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< ヨハン・セバスチャン・バッハの楽譜が埋もれていたのは何故か? >

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私が大学生だった時、1990年頃の事です、東京都の西武新宿線の上井草駅と上石神井駅の両方から同じぐらいの距離に有る坂井荘という下宿の廊下で「いま自分をバッハの音楽がよく似合う人だと感じる」という意味の事を言うと、それを聞いた清水匡太が「それって、いけないことなんだよ」という意味の事を言った。

1995年頃、千葉県から広島県の実家に移住したばかりの私に、父(ウダオサム)が「バッハの音楽が好きな人には精神病の人が多い」と複数回言った。
不審に思った私がウダオサムに聞き返すとウダオサムは「客観的な事実を述べたまでだ」と答えた。
確かに、ウダオサムは、バッハの音楽を聞く自由は制限されねばならない、と言ったわけではないのだから、その時には尻尾がつかめなかった。
しかし、精神病はほとんどが冤病だと分かってしまった今と成っては、バッハの音楽を好んで聞いていたという理由で不当に精神病人に仕立て上げられた人が多いらしい、という事がウダオサムの発言から分かる。
これは、バッハの音楽を聞く自由への甚だしい侵犯である。

音楽界から、バッハの音楽が特に差別されている、という証拠と成る言説を聞いた事は無い。
しかし、バッハの音楽は公演機会が極端に少ない。
テレビのN響アワーでも、バッハの音楽が演奏される事は希です。
2023年春、バッハの名曲の鈴木雅明さんによるオルガン演奏がNHK Eテレで放送され、とても素晴らしかったが、これもN響アワーの番外編でした。
公演機会の極端な少なさは「バッハの音楽が忌避されている」レベルに達していると私はハッキリ感じます。
ピアニストの中村紘子さんが、ベートーベンなど後の時代の作曲家の作品に比べてバッハの曲は未発達でつまらない、と言うのを聞いた事が有りますが、いわゆるヘイトスピーチの意味でのヘイト発言ではないし、そういう発言は他の音楽家を合わせても、聞いたのはそれ1件だけです。
同業者倫理のせいでしょう。
音楽家はジャンルを超えて音楽全体の人気を高めましょうよ、という暗黙の了解が有りそうだ私は思っている。
自分のやっている音楽とは異なるジャンルの音楽をけなせば、音楽全体の人気が減るので、そういう事はやめようよ、という同業者倫理が有るのではないか、という事です。

メンデルスゾーンによって発掘されるまでバッハの楽譜が百年間も埋もれていた理由は、このような不審事と同じ原因によってだと私は強く直感します。
そして、その原因が、敵の手口を暴露というこのセクションで私が取り上げている犯罪の動機と一致するだろうと私は見ています。

馬鹿のひとつ覚えみたいで言いたくないんだけど、他人の好みにケチを付けて干渉するものとしては、共産主義が真っ先に思い当たる。
共産主義者は特定の好みを「ブルジョア的」という言葉でけなして、禁止する。
共産主義が黒幕だなんてありきたりな答えが正解なのだろうか?
私は、共産主義も根本ではなく手口の1つに過ぎない、と思う。

2001年09月11日のアメリカ同時多発テロ事件の直後に、事件で崩壊した貿易センタービルの跡地(グラウンド・ゼロ)で誰かがバイオリン演奏をしている様子をテレビで何度か見た。
そこで演奏されていた楽曲はバッハの曲だった。
無伴奏バイオリン・ソナタか無伴奏バイオリン・パルティータだった。
他にその役が務まる楽曲は無かったろう、と思う。
モーツアルトの葬送曲では足りないのである。
つまり、バッハの音楽は高い精神性を表現する格調高い音楽であり、他の作曲家がどんなに偉ぶっても作れない様な音楽である事を、誰もが内心では分かっている、という事である。
死者に捧げる為に最高のものを出せ、と言われたら迷わずコレと選ばれる様な音楽がバッハの音楽である。
バッハの曲にはブルジョア的な楽想の曲も有るが、そういう曲も有り、私が好きなのは後者である。
そして、テレビコマーシャルで、楽想をからかうかの様にバッハの楽曲が使われる時には、ブルジョア的な楽想の曲が使われる。
バッハの音楽が忌避されていておかしい、と私が発言すると、そういう事が多いように感じる。
という事は、忌避されているのは、ブルジョア的な楽想の曲ではなく、高い精神性を表現する格調高い楽想の曲であるようだ。
この事は、何故忌避するのか、忌避する動機を推測する大きな手掛かりである。
ベートーベンやモーツァルトは忌避されないのだから、ドイツ人を差別しているという事ではないだろう。
また、バッハの楽譜を埋もれさせたのはドイツ人だろう。
グラウンド・ゼロで演奏されていた事は、古くて時代遅れの音楽だから公演されない、というのではない証拠だ。
空手をやめさせようとする種類の人は、空手をやめさせ終えると、自分が空手をする、という性質を持っている。
例えば、創価学会の池田大作さんが創価学会の集会で宗教の踊りを踊っている途中で、調子が出て来ると、「これ、なあんだ?」というニュアンスで空手の動作を見せるのを、YouTube動画で見た事が有る。
グラウンド・ゼロでのバイオリン演奏も、それと同じ現象なのではないか、と私は疑っている。
バッハの音楽は素晴らしいから忌避される、「お前、遠慮しろよな」という圧力が存在し、その圧力への忖度から公演されない、という事ではないだろうか。
しかし私は、この「素晴らしいから」という部分を「ホントの事だから」という風に言い換えたい。
バッハの音楽はホントの事を表現している、だから忌避される。
これは敵の心理の核心を突いている。

大乗仏教と小乗仏教の対比に例えると、バッハの音楽は、無伴奏バイオリン曲の様なブルジョア的でない曲も、大乗仏教ではなく小乗仏教に似ているだろう。
これもバッハの音楽が忌避される理由だろう。
ホントの事を表現しているのとは別の理由というわけではないが。

ブルジョア的な楽想の曲は私は嫌いだ、という事も無い。
バッハ以外の作曲家の作品の中に例外的に好きな曲も有る。

敵がバッハの音楽を忌避するのは、目を背けたくなる、耳を背けたくなる、という心理でではないか。
ドラキュラとか悪魔が十字架を直視できないのと同じではないか。

最終更新2023年05月24日