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このページは、執筆中・未完成です。

私は、未成年の頃に母ウダ・マチコから「あなたは何でも否定から入りますよね」という意味の事をよく言われた。
その当時ですら私は、当ページに書くような道理はわきまえていたので、そう言われると直ぐに、ウダ・マチコは変な事を言っている、私の発言には不都合な物が多いという理由で私の判断が偏っている事にしてしまいたいようだ、と察した。

証明責任の転嫁の項に書いた事と重複するかもしれないが、ここでは詭弁ではなく、詭弁を論破する基礎と成る道理を説明します。

例えば「明日は雨です」という内容を「明日は雨ではないなんて事はない」という文で表す事も出来る。
前者は肯定文ですが、後者は否定文です。
しかし、どちらも内容は同じなので、「否定」とか「肯定」というのは内容の属性ではない、という事です。
屁理屈に聞こえるといけないので、もっと良い例を後で探しておきます。
はい、探しました。
「私の月収は50万円未満です」=「私の月収は50万円以上ではない」。
内容は同じなのに、左辺は肯定文、右辺は否定文です。
これでもまだ「私の月収は50万円未満です」は否定的な意味を持っているので内容の種別が「否定」だ、と言う人が居るかもしれない。
そういう判断では価値判断が使われているのだと思う。
論理というのは、内容が真(正しい)か偽(間違っている)かしか問題にしない。
内容が好ましいか否かは論理学の対象外です。
つまり、「少ない」というのと「多い」というのは、論理学的には全く対等であり、論理学的には「否定」という概念には「少ない」と「多い」の関係(互いに他の否定であるという関係)を表すという使い方しかなく、価値が低いとか有害であるという意味は全く無い。
ただし、読み易くする為に、厳密には「少ない」=not「多い」ではない事を少し歪めて言いました。
価値判断と混同するのを防ぐ為には、次の例を考えれば良いだろう。
「私の借金は50万円未満です」=「私の借金は50万円以上ではない」。
内容は同じなのに、左辺は肯定文、右辺は否定文です。
これなら、「私の借金は50万円未満です」の内容の種別は「否定」だ、とは思わないでしょう。
他の例も挙げておきます。
「私は男です」=「私は女ではない」。
「私は女です」=「私は男ではない」。
「死んでいない」=「生きている」。
「生きていない」=「死んでいる」。

日常言語の文型についての「肯定文」「否定文」という区別は有るけれど、論理学上の命題(主張)についての「肯定命題」「否定命題」という区別は存在しないのです。
「この命題は肯定命題ですか?」とか「この命題は否定命題ですか?」という問題が数学の試験で出される事は無いわけです。
そうでしょ?見た事が無いでしょ?

ところが、「あなたは何でも否定する考えを持っている」という主張が支離滅裂だとは認定されないのが常識のレベルです。
したがって、常識のレベルでしか考えないならば、詭弁の餌食に成ってしまいます。
何でも否定するなんて不可能です。
何でも否定するなら「私の月収は50万円未満です」も否定しなければいけないし「私の月収は50万円以上です」も否定しなければいけない。
そんなのは無理です。

聞こえた個別の意見に対してまずその否定を証明しようと努める、という態度なら可能です。
しかし私は、子供時代から現在に至るまで一貫して、そんな事はしていません。
それは、聞こえた個別の意見とその否定のどっちが否定でどっちが肯定だ、という区別は存在しないからです。
聞こえた個別の意見に対してまずその否定を証明しようと努めるなら、意見Aが聞こえた時にはまずnot Aを証明しようと努める事から始めるが、not Aという意見が聞こえた時にはまずnot(not A)=Aを証明しようと努める事から始める事に成るが、私はそういう事はしていません。
Aは真だろうと予想すればまずAを証明しようと努める事から始め、Aは偽だろうと予想すればまずnot Aを証明しようと努める事から始めるのが普通だと思います。
私も、そうして来ました。

何でも否定しようとする傾向が強いのでなければ用心が足りないとか、何でも肯定しようとする傾向が強いのでなければ用心が足りない、という意見は間違っています。
なぜなら、用心というものは内容に対してするものだからです。
ある内容について否定しようとする傾向が非常に強いという事は、その内容の否定を肯定しようとする傾向が非常に強いという事です。
これでは、何でも否定しようとする傾向が強い事には成りません。
したがって、何でも否定しようとする傾向が強い、という態度は不可能なわけです。
最大限に用心する態度は、聞かされた話の内容が間違っている可能性と正しい可能性を同程度に重んじる態度です。
いわゆる半信半疑です。

