since 2003
イレコナビ サイトマップ
< 武道 >
< 理論 >
< 空手以外 >
< 敵の手口を暴露 >
< 「糞(くそ)」 >

私はよく「法律がガサツなんだよ」と言うんですが、このページに書かれている事を読めば、その言葉の意味が伝わるかもしれない。
このページには、簡単に言って、程度の甚だしい悪というものが挙げられています。
そこで働いている程度感と法律が定めている罪の重さが、どこか肝心な点で異質な感じがするんですよね。
私の言ってるのは、また、法律は最低限の道徳を言ってるだけなんだから、それで十分だと思ってはいけない、人は本当は法律で書かれている以上にもっと道徳的でなければいけない、といった様な事ではありません。
そういう、されるだろうなあと心配な誤解も、このページを読めば解けたり未然に防がれたりする事でしょう。
過去に色々な心ある人、頭ある人が、私と同じ様な事を言おうとして、その度に「法律は最低限の道徳を言ってるだけなんだから、それで十分だと思ってはいけない、人は本当は法律で書かれている以上にもっと道徳的でなければいけない」という意味に曲解され、「いや、私が言いたいのはそういう事じゃないんだ」という意見を理解させる事が出来ないで来た、自分でも分からなくなってしまって「まあ、そういう事だ」と言ってしまったり、という事が繰り返されて来たのではないか。
私の所に来た敵の中には私に向かって「法律は最低限の道徳を言ってるだけなんだから、それで十分だと思ってはいけない、人は本当は法律で書かれている以上にもっと道徳的でなければいけない」という意味の事を言った人すら居る、敵の側の人が自分から言ってるという事なんですよ。
だから、これを被害者の側の人が言う事は敵の思う壺なわけです。
このページに書かれている様な悪に対して法律がザルに成っている。
また、敵がそう成る様に手配している。
善悪を分別する方程式という物があるとすると、現行の法律ではその方程式の変数のセットが的確に選ばれていない、と言ったら良いでしょうか。
つまり私が言いたいのは、方程式中の色々な係数の値が間違っているので直せ、とか、xの2乗と書かれている部分はxの3乗の間違いだろう、といったような事ではなく、現行の法律はx, y, z, ・・・についての方程式という形で書かれているが、それは少し的外れであり、本当はξ, η, ζ, ・・・についての方程式の形で書かれるべきである、といった様な事です。
現行の法律を
F(x, y, z, ・・・) = 0 and G(x, y, z, ・・・) = 0 and H(x, y, z, ・・・) = 0 and ・・・
だとし、本来あるべき法律を
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・
だとすると、敵が、永続的に実行し続けようという頑固な意思を終生変わらず持ち続け、それを世代を超えて継承する事を絶対に譲れないと考え、実際にそうして来た本当の意味での犯罪のセットは、
例えば、
(犯罪例1) = (ξ1, η1, ζ1, ・・・),
(犯罪例2) = (ξ2, η2, ζ2, ・・・),
(犯罪例3) = (ξ3, η3, ζ3, ・・・),
 ・
 ・
 ・
といった物だと考えられる。
これらが本当の意味での犯罪であるとは、これらが、どれも、
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・
に違反している、という事です。
そういう犯罪を取り締まるのには、直接
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・
を法律として置くしか無い。
代わりに
F(x, y, z, ・・・) = 0 and G(x, y, z, ・・・) = 0 and H(x, y, z, ・・・) = 0 and ・・・
という法律で取り締まっても、取締りが始まったばかりの頃しばらくの間は、(犯罪例1), (犯罪例2), (犯罪例3), ・・・ を敵は出来なく成ったり、するのが難しく成ったりはするかもしれない。
しかし、
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・

