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< 理論によって実験結果を否定する > | ||||||||||||||
このページは、執筆中・未完成です。 物理学などの自然科学では、理論の是非は実験によって決められます。 つまり、実験結果が理論に合わないならば、その理論は間違っていると判定されるわけです。 実験結果が理論に合わなければ実験結果が否定される、なんて事は無い。 これは、自然科学だからというわけではなく、何事にも言える事です。 例えば、交通衝突で大きな損害が発生し、運転手は「ブレーキが効かなかった」と証言し、自動車メーカーは「調べてみたが車体に異常は無かったのでブレーキは効いたはずだ」と主張する、といったタイプのケースが幾つも見られます。 この場合、「ブレーキが効かなかった」というのが実験結果に相当し、「調べてみたが車体に異常は無かったのでブレーキは効いたはずだ」というのが理論に相当します。 したがって、まず大きな構図としては、自動車メーカーの主張を根拠に運転手の証言を否定する、という推定から出発する事は、裁判の態度としては根本的に間違っている。 ただし、運転手がウソをついている可能性を考慮すれば、「ブレーキが効かなかった」事だけは確かだ、と認定するのも間違いです。 だから、罪刑法定主義で天秤に色々な証拠の効果を乗せて行くのに倣って、運転手がウソをついている可能性の効果を天秤に乗せるみたいにして、出発点である「ブレーキは効かなかったろう」という推定から少し違った推定に移行する、という事の繰り返しで、推定を改善して行くのが正道だろう。 もちろん、自動車メーカーが車体の異常を見落とした可能性も考慮されねばならないが、これは、出発点からの移行をもたらさない。 しかし、運転手や自動車メーカーがウソをついている可能性まで考えれば、かなり疑り深いと言えるだろう。 「疑い過ぎだからけしからん」という意見は退けねばならないが、そういう事を言う人も出るかもしれない。 その基準で考えると「妄想」の可能性を持ち出すのが、いかに苦しい言い逃れじみているかが、良く分かるのである。 |
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最終更新2024年01月25日 | ||||||||||||||
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