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2024年11月30日(土曜日)
世界人類普遍憲章の方向性

とりあえずページ設置のみ。

前文

どの1人も、他のどの1人についても、全く何の権利も有していない。

どんなに多くの人が相互に承認し合っても、その承認に参加していないどの1人についても、何の権利も生じない。

自分以外の人についての権利が生じるのは、その権利の行使に該当する行為を受ける人の承認を得た場合のみである。

これらが、自由の尊重や平等の尊重という規則や、知的所有権を含む所有権が自然権として個人に存する事の根拠である。

これらの規則への反対の害を防ぐ為であれば、暴力や武力の行使も不当とは限らない。

政治権力は全て、その権力の行使に該当する行為を受ける人の承認に由来するかまたは、そうでない権力への不承認の手段である場合にのみ正当である。
これが民主主義の本義である。※1
自分以外の人への権利を自分が神や仏から与えられたとする考えは、これに違反するし、結果の平等と共産主義や前提外因の不平等と独占主義は民主主義を真っ向から否定する考えである。※2

初稿2024年12月03日宇田雄一
最終編集2024年12月12日

※1 羽田敏明君、これが私の言いたかった事なんだよ。

※2 共産主義だけでなく、同和という思想もひょっとすると私が言う民主主義の否定かもしれない。
前提外因とは後天的に付与または剥奪される一切の事で、相続財産などの事を言っています。
前提外因という言葉よりももっと的確な言葉は無いか、探しています。

「どの1人も、他のどの1人についても、全く何の権利も有していない」とは「任意の1人は、他の任意の1人についての権利を、全く有しない」という意味です。
簡単に言うと、この前文は、「(私の所に)来るな」「(お前の所には)行かない」という意志は「(お前の所に)行く」「(私の所に)来い」という意志よりも優先されねばならない、参加しない自由は参加させる自由よりも優先されねばならない、という正義思想を表現しており、このレベルでの正義観の対立は、言っても分からないやつには暴力を使っても悪くないんだ、という基準を提示しています。
「人は助け合わなければいけない」とか「人は仲良くしなければいけない」という正義観と正反対の正義観を提示しています。
しかし、それでは個々の人が自殺を望めば自殺も何ら問題ないという事に成ってしまう、人間の自由意志を超えた生命への義務という物だって有るはずだ、という反論が考えられる。
世界の価値・意味は個人の幸福の単なる総和ではない、という意見も聞いた事が有るし、言われる前から自分でも思い当たっていた。
これについては私(宇田雄一)は、次の様に答える。
上記前文で提示した私の考え方は、物理学で言うとガリレイやニュートンの発達段階に相当する。
したがって、それは、相対性理論や量子力学や現代宇宙論に比べると、まだ未発達であり、無制限に正しいわけではない。
出来るだけ生きなければいけない、といった自然義務は、おそらく現代宇宙論における「3Kの背景輻射」の様な物に相当するだろう。
したがって、そういう義務は確かに有るのだが、有ると言っても極めて希薄であり、それを考え落とす事の害よりも不当に強調する事の害の方がはるかに大きい。
「人は助け合わなければいけない」とか「人は仲良くしなければいけない」という事を強調するとどう成るのか、過去にどう成ったのか、今どういう事が行なわれているのか、などを詳細にあげつらって、どういう基準が正しいのかを数学を研究するかの様な態度で研究する必要が有る。
世界の価値・意味は個人の幸福の単なる総和ではない、という意見についても同様です。
これは、実例で言うと、文化財や歴史遺産を保存する努力は全員分を合計すれば足りていなければいけない、という現行の法規にも見られ、それには私も賛成です。
私の主張は物理学で言うとガリレイやニュートンのレベル、それでも画期的という事は、現行の法規がアリストテレスなどの古代哲学まがいの無茶苦茶な事を言ってる、という事なんですよ。
3Kの背景輻射の様な自然義務を不当に拡大・強調する、というのは、それらの義務をダムを決壊させる蟻の一穴の様に使って善悪の判断を反転させてしまう様な行為です、角を矯めて牛を殺す様な、また牛を殺す事を目的に角を矯めている疑いも強い。
これが横行しているので、それへの対策として私は本稿を書いているわけです。
近年で言うと、ポリティカル・コレクトネスと呼ばれる考え方が、特にそうですね。
ここまでで私が提示している考え方では動物愛護の必要性も考え落とされています。
動物愛護の必要性も、物理学で言うと、ガリレイやニュートンの次の段階、相対性理論や量子力学の段階に相当する研究で、補われるべきです。
しかし、動物愛護の場合は、これを無視する事は人の権利の侵害につながって来るので、人の権利を保障すれば自動的に動物愛護も不完全ながら推進されるだろう。

