病に掛かってない健康な普通の人も大抵は病識が無いわけです。
また、病識が無いならば精神病だとするならば、それだけで診断できるはずですが、精神病であるか否かを診断する正規の方法としてそれだけで十分だとは正規の文献にはどこにも書かれてないはずです。
間違ってるんだから、書けるはずが無い。
書いたら尻尾をつかまれるからね。

普通は「ならば」なんて言葉は使わない。
「ならば」を「は」で済ませる事が多い。
必要条件と十分条件を混同する屁理屈にだまされてしまう人が多いのは、そのせいです。
普通は、「新宿区民ならば東京都民である」とは言わず、「新宿区民は東京都民である」と言います。
算数で等号(=)を「は(wa)」と読む事も考え合わせると、
1 + 1 = 2(1たす12) と 2 = 1 + 1(21+1) は同じ事であるから、
「精神病患者病識が無い」=「病識が無い人精神病患者だ」
という間違った思考回路に陥る。

映画「シャッター・アイランド」の洞窟のシーンで、登場人物女性が「頭がおかしいと言われ、反論すればするほど裏付ける事に成る」という台詞を読む。
私の録画には途中コマーシャルが入っているので正確なタイミングは分からないが、私の録画では開始から01時間04分21秒頃に始まる台詞です。
フィクションの映画ですが、この事と、私が父ウダオサムから「精神病患者ならば病識(自分は病気だという自覚)が無い、お前は自分を病気ではないと言った、従がってお前は精神病に掛かっている」と言われた事を合わせると、必要条件と十分条件を混同する屁理屈が常套手段として使われて(集団ストーカーのマニュアルに入って)いる証拠に成るだろう。
頭がおかしいという意見に反論すればするほど頭がおかしいという意見が正しい事を裏付ける事に成る、なんて事は全然ない、というのが、このページで私が説いている正しい理屈です。
父ウダオサムから「精神病患者ならば病識(自分は病気だという自覚)が無い、お前は自分を病気ではないと言った、従がってお前は精神病に掛かっている」と言われた、という私の証言だけなら、ウダオサムは「そんな事は言ってない」とか「お前の聞き間違いだ」と言って否定してくる可能性が有る。
フィクションのドラマの台詞だけでは証拠に成らない。
しかし、両者が符合するとなると、それは、そういう犯罪手口が普及している証拠だと言えるはずだ。

敵は被害者の業務を妨害して被害者の業務が被害者の思い通りに行かないようにした上で、被害者を「自分の思い通りに行かなければ怒る」人だと言って非難する。
「自分の思い通りに行かなければ怒る」というのは、自分の思い通りに行かない事が怒る為の十分条件だ、という意味である。
しかし、業務を妨害されなければ思い通りに行かなくても怒らないような人については、この条件は成り立っていない。
したがって、思い通りに行かない時に怒っている様子を指して、自分の思い通りに行かない事が十分条件である証拠だと主張するのは誤りだが、敵はそうする。
怒るのは究極的には思い通りに行かなかった時だけかどうかも良く考えてみないと分からないので、、自分の思い通りに行かない事が怒る為の必要条件であるかどうかも怪しい。
思い通りに行かないから怒るのではなくて邪魔をされたせいで結果が思い通りでなくなったから怒るのだ。
こう言うと、今度は敵は被害者を「何でも他人のせいにする人だ」と言う。
しかし、それなら、なぜ最初からそう言わなかったのか。
思い通りに行かなければ怒る、という主張が論破されたら、他人のせいにする、と言うのでは、他人のせいにするというのも、「思い通りに行かなければ怒る」と同じで、ただ言ってるだけなのではないか。
「思い通りに行かなければ怒る」は間違っていた、という前科が有るので、「他人のせいにする」も信用できないのである。
また、「他人のせいにする」と主張する事は被害者のせいにする事だから、被害者と犯人が互いに「お前のせいだ」と言い合ってる状態に過ぎず、この主張によってどちらかが正しい事が証明されたことには成らない。



最終更新2023年09月06日