F(x, y, z, ・・・) = 0 and G(x, y, z, ・・・) = 0 and H(x, y, z, ・・・) = 0 and ・・・
が完全一致していない限りは、
F(x, y, z, ・・・) = 0 and G(x, y, z, ・・・) = 0 and H(x, y, z, ・・・) = 0 and ・・・
の解だけど
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・
の解ではない行ないが必ず存在する。
敵は、法律がどう変わっても、常にそういう行ないを見付け出してやって行こう、という考えで居る。
そのために、為政者が
Φ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Ψ(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and Π(ξ, η, ζ, ・・・) = 0 and ・・・
を直接法律として置く事を絶対にさせないようにする。
これが「クソ」の本質なのかもしれない。

「クソ」という言葉は、元からある言葉で、別に私が発明したわけではありません。
特にこの言葉が便利だから積極的に使って下さい、と勧めるつもりはありません。
私がこのページを書き始めたのは、私の発言の中に「クソ」という言葉が含まれていた時に、その事を根拠に敵が私を悪者に仕立て上げる事を出来なくする目的でです。
私が「クソ」という言葉をどういう意味やニュアンスで使っているかを説明する事は、敵の犯罪や敵はどういう物なのかを説明する事に非常に近くなりそうなので、その作用も利用したい。
「クソ」という言葉を聞いて顔をしかめる人を見た事が私には過去に何度も有るし、私が「クソ」という言葉を発した時に居合わせたのではない敵が、伝聞に基づいて私のその発言を重罪認定し、もう何十年も前から、それに基づいて行動する様に成っているらしい、とも感じています。
基本的に、「クソ」という言葉が意味内容的に過ぎている、と悪気無く感じる人は、人間が行なう悪行として頭に思い浮かべる事が出来る範囲が現実に遠く及ばないのだと思う。

また、私には、「クソ」という言葉では足りない、「クソ」と言う以上の事が出来ないのが悔しい、と感じる事も多い。
言語に絶する、とか、筆舌に尽くしがたい、とかいう表現があるように、そういう物事は実際に有る事は常識として知られている。
そういう場合には、「クソ」という言葉では足りないのに、「クソ」という言葉を過ぎていると非難される事は非常に不条理です。
したがって、「クソ」という言葉よりももっと的確に敵の悪い所を表現している言葉を私も常に探していますが、まだ見付ける事が出来ません。
「クソ」という言葉が最も適している、とは私も考えていないんですよ。
過ぎているのではなくて不足だと思っています。

テレビドラマで、最近は無いかもしれないけど、昭和の時代には時々見かけたんだけど、悪役が主役側の人を、例えば殺そうとするなどのシーンで、殺されそうな人はこれではもう助からないだろうなあという風に見える時に、その被害者が悪役を言葉の限りを尽くして非難する、それに対して悪役は「何とでも言え、言ったところで何に成る、お前はもう死ぬんだ、それまでせいぜいわめくんだな」といった様な事を言う。
細かな事は覚えていませんが、大体こんな感じの例が典型的なパターンとして有った。
この時、被害者は、言葉で何を言おうが、それが言葉であるかぎりは、悪役の行ないに十分な報いを与える事は出来ないわけですよね。
悪役のやっている事に報いるには言葉では全然足りないわけですよ。
私が「クソ」という言葉を使う時は、大体そんなニュアンスです。
テレビドラマの悪役が、被害者の発言内容に何か道徳的な間違いがあると言って被害者を責める事は、その間違いがどういう種類のものであっても、明らかに間違っているわけです。
差別発言だったらいけないとか、犯人の職業を侮辱する発言だったらいけないとか、あるわけないだろう、何言ってんだ、とんでもない話です。
もうそのぐらいでいいだろう、それ以上言うな、という風に私は言われた事が有るんですが、そういう制限も有り得ない話です。
行ないで害された事に対して言葉で抗議したり報復したりする事は、クソの屁理屈を正当化する意味以外では、無制限である、幾ら言っても言葉で言っただけでは全然足りない、というのが当然です。