とりあえず「世界人類普遍憲章」という名前にしておきますが、国家の憲法に相当する基本的な考え方を、世界共通の基準を、割り出しておくべきだと思う。
「国際」という言葉も入れた方が良いか。

人間が工夫して創作するのではなく、当たり前の事を研究して明らかにする、といった姿勢が正しいと思う。
自然法って言うのか。
つまり、世界人類普遍憲章はドグマではなく、数学の定理みたいな物です。
したがって、以下に私が書いている事も、数学で言うと証明されるべき「予想」に当たる物であって、証明作業を進めて行くと反証されるかもしれない物です。
参考:
06日@2024年11月@日記


世界人類普遍憲章という物を考える時、私は、既存の常識的な考え方とは正反対の考えが本当は正しいんじゃないか、と思う事が多い。
以下に、それを列挙する。

・ 労働者という身分の禁止。
・ 秘密の禁止。
・ 協力・結社の禁止。
・ 個人別方式の原則(個人主義への修正)
・ 無謝社会(感謝と謝罪の無い社会)を理想とする
・ 生物学的人種1つにつき1つの国を置く
・ 無条件禁止の禁止、無条件無制限許可の禁止
・ 必要を根拠としない義務の禁止、義務は必要最小限でなければいけない

秘密の禁止というのは、私信の禁止という意味を含みます。
つまり、通信は全て公開の発表の形で行なわれなければいけない、という考えです。

無謝社会というのは、悪い事をしても謝らない、過分の待遇にも礼を言わない、という事では無い。
何事もつりあっているのが理想であって、それでは謝が無いからいけない、いけないからつりあわないように狙って選択する、という態度の禁止です。

国については、2024年現在では移民の問題が大きく成っている。
アメリカ合衆国は、そもそもの建国が移民によってなされているせいか、多人種共存が国家の理念にすら成っているだろう。
それを世界の模範の常識と考えるなら、私が言ってる事は、その正反対です。
しかし、良く見てみると、イスラエルの建国についての話では、ユダヤ人の国という物が無くてはユダヤ人の権利を守れない、という考えが広く納得されている。
つまり、人種ごとに国が無ければいけない、というのは、当然の事ではないだろうか。
国と人種は無関係です、という風にするなら、人種ごとの互助組織は一体どこに有るのでしょうか。
元来、国という物が、その役割を担って来たのであり、その国を各人種から取り上げてしまったら、各人種は無防備に成ってしまうではありませんか。
アメリカ合衆国はアングロサクソン人種の為の国ではない、という事に成ると、アングロサクソン人種の為の国って、一体どこに有るんでしょうね。
英国はアングロサクソン人種の国だけど、アメリカ合衆国の人は、英国が嫌で英国から出たんですよね。家という物を比較の対象として国という物を考えれば、否定されがちな当たり前の事を色々と見付ける事が出来ます。
例えば、世帯という意味での家は、原則としては生物学的な親子関係を持つ数人の集団ごとに置かれ、壁で仕切られ、戸には鍵が掛けられます。
これを、1つの家屋の中に複数の世帯が住んで、その家屋の中は施錠される戸で仕切られていない、という風に変更するのは、正気の沙汰ではないのは明らかです。
実際、大規模自然災害で避難所では、そういう分離が不十分である事が問題に成っています。
国家という言葉では、国を家と考えている。

無条件禁止の禁止は、いついかなる場合も○×をしてはいけない、というルールをひとつも置いてはいけない、という意味です。
無条件無制限許可の禁止は、嫌がらせとして行なわれる様な行為を止める事が出来ない物だとする理屈の否定です。

必要を根拠としない義務の禁止には例えば、「みんなと一緒にやりなさい」とか「みんなと同じ様にやりなさい」という義務の禁止が含まれる。



記入
最終編集2024年12月21日