この様な基本的な道理というのは、2024年頃までは、いわゆる陰謀論と呼ばれる言説を聞いた時にどういう反応をすべきかを考える基本に成ります。

他のページに書くべき事だろうけど、書き忘れを防ぐ為に、ここに書いておきます。
「火事だ」というウソが頻繁に発せられている状況では、「火事だ」と言われても、多分またウソだろう、と判断するのは当然の事です。
しかし、だからと言って、内容が「火事だ」では無視するわけには行かない。
「オオカミが来たぞ」というウソを繰り返して信用されなく成るオオカミ少年の話は、そういうウソをついてはいけませんよ、という教訓だけでなく、ウソつきが発する言葉だからといってその全部を無視すると間違いますよ、という教訓も我々に与える。
陰謀説も、最大限悪く言うなら、これに該当します。
間違ってると分かっていて故意に特定の陰謀説を言いふらす行為は、内容が「火事だ」なら誰も無視できないみたいな事を悪用しているので、罪が重い。
それでも一応気には留めておかなければいけない、それが陰謀説の特徴です。

私の父ウダ・オサムも、私に「そんな話を信じるようだから、お前は判断力が不足しているのだ」と言われた事が有る。
陰謀論についてだったかどうかは忘れた。
しかし、私は信じているわけではないのだ。
間違っていると断定しないだけだ。
つまり、正しいという意見も完全には信じないし、間違っているという意見も完全には信じない、というのが私の態度です。
それに対して、間違っていると断定するのが信じない事だ、というのがウダ・オサムの意見に成っている。
しかし、間違っていると断定するのは、間違っているという意見を信じ切るという事です。
この様な、言葉で誤魔化す態度が世間には蔓延しているので、それに巻かれない様にするためには、基本の道理をしっかり分かっておくのが有効です。

最初は、このページのタイトルを「否定と肯定は論理的には全く対等である」というタイトルにしようと思っていた。
タイトルを変更して分かりにくくなったかもしれない。
判断材料が全くない場合、否定の方が肯定よりも確からしいとか、肯定の方が否定よりも確からしい、なんて事は全然無いんだよ、という話をしたかった。

英語では、疑問文の文型が肯定文であっても否定文であっても、「Yes.」と返答するか「No.」と返答するかが変わりません。
「This is a pen.」の内容が正しいならば、疑問文が「Is this apen?」であっても「Isn't this a pen?」であっても「Yes, it is.」と答えるのが正しい。
日本語では、「これはペンです」の内容が正しいならば、疑問文が「これはペンですか?」ならば「はい、そうです」と答えるのが正しいが、疑問文が「これはペンではないのですか?」ならば「いいえ、ペンです.」と答えるのが正しい。
英語は日本語よりも論理的だと言われる事が多いが、この点については英語よりも日本語の方が論理的なわけです。
英語のこの特徴は、「否定」や「肯定」が内容の属性であるかのように誤解する人を増やす為に文法に犯罪工作が仕込まれている事を意味するのではないか。
「~が・・・頂く」の例を見れば、日本語のこういう部分にも破壊工作が来る心配をしなければいけない事が分かる。

否定と肯定は論理的には全く対等である事を念頭に置くと、「あの人は悪い人だ」という主張と「あの人は悪い人ではない」という主張は全く対等だし、「幽霊は存在する」という主張と「幽霊は存在しない」という主張も全く対等です。
これらに基づいてキチンと考えると、名誉毀損や現実検討能力不足について広く信じられている考えに見過ごせない間違いが含まれている事を発見できるだろう。
論理的に対等であるという事は、判断材料が全く無い場合には「あの人は悪い人ではない」「幽霊は存在しない」と推測する方がマトモであるという意見が間違っている、という事です。

一般に、「存在しない」という意見と「存在する」という意見が対立した時、どちらの意見の人も根拠を提示できないなら、「存在しない」という意見の方が有力視される(マトモな事を言ってる様に聞こえる)傾向が有る。
判断材料によってそう成るのは構わないけど、判断材料を考慮に入れる前の段階で背景色の様にそういう偏見が存在している。
これは人間に普遍的に存在する判断力の偏り(弱点、錯視図を見ると誰でも間違うみたいな事)です。
ガスライティング犯罪では、この偏りが悪用される。
だから、ガスライティング犯罪を通用させないためには、そこを理性で補正する事が有効だと思われる。


最終更新2024年06月08日