それなのに「もうそのぐらいでいいだろう、それ以上言うな」という制止を無視して私が自分の言い分を最後まで言い切ると、「もうそのぐらいでいいだろう、それ以上言うな」と言った者が私に向かって烈火のごとく怒り出し、私に罰として実害を受けさせるぞという意味の事を言ってるみたいだった事が過去に複数回ある。
私が言い過ぎているからいけない、というよりも、文末を言わせないようにしている、という感じだった。
私の言葉が辛辣である事に対して、どうしてそこまで言うのかときかれれば、殴ってはいけないからだ、と言えば分かるだろうか。
本来は殴ったり蹴ったりして叩きのめすのが当然であるのに、不条理にもそういう事をしてはいけないというルールを通用させられているので、悔しいけど言うだけにしている。
その発言に言い過ぎだとケチをつけるというのは、際限の無さという点でか、「クソ」に分類される態度である。


私が前々から思ってる事は、各人が人生において経験する事は全て社会との授受だけでなければいけない、という間違った考えが日を追うごとにますます支配的に成って来ている、という点です。
分かりやすい例を出すと、日本でも高度成長期の途中のいつ頃かには、余暇の増大という事がもてはやされました。
私の住所の近所に華鳥美術館というのがあって、その館内に創設者の言葉が掲げられているのを見た事があるのですが、そこには、そういう思想(余暇は豊かさであるみたいな思想)が書かれていました。
もし仮に人生の中心は余暇であるとすると、社会が能力主義であろうとなかろうと、人生の出来高は各人の能力に比例します。
余暇においてどれだけの事が出来るかはその人の能力で決まるからです。
私が言いたいのは、社会が能力主義であるか否かよりも、個人が社会に組み込まれ過ぎている事の方が本質的な問題だ、という事です。
そして、個人が社会から独立していれば各人の人生はその人の能力相応に成るのだから、個人を社会に組み込み尽くしてその余地を与えないのは、人生が能力相応に成る事自体をメノカタキにする人がやっている事。
そういう批判を受けるので、いや、そんな事はないんですよ、という風に弁解する形で、社会を能力主義にしてある、というこういう構図で私は考えています。
当初の出発点において、社会が能力主義であるのは、社会が個人からその個人を奪い尽くすには、能力主義にしなければ言い訳が立たない、という理由でのことだと私は思う。
こうして出発した能力主義が、それから長い年月が経って誰もその事を答えられなくなった頃(=個人が社会に組み込まれ尽くしている状態は当然の大前提であってそもそもそこがおかしいんだとは誰も思い出せなく成った頃)に、社会が能力主義っておかしいと思いませんか、って言い出す、これも敵がやりそうな事なんですよ。
つまり、個人を社会に組み込み尽くす事と、社会を能力主義ではなくする事、これら2つによって能力の劣った人が能力の優れた人の持って生まれた生命の輝きを、その人が人生において享受する権利を自然権的に持っている自分の先天的な資質を、潰してしまう、という目論見がまず存在して、しかし、それら2つを一挙に同時に実行したのでは言い訳が立たないので、まず片方を、そして十分に時間が経ってみんなが忘れて何がどうだとは説明できなくなった頃に残りの片方を出して来る、こういう事なんじゃないのか。
「クソ」という言葉を私がどうして使うのか、どういう意味やニュアンスで使っているのか、分からない人や故意に曲解しさせるする人には、この例が役に立ちそうだ。
もし本当に、こういう考えでこういう事をしている人が居るなら、そういう考えや行いや人は「クソ」である、と言われるのが正しい、と思いませんか。
また私は、能力が低いから「クソ」と言ってるのではない、そういう事をするから「クソ」と言っいる、これも違った風に曲解させようと敵がしていませんか。
~してはいけない > ~してもよい > ~しなくてもよい > ~しなくてはいけない、という義務や許可の序列において、悪くても「~してはいけない」のか「~してもよい」のかが論争されるのが本来当然である問題(例えば殺人や虚言)を、最初から「~しなくてもよい」のか「~しなくてはいけない」のかという問題にすり替えて、答えとして「~しなくてもよい」と「~しなくてはいけない」の2つしか選択肢を与えない態度。
