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2024年11月06日(水曜日) | ||||||||||
正義なんてタダの数学である | ||||||||||
とりあえずページ設置のみ。 「数学である」というのは「三角形の内角の和は180度です」みたいな事だ、という意味です。 私が言いたいのは、正義なんて面白くも何ともない無味乾燥な客観的な真理である、それはどうしようもない物だ、という事です。 私などは三角形の内角の和が180度である事も結構好きだし。 人の好みはそれぞれだから、そういう人も多いだろうけど、大抵の人は皆そうである、というわけではない。 相対正義論という物を私は作っているが、相対と言ってるからといって、正義は客観的な真理ではない、と言ってるわけではない。 アインシュタインの相対性理論も、相対という言葉で、単一の客観的な物理的事実が座標系によって違った風に表示されるという事を言ってるのであって、客観的な物理的事実なんて存在しないと言ってるわけではないのと同様である。 かと言って私は、自分の相対正義論がアインシュタインの相対性理論みたいな物で、現行の法理論はニュートンの古典力学みたいな物だ、と言ってるのではありません。 私は、現行の法理論はアリストテレス哲学に、私の相対正義論はガリレオ・ガリレイの科学に喩えられる、と思っています。 ニュートンの古典力学はガリレオ・ガリレイの科学よりも進んでいますから、現行の法理論は救い様が無いぐらい遅れている、と私は考えているという事です。 現行の法理論は古典にも達していない古代のぐらいだ、と私は考えています。 知らない人の為にさわりを説明しておきます。 アリストテレス哲学では、自由落下で物体は重い物ほど速く落ちる、とされていました。 ガリレオ・ガリレイは、空気抵抗の無い自由落下では重い物も軽い物も同じ速さで落ちる事を発見し、それまで何世紀も続いていたアリストテレス哲学を打破しました。 ニュートンは、ガリレオ・ガリレイの研究結果を基に、ニュートンの運動方程式という物を編み出し、物体のどんな運動も運動方程式を解けば出て来る事を示しました、これがニュートンの古典力学です。 どんな事が有っても暴力を振るってはいけない、なんて事を言ってる様では、自由落下では重い物体ほど速く落ちる、と言ってる様な物だ、という事を私は言いたいんだよ。 正義は守られて当然の事であり、正義に反する選択(行ない)は誰もずっと我慢し続ける事は出来ない代物である。 正義について人の強い感情が沸き起こるのは、正義に反する選択を見た時であって、正義自体に人が強い感情を持つ事は無い。 正義が素晴らしいなんて事は無い。 正義に反する状況が憎らしいだけである。 正義なんて、これには絶対に従わざるを得ないんだとサッサと諦めて、正義に反しない範囲内で出来る事を探して行なうのが賢明である。 数学でも、研究しても研究しても終わらないぐらい奥が深い。 正義にも、そういう面は有るに違いない。 そこを研究して新しい発見をする事は面白い、強い感情の対象に成る、それは有ると思う。 けれど、それは、時空は曲がっているから三角形の内角の和は180度では無いんだとか、光の速さは不変だから特定の2つの事件が同時刻であるか否かは観測者によって異なるんだとか、そういう種類の事であり、そういう種類の事が有るから日常現象の説明にニュートン力学が使えなく成るなんて事は無いのと同様に、正義の学者的な研究の結果によって当たり前の正義が根本的に変わってしまう事は無いのである。 正義というのは普遍の数学の一種である、と私が考える様に成った根拠に、次の様な観察結果が有る。 2人きりなどで話している時に、私が正義だと思っている事に反する主張をする人も、公の場では私が正義だと思ってる事を否定しない「もちろんですとも」という風に肯定する。 警察や被逮捕者が、取調べ室内で了解した事を裁判では否定する、みたいな事です。 こういう態度傾向が人間には広く見られる。 例えば、村八分というものは、二分以外ではつきあいをしなくなる事だと言われていますが、本当は、それだけではなく、積極的な加害も行なうだろうと私は見ています。 その事から、自分達が本当にやっている事をやっているとは公言できない事や、関係を絶つ事は一方的に行なっても犯罪ではないと考えている事が分かります。 本当は積極的な加害もしたのだろう、という事は、1938年に岡山県西加茂村で発生した「津山三十人殺し」や2013年に山口県周南市大字金峰の集落で発生した「山口連続殺人放火事件」の発生原因の中に証拠が存在しているだろう。 楢山節考の映画版に、姥捨てされる老婆が御飯を食べている時に、御飯の中に小石が入っていて歯が欠ける、というシーンが有った。 こういう事を色々やっていたはずだ。 御飯の中に小石というのは、1995年に私が現住所に帰って来たばかりの頃、私もされた。 大工のタチギからもらった米だ、米の中に小石が入っているのは本来は普通の事だ、と当時のウダオサムは言っていた。 また、その直前1994年に千葉県の新検見川駅構内の最上部にあった喫茶店で、確かホットドッグだったと思うが、食べていた時に中に骨片なのか小さくて固い異物が入っていた為に私の歯が欠けて歯科治療を受けた事があった。 食品中に歯や歯槽に怪我を負わせる事を狙っていると思われる固い微小異物が忘れた頃を見計らって混入している事は、今でも続いている。 また、私が正義だと思ってる事に反する事をあなたはした、という風に言われると、そういう事をして何が悪いんだ、という風に言い返して来そうなタイプの人間も、みな一様に非常に強く反発する様子を見て、それは罰を逃れる為だけではない、自分がそんな事をしたと他の人に知られるのは恥ずかしくて嫌だ、と感じているかららしい、と私は見ています。 そういう様子を見た時には私は結構意外だと感じるんですよ。 これらは、正義だと思ってる事は本当は誰でも同じである証拠です。 30日@2024年11月@日記 |
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最終編集2024年12月02日 | ||||||||||
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