これも、私が前々から思っている「クソ」のニュアンスです。
---
例えば、警察の冤罪について、これは人間はどうしても間違えるのだから仕方が無い、冤罪を絶対にいけないとは言えない、という意見と、いやいや冤罪なんて絶対にあってはいけないでしょう、という意見が対立して論争している状態、これは理解できるんですよ。
それらの片方が間違っていたからといって、それを「クソ」とは私は言わない。
しかし、警察の本業は冤罪であって、他の業務は警察を世間に信用させる為の周辺的業務に過ぎない、警察は冤罪する為に有るんだから、冤罪が通用しなければ警察の意味が無いんだよ、という意見が有ったとしたら(私は有ると思ってますが)、これは「クソ」ですよね。
「クソ」っていう言葉じゃ足りなんだけど。
---
間違えてもよい、というルールは理解可能だが、間違えなければいけない、というルールは「クソ」である。

あなたの言ってる事は間違ってるからいけない、と言っていた人が、正しくてもいけない、と言い出すなどの際限の無さ、これも、私が前々から思っている「クソ」のニュアンスです。
例えば、ルールが正しいか間違いかを自分が勝つか負けるかで決める態度は明らかに不当である、と私は思うのですが、この点に誰も異論は無いのではないか。
つまり、テニスでも野球でも将棋でも、そのルールでは自分が負けてしまうからそのルールは間違っているんだ、とか、自分が負けてしまったのでルールは間違っていたんだ、という考えは、自分が負けるからという理由を隠して他の理由で言い掛かりをつける行為も含めて不当である、という事です。
こういう不当な態度はとてもいけない事なんだけど、私はこれまで、それだけでは「クソ」という言葉を使って来なかった様に記憶している。
しかし、ルールが正しいか間違いかを自分が勝つか負けるかで決める態度に際限が無ければ、私はそれを「クソ」だと言います。
際限が無いというのはどういう事かと言うと、それは、ルールにケチをつけてルールを変えさせ、それでもまだ自分が負けるなら追加のルール変更をさせる、という事を際限なく繰り返す、という事です。
---
例えば、以上の基準の「際限なく繰り返す」という部分に着目して犯行を有限回でやめ、しかし、有限回だが非常に多数回である様な場合、そういう事をする人も「クソ」だと私は言います。
私の所に来て善悪の判断基準を私に質問して「(それで)ええんじゃの?」と言って帰って行った人が居る。
そういう事は私のこれまでの人生で複数回ある。
全部同一人物だったのか、それとも異なる複数の人が来たのか、分からないが、そういう人は自分で善悪の分別が元からついていて、私がそれを言葉で的確に表現できないのを当てにして、私の返答と自分で元から分かっている善悪の分別を帰って比較し、自分が元から持っている分別では悪事だとハッキリ分かっている事だが私の返答にはその事が含まれていない物を探し出し、それを実行する、最初からそのつもりで居る、探せば必ず私の返答の中に不備が有るはずだと最初から考えている、こういう人も「クソ」だと私は言います。
また後年わたしが宇田経済学や相対正義論という形で、抜け道をふさごうとし始めると、今度はその言説自体を間違っていると言ったり、正しくても言ってはいけないと言ったり、そんな論法を駆使されたのでは抜け道が無くなってしまうという理由で、そういう言い分で妨害しにかかって来る、不備が有るだろう(抜け道があるだろう)と思っている間は私の言う事を「(それで)ええんじゃの?」と言って丸呑みするくせに、抜け道が無いと分かると拒絶する、受け入れるか拒絶するかをそんな事で決めている、そのせいで態度に一貫性が無く途中で態度が変わる、こういうのも「クソ」です。
最初から善悪の分別がついている者が、善悪のうちの悪い方の事をやり続けようという終生変わらない意思を持ち続け、例えば法律などのルールは、悪行のやり方を制限するものであり、悪行自体を禁止する目的のものではない、というひねくれた考えを持って、それを「大人のゲーム」という言葉で表すなど、大人や社会という概念を履き違え、新犯罪に対処して法改正を行なう立法者に対して、「次はどういうルールに従いながら犯罪すればいいんですか?」という態度で臨む者、悪行の中にはルールが禁じていない物が残っているからそれをやろう、どころではなく、色々な悪行のうちの1つたりとルールによって止められてはいけない、という考えの者、ルールが止めるのは悪行の手段だけであり、悪行の目的達成は1つたりとルールによって止められてはいけない、という考えの者、こういうのを私は「クソ」と言っています。
例えば、当ページに書かれている様な事を見れば、宇田雄一が「クソ」という言葉を使って他人を非難したからと言って、それも私の話を良く聞いてみれば全く理にかなった事である、と分かるはずです。
どうせそんな事だろう、これについてもどうせ宇田雄一は間違っていないんだろうなあ、と分かっている犯人が、直接わたしと話をすると、私の発言を聞いて、やっぱり案の定「クソ」という言葉についてもこいつは正しく考えていやがった、と確認できてしまう事を忌まわしいと感じて、それを避けるために私とは話をせず仲間内だけで曲解や誤解に基づく議論を進めて私に有罪判決を下し、罰名目で私に実害を加える。
この様な発言態度や行動態度やそういう事をする人、これも私は「クソ」という言葉で表現します。
いわゆる「盗っ人猛々しい」という言葉で表現される態度や、その根拠だと犯人が主張する屁理屈や、そういう事を言ったりしたりする人も、私は「クソ」という言葉で表現します。
全部ではなく、軽いものについては私は「クソ」とは言わないかもしれない、良く思い出せないが、その様な態度が執拗・頑固な場合には「クソ」だと私は言います。
競争における不正について。
ルールを歪めたりドーピングなどで自身を不正に改変する、というのに比べて、競争相手の心身を改変する事の方がずっと重く、「クソ」という評価に成り得る。
1つの試合の直前に競争相手の飲料に下剤を入れる、というのは常識的には最悪の不正だと見なされるだろう。
そういう行為でも、競争相手の言葉の信用(金銭貸借という意味ではない)を失墜させ、その事によって何かの争いにおける被害・加害の関係の認定を裁判などで逆転させるなどに使われれば、「クソ」で有り得るが、私が「クソ」だと言うのは、もっと悪い行ないです。
医学の基準と法律を歪曲して競争相手が治療名目での傷害を受ける義務を負う様にし、そうやって競争相手の競争力を低下させ、話題にものぼらない人にしてしまうなど。
中でも、その傷害の内容が、人格の改変に及ぶ物は、「クソ」という言葉では足りない。
精神病冤病の強制入院はその一例です。



文字通り固体の排泄物という意味ではなく人や人の行ないを表すために比ゆ的に用いられる「クソ」という言葉に私が最初に出会ったのは、多分、福山市沖野上町に住んでいた小学生の頃だ。
つまり、多分この「クソ」という言葉を使う事は私が始めた事ではない。
福山市沖野上町に住んでいた小学生の頃に聞いた言葉が「クソ」であったか否かをハッキリとは思い出せないので「多分」と書いておいた。
「クソ」であったか否かをハッキリとは思い出せないが、違っていたとしても似た言葉だった。
私が小学生だった頃、福山市沖野上町の自宅の近所屋外で、多分自宅内でではなかったと思う、私と同世代の男子児童が私に、警察官の1人が「最近やり方が筆舌に尽くせないぐらい汚い犯罪が新規に起き始めている」という意味の事を言うのを聞いた、と私に言った。
その警察官の発言の中に「クソ」だったか何かそんな言葉が含まれていて、「やり方が筆舌に尽くせないぐらい汚い」という部分は、その言葉で表現されていた。
それを聞いた私は、自分のそれまでの経験からでは計り知れない様な事が身近な所で起こっているんだな、と思い、想像の限りを尽くして、どんな事なのか憶測してみた。
2010年頃だったか、自宅母屋1階居間で、母ウダマチコから私(宇田雄一)の今後の予定進路を質問された席でだったと思うが、私がウダマチコに「私は何も悪い事をしないように日頃から心がけているので何も心配する必要が無い」という意味の事を言ったら、ウダマチコは私に「何も悪い事をしない人をも大きく害する方法が有るのだ」と言われた。
それを聞いた私は、その内容を「肥溜めのクソ」という言葉で評した。
私は、その場でそう発語した。
それを聞いて直ぐにウダマチコは、顔を南に向けながら「まあ、恐ろしい」といった意味の事を言った。
その時わたしは西向きに座っており、ウダマチコは東向きに座っていたので、ウダマチコは右を向いた事に成る。
---
ウダオサムが私に、犯人の1人の事を言ってるらしい時に手に持った物差しか工具で南方を指した事が有る。
ウダマチコが顔を南に向けながら「まあ、恐ろしい」といった意味の事を言った事と考え合わせると、切迫級の犯人が南方近所に住んでいるらしい、と判断できる。
その犯人は、自分のやった事がどんなに悪い事であっても、その悪事を「肥溜めのクソ」という言葉で揶揄されると、された人がされる前に「恐ろしい」と感じるような追加の犯罪を行なう性質を持っているようだ。
自傷他害の恐れが有る、というなら、そういう人がそうだろう。
---
2026_0530_2234
ウダオサムがぶっ倒れた事についてウダマチコから話を聞いている際に、前2件でウダマチコとウダオサムが差した重要犯人は、私(宇田雄一)の自宅の南南西、高屋川北岸土手の北脇、ムネオカ(ウダマチコの実家)の東近所に位置するイワカワの事ではないか、と思う様になった。
過去に、このイワカワの家で人が死んだ時に、警察が非常に念入りに調べていた、ウダオサムが死んで我が家がそう成る事を懸念する、とウダマチコは言った。
イワカワの家で人が死んだ事について警察は殺人を疑っていた、とウダマチコは言いたかったのだろう。
因みに、我が家の西南西隣の家の人の死に顔が異常だったとウダオサムが言うのを1990年代に私は聞いた。
また、ウダオサムの母(ウダ・テル)の死に顔を葬式で見て異常だと私は思った。
苦悶の表情と言うか何かそんな感じの異常な表情だった。
やはり2010年頃だったと思う、私が西方から帰宅しようと自転車で東進している途中、現在の淀電子第1工場の真東辺り、井原鉄道の高架線路の下をくぐる辺りで、自分が走っている公道の北脇にある民家から、幼児を含む人が道路に出て来ていて、それを見た瞬間わたしは直ぐに当たり屋だと分かったので、「なんだ、このクソみたいなもんは」と独り言を言った。
犯人には聞こえないはずの距離と声の大きさだった。
当たり屋だと私が気付いたので犯行が成功しなくなったからか、私の「クソ」発言を何らかの方法で傍聴したからか、直ぐに助っ人であるに違いないスクーターが西進でかけつけ、通過して去った。
道路に出て来ていたのは幼児1人だけだったのか、大人も居たのか、幼児も複数だったのかはハッキリとは思い出せない。
玩具にまたがって私に背を向けた(=東を向いた)向きの幼児複数人と父親らしい成人男性1人が道路に出ていて、幼児は女性だった様に何となく記憶している。
道路に出るタイミングが私が近付く直前だったかどうかも思い出せない。
幼児が怪我する事をかえりみない点と幼児に怪我をさせたという罪を私が負わされる事は私にとって甚大な被害である点など手口の特徴を私は即座に「クソ」だと感じたのだった。
これが2026年まででは近年の私の「クソ」発言の皮切りだった。
2015年、自宅の近所の山腹にある堂々公園という名前の公園で空手の練習をしていた時、イエスキリストの「山上の垂訓」というものについて、どういう話だったかもう忘れたが私が「山上の垂れクソ」という言葉を含む独り言を言っていると、警察官風の若い男の2人組が急来し、私が立っていたエリアの西縁と東縁に分かれて私の両脇を南進歩行して去った事が有った。
この2人組の片方または両方が現行犯に対処する様な感じで「クソと言ったぞ」みたいな言葉を私の近くで発した。
ハッキリとは聞き取れなかったが、多分そういう内容だった。
2015年10月@日記で私が報告している警察官と同一人物かどうかは分からない。
警察官の制服は着ていなかったと思う。
スーツ姿だったろうか。
信教の自由には、信じる自由だけでなく信じない自由も含まれる。
キリスト教の信者など誰かに対面してキリストを侮辱するのは良くない場合もあるだろうけど、盗聴でもしていない限り自分だけにしか聞こえない声でキリストを侮辱しても、それは私の信教の自由に属する事である。
それを取り締まりに来たのは、信教の自由の侵犯なんだよ。





以下は下書きです。
また、「クソじじい」という言葉がある事から、この言葉で指し示される人や行為が昔から人物や行ないの典型例の1つとして広く知れ渡っていた事が分かります。
ちょっとやそっとの事をやったのでは、クソとまでは言われないでしょう。
また、「クソじじい」という言葉は、例えば水戸黄門というテレビ・ドラマ


最終更新2026年06月02日